夢喰
「疲れた。私、今日も頑張ったよ。バクちゃん」
ベッドにダイブすると、枕元で可愛く転がっているぬいぐるみにヒシと抱きつく。
柔らかくて癒されて幸せ。
カバとブタとゾウをシャッフルしたような愛嬌のある顔立ちにつぶらな瞳がたまらない。
毛はフワフワで身体は柔らかくもふもふ。撫でまわしよし、頬ずりよし、抱きしめよし、枕にもよし。
その包容力のある身体で、私の行為をなんでも受容してくれるバクちゃんは私の癒しだった。
色は紫がかった黒。夜空の色だ。実際のバクはこういった色合いではないが、ともかく可愛いので細かいことは気にしない。
ただその色合いが少し………いやかなり贈り主のローブの色に似ていることは気になったが。
あれはいつのことだったか。
ノクターンが話を終え、ディスプレイから姿を消した後、続いて姿を消すと思われたネイドの唇が三日月のごとく弧を描いた瞬間、私の腕の中に唐突にぬいぐるみが抱かれていたのだ。
「お礼です」
私が何の?と問う前に魔術士は懐から出した小さな袋を振ってみせ、淡く笑った。
「これがあるとよく眠れます」
ノクターンがいる時には見せたことのない純粋な笑み。いつも腹に一物抱えているんじゃないか、と深読みしたくなるような笑顔ばかりを作る彼にしては珍しい裏表のない微笑みだった。
今、思い返すと、あの時の魔術士はいつもと違う、私に対して昔なじみのようなどこか気やすい雰囲気をまとっていた。
その態度に違和感を覚えつつ、あれは勇者にあげたものであって、ネイドにあげるなんてことは一言も言っていないのだけれども。
そう言おうとした私は、嬉しげなネイドを前に言葉を呑んだ。
「そんなに気に入ってくれたの?それ、もう香りが消えてしまっていると思うわ。良かったらまたあげる」
気持ちとは裏腹な言葉が、ラベンダーのつぼみが落ちるように口からポロッとこぼれて私はびっくりした。
マンション暮らしの私には広い庭なんて縁がないが、ベランダのささやかな、猫の額ぐらいの狭い一角にプランターを置いて、ラベンダーを育てている。
時季になるとラベンダーは面白いように増えたから、そのまま枯らしてしまうのがもったいないと、刈り取ってポプリにすることを思いついた。
それに夏に花を刈ると、秋にまた花が咲いて、一年で二度楽しめるのも良かった。
刈り取ったラベンダーを乾燥させ、つぼみを瓶に詰めてエッセンシャルオイルをふり、ポプリを作る。時間は一ヶ月以上かかるけど、置いておくだけだから大した手間はかからない。
そんなわけで私は夏と秋に二度収穫したラベンダーで、自家製の香袋を大量生産して、部屋に飾ったり、タンスや下駄箱、トイレの中に置いて消臭に利用したり、友達に配ったりしていた。
「ありがとう」
私の言葉を受けたネイドは今までにないぐらい、はっきりと笑った。
本当に彼はどうしたのだろう。こんなに喜びをあらわにするような性格ではないだろうに。
これまでの数回の接触で、何を考えているのかよく分からない、胡散臭いという表現がぴったりくる男だと思っていただけに、いつもは確実にある隔たりというか、抑制を取り払ったように見えるネイドは不思議だった。
私は小物入れから作り溜めていた香袋を二個取り出すと、ディスプレイの向こうの彼に見えるようにして机の上に置いた。
こうすれば前回みたいにネイドが持って行くと思って。
しかしネイドはにっこりと笑い、それを見た私の背すじには、なぜかゾワッと鳥肌がたったのだが、彼が胸の前で両てのひらを上に向けてきちんと並べ、ちょうだい、とのたまった時には、背中から首すじまでを羽根で撫でられたようなこそばゆさと、どこからともなく湧き上がってきた不快感で身を震わせた。
