朝と夜そして向日葵 - 前編 -
「夜ちゃん。どうしたの? 傘持ってなかったの?」
玄関に出てきたなり、びしょ濡れの私たちを見て目をまるくする朝ちゃんに苦笑いしてみせる。
「ううん。傘はあったんだけどね。ちょっと極地的豪雨に見舞われまして」
「それは大変だったね。最近、ゲリラ豪雨が頻繁にあるもんね」
素直な彼女は私の小さな嘘をすんなり信じてしまう。
「馬鹿じゃないの。そんなに濡れる前に屋内なり屋根のある所に避難すれば良かったのに」
小夜が放り投げたバスタオルをキャッチして想夜は苦笑した。
「違いない」
「シャワー浴びるだろ?」
「うん。貸してもらえると助かる。でも僕よりも先にヤコに使わせてあげて欲しい」
「えっ。私はいいよ。着替えもないし、冬じゃないからその内に乾くでしょう」
小夜の視線が私の方に向く。何か言われるんだろうか。ドキッとするも、彼はすぐに視線をそらした。
「アサ。タオルと着替えの準備。頼んでもいいか」
「うん分かった。ね、夜ちゃん。遠慮しないで想夜君の言う通り先にシャワー浴びた方がいいよ。
女性の身体はデリケートで冷えに弱いんだから。冷やしたままじゃダメだよ」
「そう。じゃあお言葉に甘えさせてもらうね」
「ヤコは朝子さんと仲がいいの?」
私たちのやり取りが親密そうだったからだろう。
想夜が質問してきたので、朝ちゃんに抱きつくふりをする。実際に抱きつくと朝ちゃんも濡れてしまうのであくまでもふりだ。
「うん。私たち仲良しなの」
「ねー」
ふりのつもりでいたら、朝ちゃんの方から腕を絡めてきた。
朝ちゃんは今日もちっちゃくて可愛いし、何だかいい匂いがする。シャワーを浴びたら後で抱きつかせてもらおう。
「いつの間に………小夜知ってた?」
「いや。知らなかった」
想夜と小夜は腕を組んで笑い合う私たちに不思議そうな視線を向けていた。
朝ちゃんの好意に甘えてシャワーと着替えのワンピースをお借りした。
シャワーを浴びてさっぱりした後、ワンピースに着替えた私を見て、朝ちゃんは感嘆とも呆れともつかないため息をついた。
「うわぁ。やっぱりチビの私の服だとミニスカートみたいになっちゃうね。
それにしても夜ちゃん足長い。しかも細いだけじゃなくて膝下からふくらはぎの辺りのラインがすらっとしてすごく綺麗。いつも膝下のスカートばかりだけど、もっと短くても大丈夫じゃないの?むしろ可愛いし、男たちの視線が釘付けかもよ?」
「朝ちゃんみたいな二十代の娘さんならともかく、三十代の女に男の人は見向きもしないわよ」
冷めた私の反応に朝ちゃんはくってかかってきた。
「もう! 夜ちゃんってどうして年のことばかり気にするわけ。夜ちゃんはまだまだ充分綺麗です。想夜君がいつもやきもきしてるの、私知ってるんだから」
「どうして想夜がやきもきするのよ? 別に私は想夜みたいに告白されまくったり、道を歩くと注目されたりなんてこと全くないわよ。
私の方がよっぽどやきもきしてるわ」
「ですって。夜ちゃん全然分かっていないみたいよ?」
やれやれと両肩をすくめた朝ちゃんは私の肩越しにいる人物に声をかけた。
「うん。ヤコは自己評価が著しく低いから。
僕が一緒の時は気を付けてるんだけどね。一人の時は隙だらけだと思うと、心配でいてもたってもいられなくなるよ。
ところで朝子さん。せっかく出してもらって申し訳ないんだけど、もっと丈が長いワンピースかスカートないかな?」
「え〜。どうして? 可愛いからこのままでもいいと思うんだけど」
朝ちゃんが可愛らしく口をとがらせた。
「だめ。可愛いからこそ絶対に駄目。許さない。
見るのが僕だけだったらいいけど、他の男は論外だし小夜にだって見せたくない」
「はいはい。分かりました。ごちそうさま。今すぐに代わりのワンピース探してくるから待ってて」
呆れ顔の朝ちゃんは、聞き分けのない子供に対するような優しい表情になり、くすくす笑いとともに奥の部屋に消えていった。
朝ちゃんには手間をかけさせて申し訳ないと思ったけど、こんなに裾が短いワンピースを着るのは恥ずかしかったので、想夜の助け船に感謝した。
何事も素早い想夜はもうシャワーを浴び終えたらしかった。
ドライヤーを使ったのか髪はややしっとりしているだけでほぼ乾いている。
対する私は髪が長くドライヤーも使っていないので、髪はまだ濡れたままだ。