なんだろう。この男にこういう仕草をされると苛立たしいを通りこして気色がわるい。
ノクターンならば可愛いだろうけれど。
「前みたいにここからそっちに移動させればいいじゃないの」
ブスッとした表情を隠しもせずに言ってやるが飄々とした魔術士に効果があるはずもなく。
「あなたの手から直接贈られたいんですよ」
「そんなこと出来るの?」
「身体ごと移動はいろいろと差し障りがありますが、手ぐらいならたやすい」
私はじっと彼の口元を観察した。彼の鼻から上はフードで隠れてしまっているので、露出されている部分で判断するしかない。
本当に大丈夫なのか。私の手が異次元に呑み込まれて喪失してしまうなんていう事態にならないのだろうか。
「大丈夫。誓ってあなたに危害を加えたりなんてしない。だってあなたは俺の………」
私がネイドの何だと言うのか。しかし語尾をあいまいに濁すと魔術士はいつもの怪しげな笑みを浮かべた。
「それにヤコに何かあったら、ノクターンに殺されます」
冗談めかしているのに、強引なネイドに逆らえず私はポプリをつかむと、恐る恐るディスプレイに向かって手を近づけていった。
ふいに室内ではありえない強めの風が頬に当たり、その衝撃に驚いて目をつむると、何かが私の手を掴んで引っ張る。そろそろと目を開いて現状を確認すると、私は悲鳴をあげた。
私の両腕がディスプレイに埋まっている。二の腕の手前ぐらいまでずぶりと埋まったその先、画面を隔てた向こう側にはネイドが身を寄せていて、私の腕を掴んでいた。
痛みは全くない。暖かくも冷たくもない。でも腕から先はあちらの世界の闇に呑まれているこの状態にえもいわれぬ不安を感じる。
手に汗がにじむ。動悸が激しくなる。
「ネイド………早く腕を」
弱々しい私の呟きを無視して、ネイドは二つのポプリをそっと取り上げると懐に大切そうにしまい込んだ。
「もう一個はノン君にあげて」
私はこの状態にいてもたってもいられない恐怖を覚え、引っ張られている腕を彼から取り戻そうとしたが、出来なかった。
「いやだ。アイツにはやらない。これはみんな俺の物だから」
突然ネイドの雰囲気が変わった。掴んだ私の腕をまじまじと見つめたと思ったら、私の右手の甲に顔を寄せて上唇と下唇で軽く肉を挟むと、音が出るほどきつく吸い上げた。
「………っ」
火事場の馬鹿力というのか。味わったことのない感覚とビリッとはしった衝撃にビックリした私は、ネイドの拘束を力づくで振り払うと、画面から腕を引き抜いた。
「噛んだわけではないから。そんなに痛くなかったでしょう?」
全く悪びれた様子もなく、しれっとのたまう男に腹が立って、かたわらにあったぬいぐるみをぶん投げていた。
「帰れ!二度と顔出すな!」
「ふふふふふ。おやすみなさい。また次の金曜日の夜に会いましょう」
ネイドはこちらの怒りも介さずさっさと姿を消し、私が投げたぬいぐるみは、当然魔術士に届くこともなく、鈍い音とともに何も写していないディスプレイに当たって落ちた。
「これなに?カバ?あまり見ないような動物だけど…」
ネイドからの贈り物であるぬいぐるみを拾い上げて眺めるも分からない。
ただ、毛並みがフワフワして気持ちよく、腕に抱いた柔らかい感触も非常に良かった。
ネイドは憎たらしいが、可愛いぬいぐるみに罪はない。
その晩から私は、ネイドにプレゼントされたぬいぐるみを傍らに置いて眠ることになった。
そしてその贈り物が、貘という夢を喰らう空想上の動物を象ったもので、それを抱いて寝ると、よく眠れる代わりに夢をいっさい見なくなるという代物であることに、だいぶ時を経てから気付いたのだった。
ネイドに吸われた右手の甲には紫色の花に似た不思議な形の痣が浮かび、一生涯消えることはなかった。