「髪。ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
想夜が首にかけていたタオルを私の頭に被せてくる。いたまないように丁寧に髪を拭いてくれて、その感触が心地よくうっとりとしてしまう。
ぱたぱたと軽快な足音とともに朝ちゃんが戻ってきて、想夜に頭を拭いてもらっている私を見て微笑んだ。
「いいなぁ。想夜君は優しくて。小夜君はたぶん頼んでもそんなことしてくれなさそう」
確かにそうかもしれない。でも小夜はかなりのヤキモチ妬きなので、たとえば想夜に朝ちゃんの頭を拭いてもらって、それを見せつけてやれば、対抗して朝ちゃんの頭を拭くだろう。
朝ちゃんの頭を拭く想夜を想像するだけで私が不愉快になるから、この案はぼつだけど。
逆に朝ちゃんが小夜の髪を拭いてあげたらどうだろうか。小夜ははじめは拒否するかもしれないが、無理矢理拭いてしまえば、気持ちは嫌じゃないんだろうから、大人しく拭かれている気がする。
「夜ちゃんに似合いそうなワンピース心当たりがあるんだけど、どこにしまったか忘れちゃったの。探すのに時間がかかりそうだからリビングで小夜君とお茶を飲んで待ってて」
「朝ちゃん待って。そこまで……」
「僕のわがままを聞いてもらってありがとう。面倒をかけてごめんなさい。よろしくお願いします」
そこまでしてもらうほどじゃない。そう言って断ろうとした私の口をすかさず想夜はふさぎ、朝ちゃんに笑いかけた。
女性が百発百中で落ちる想夜必殺のスマイルだ。
しかしさすがは朝ちゃん。さらっと"気にしないで"と言って、踵を返した。通常なら恍惚とするところがほぼ無反応だ。
彼女の軽快な足音が遠ざかっていく。
小夜のことが好きで好きでたまらない彼女には、想夜の魅了が効かないようだ。
あんないい娘にあんなに愛されて。小夜は本当に果報者だと思う。
しかし想夜はスカートの長さにこだわり過ぎだ。実際に着るのは私なのだから私がこれでいいと言ったらいいじゃないか。
「想夜………なんで邪魔するのよ」
「こんな短いスカート履いて外に出ちゃ駄目だよ。僕は許さないからね」
私が上目遣いで睨むと睨み返された。この件に関しては想夜に退く意思はないようだ。
「想夜。お茶が入ったぞ……って二人とも何しているんだ」
睨み合う私たちを見て小夜は首を傾げた。
白い壁にかけられた向日葵のタペストリーが鮮やかに映えている。
柔らかなクリーム色のテーブルと椅子には可愛らしい猫脚がついていた。
アンティークな雰囲気のチェストもクリーム色でそろえられていて、カーテンは向日葵色だった。
白と黄色でまとめられたリビングは夏空のような明るさと爽やかさがあって、この部屋をコーディネートした人物の人柄を表しているようだ。
チェストの上にはドライフラワーにされた胡蝶蘭のブーケが飾られている。
新築の家の木の匂いとペンキの匂いをかぐのが好きな私は深呼吸し、めったにかげない匂いを楽しんでいた。
「変な女」
大きく息を吸ったり吐いたりしている私を見て、小夜がぼそりと呟く。もしもし小夜さん。聞こえてますよ。
ナハト時代のように言い返そうとして、寸前で思いとどまった。私と小夜はまだ二回目の対面ということになっているはずだ。ここで口論になるのはよくない。
失礼な呟きをさらりと聞き流して、庭園で購入してきた紫陽花の花束を差し出す。
「これ、新築祝いです。向日葵のリビングには合わないかもしれませんが、いまは紫陽花が綺麗な時期なので良かったら……」
「ありがとう。飾らせてもらいます。
あと敬語は必要ないです。貴女の方が年上でしょ。普通に話して下さって大丈夫ですよ」
普通に話すとネイドに対するような調子になってしまう恐れがあるので、あえての敬語だったのだけれども。
小夜はどういうつもりなんだろう。親しみの表れなのだろうか。
小夜の真意が読めず、私は落ち着きなく視線をさまよわせる。
私の動揺を敏感に察知した想夜が心配げな視線をよこしてきたので、私は安心させるように笑って頷いた。
しっかりしなくては。相手のペースにのまれては駄目だ。
気を取り直して、さりげない動作で紫陽花を手渡す。
しかしここで問題が。
小夜が受け取る際に私の右手甲に釘付けになったのだ。
まずい。
普段忘れがちだが、私の右手甲と左手掌には紫の花の形をした痣があるのだ。左手はノクターンで右手はネイドにつけられたもの。
慌てて花束を押し付けて、右手を引こうとしたけれど、すでに手遅れだった。
「この痣………見覚えが」
引きかけた手を小夜に強く掴まれた。
「小夜。お前……」
思わず立ち上がった想夜を制して、私は冷静に言った。
「この痣がなにか? 痛いので手を離してくれませんか?」
「失礼しました」
はっと我に返って小夜はあっさり手を離してくれた。
朝ちゃんはまだ戻らない。私たちの緊張は続いている。
汗ばんだ手をミニタオルで拭くと、私は小夜が淹れてくれたお茶を口に含む。
しかしここにも罠が。
「この香りはもしかして………」
「ええ。ラベンダーティーです。最近、妻がハーブティーに凝っていまして」
なんでよりによってラベンダーなんだ。ハーブならもっと他にあるだろう。ジャスミンじゃいけないのか。ミントだっていいだろう。ハイビスカスも悪くない。
しかしラベンダーは駄目だ。ラベンダーは色々まずい。
ノクターンにプレゼントしようとして、ネイドにことごとく奪われたラベンダーの香袋を思い出す。
想夜は青ざめた顔でラベンダーティーを飲んでいる。
確かラベンダーの効能は精神的ストレスの緩和。リラックス効果だったはずだが、今の私たちにはまるで効いていない。
それどころか胃に穴があきそうな状況である。
「いい香りですね」
私の笑顔は引きつっていないだろうか。この中途半端な状況が辛い。いっそ全てをぶちまけてしまいたい衝動にかられる。
それと想夜。固まっていないでいい加減なにか喋って下さい。
隣にいる彼のわき腹を肘で突つくと、焦ったように居住まいを正し、ティーカップのお茶をゴクリと飲み込んだ。
「ラベンダーはいいよね。僕はこの香り好きだな」
「ああ。そうだな。香りといえば、前にラベンダーの香袋をもらったことがあって、肌身離さず持ち歩いて………。確かあれはアサにもらったんだったかな。あれ」
小夜は昔を懐かしむように目を細め首を傾げた。
「アサじゃない。じゃあ誰に……」
小夜は無意識なのか紫陽花の葉っぱを丸めたり伸ばしたりしながら記憶を探っている。
香袋をもらったって。まさかナハト時代のあれを言っているんじゃないでしょうね。
現世とナハトの記憶がごっちゃになっている可能性がある。
想夜はそわそわしながらも、気を落ち着けようとしているのかお茶を飲む。
「そうだ。確か貴女がくれたんですよね」
小夜が''ああ、やっと思い出してすっきりした"といわんばかりの表情になり、真っ直ぐ私を見た。
途端、想夜がお茶をのどにつまらせて激しくむせた。
私は慌てて彼の背中をさすってあげながら、必死にリカバリーを試みる。
「いいえ。私ではありません。私たちまだお会いして二度目ですよ? こうしてゆっくりお話するのも初めてですし。朝子さんか知人の方なんじゃないですか?」
「おかしいな。俺は確かに貴女に」
記憶があやふやならこのまま誤魔化されてくれればいいものの、小夜は食い下がる。
このままいくと記憶を取り戻すのも時間の問題かもしれない。
気管に入ってしまったのか、想夜はいまだに苦しげに咳き込んでいる。
私は彼の背中をさすり続けながら、顔を覗き込んだ。
「ノン君大丈夫? お水もらう?」
「だい…じょうぶ。やっと、落ち着いて、きた」
まだ幾分か苦しそうにしながらも、想夜は顔を上げて目じりに滲んだ涙をぬぐう。
咳がようやく治まったらしい彼の様子にホッとしつつ向かい側の小夜を見ると、何故か固まっていた。
「小夜さん?」
呼びかけてみるが反応がない。目を開けたまま眠っているのではないかと心配になるほど微動だにしないので、想夜は身を乗り出して小夜の肩に手をかけて揺すった。
「小夜? どうしたんだ」
「ノンって………誰だ」
小夜の呟きに今度は私たち二人が固まる番だった。
そう言えば、さっき想夜のことをいつものようにノン君と呼んでしまったかもしれない。
「ヤコ」
「ごめんなさい」
想夜が眉をへの字に下げて私を見たので、すぐさま謝る。
小夜は肩にかかった想夜の手を掴んだ。
「ノンって、ヤコがいつもアイツのことをそう呼んで……もしかしてお前はノクターン?」
私の不用意な一言のせいで完全に記憶が戻ってしまったらしい小夜は、私と想夜の顔を交互に見て断言した。
「間違いない。お前はノクターンで、君はヤコだ」




