雨と傘そして紫陽花
※このお話は福音の人形の後日談となります。
矛盾点があったり、魔王と勇者が平等でなかったり、ご都合主義だったり、好き勝手に書いているので、そういうのがもやもやする方は回れ右して下さい。
「正直に言うよ。僕は君を小夜に会わせたくなかった」
彼はまるで懺悔をするような顔で告白した。
小夜夫婦が私に会いたがっている。想夜にそう聞かされた時、私はそのことを少し意外に感じただけで、それ以上の感想はなかった。
私たちが再会してから数ヶ月が経った。
セレナーデへの想いはすでに過去のものとなり、今では年下の可愛い恋人に夢中である。
元々優しい心根の青年ではあったが、想夜は自分の懐に入れた人間に対しては、献身的と言っていいほどの愛と情を示した。
だから私の心が彼にどっぷり浸かって、片時も離れられなくなるのは、付き合い始めた時から決まっていたことなのだろう。
万が一、想夜が彼と同じ年頃の可愛い娘さんに心を奪われたら私は平静でいられないが、浮気どころか彼は私との結婚を視野にいれているらしいので、その心配は当面しなくてすみそうだ。
それよりも想夜は私が小夜と怪しい関係になるのではないかと心配しているらしい。
まさか、と私は彼の杞憂を笑い飛ばしてあげた。
何せ私は想夜に骨抜き状態であるし、小夜にだって朝子さんという可愛らしい奥さんがいる。
実を言うと朝子さんとは小夜抜きで何度か会ってお茶をした。
彼女はとても小さくて、よく笑う可愛らしい人だ。小夜のことがものすごく好きで、彼の子供っぽいところも、ひねくれたところのある性格もひっくるめて、その存在全てを愛していた。
身体は小さいけれど、包容力が人一倍あって朝子さんが大きな愛で小夜を包んでいるのが、彼女ののろけとも言える言葉からよく分かった。
小夜や彼の中にいるセレナーデの長い夜を終わらせて彼に朝をもたらした女性。それが彼女だった。
同じ魂を持つ双子に惹かれる者同士だからだろうか。私たちは数回会っただけなのに、まるで旧知の友人のように仲良くなり、今では夜ちゃん、朝ちゃんと呼び合う仲である。
朝ちゃんとは会っていたけれど、小夜とは結婚式以来会っていなかった。
私のことを何故か気にしているらしい小夜が、渋る想夜に私を新居に連れて来るように度々懇願し、なんだかんだいって弟想いの想夜は断りきれなくなって、二人そろっての小夜宅訪問となった。
お宅訪問は午後三時過ぎの約束だったので、私たちは早い時間に待ち合わせて、午前中はデートした後、小夜たちの家に行くことにしていた。
六月の終わり。
雨がしとしと降る中、個人が長年かけて植えて丹精こめて育てたという、たくさんの種類の紫陽花が咲いた庭園を見て回る。
一般によく見られるセイヨウアジサイやガクアジサイはもちろんのこと、日本古来の種であるヒメアジサイ、ホンアジサイ。小さな綿毛のような花が可愛らしいコアジサイ。花弁が丸まっているユニークな形のウズアジサイ。
ともかく数えきれないほどの紫陽花があって私は感激した。
シーボルトが日本植物誌に掲載したが長い間、実物が発見されずに幻の花になっていた七段花。両性花をまるく囲む装飾花が星のようなかたちをしていて、非常に可憐で気に入った。
やはり紫陽花は雨の中でこそいきいきとする。雨はあまり好きではない私だったけれど、紫陽花が雨にしっとり濡れて、葉っぱの上に水滴が宝石の粒のようについているのを眺めるのは好きだった。
私たちは大きな一つの傘に収まって、腕を組みながら仲良く紫陽花鑑賞をしていた。
泥が跳ね上がるのを気にして、歩調がゆっくりになり、遅れがちな私に焦れることなく、ペースを合わせてくれる彼。
「僕はずっと君とこうしてみたかった。ノクターンが焦がれていた明るい太陽の下で。ヤコ。君と手をつないで一緒に散歩したり、おにぎりを食べたり、噴水や綺麗な花や珍しい鳥を見たり、他愛ない話をして笑い合ったり。ずっと憧れていたんだ」
「私もノン君とこうして過ごせて嬉しいわ。今日は残念ながら雨だけれどね」
「雨でもちゃんと太陽は雲の向こうにあるから。明るいよ」
周囲にはそれなりに人がいたけれど、雨と傘が喧騒を遮断してくれていたから、私はこの空間に紫陽花と彼と私しかいないような、不思議な感覚にとらわれていた。
ふと私は傘からはみ出た彼の肩に目をやって顔をしかめる。
「ノン君」
私が小さく手招きをすると、想夜はこちらの意図を察して身をかがめてくれた。
私はバックから出したこれまたアジサイ柄のミニタオルで、彼の肩をしっとりと濡らしている雨露を拭きとる。
「私は大丈夫だからちゃんと傘の中に入って。風邪をひいてしまうわ」
私が濡れないようにと気遣うあまり、自分がはみ出して濡れても気付かなかったのか、気にしなかったのか。
彼は私のためなら平気で自分を犠牲にしてしまう。だから私は彼が自分をおろそかにしないよう常に気を配っていた。
ありがとう、と嬉しそうに目を細めて笑った想夜は昔を思い出しているのか、紫陽花を通り越して遠くを見るような眼差しになった。
「幼い頃からたびたび君のことを夢に見てきた。
夢の中で僕は何でも出来るノクターンで、何でも出来るくせにすぐに落ち込むから、ヤコに優しく話を聞いてもらって慰めてもらっていた。
朝がきて、目が覚めると僕はまだまだ小さな子供で、ヤコも隣にはいてくれなくて。
子供だから迎えにもいけない。どこにいるのかも分からなかったけれど探しにも行けない。
ずっともどかしかった。
ショックなことがあっても、ノクターンみたいに自分から会いに行く力もない。
今の僕は勇者じゃなくて、他人より少し器用なだけのただの人間だから。
だから力を持っているノクターンがすごく羨ましかった」
「想夜だけじゃないわ。人間はみな無力よ。私だって貴方たちのために一体何が出来たのか………。結局、何も出来なかったんじゃないかしら。
最後には二人とも命を落としてしまったし………」
二人に置いて逝かれたあの時の喪失感はいまだに忘れられない。こうして無事に再会出来た今も、あの絶望的な光景はたまに夢に表れて私を苦しめた。
「ヤコ。泣かないで。僕は君に色々なものをもらったよ」
ぎゅっと握りしめた私の指をほどいて、くしゃくしゃになったミニタオルを丁寧に伸ばすと、想夜は私の涙を優しく拭いてくれた。
「何も出来なかったなんてことは絶対にない。僕はもちろんセレナーデだって君には感謝している。
ノクターンが自殺しかけて、ヤコが助けに来てくれた時。君を抱きしめたあの感触が忘れられないんだ。すごく柔らかくてあったかくて。
何度も夢に出てきたけど、起きると僕の腕の中には君はいなくて。僕はその度にかなしくなった」
そう言えばあの時、初めてキスされて動揺したことを思い出した。口ではなく頬だったけど、ノクターンがアーラ王女に想いを寄せていたのは知っていたし、勇者は冗談やノリや挨拶でそういうことをする人種には見えなかったから。
「あの時かなり驚いたんだけど、どうして急にあんなことを? 感謝の気持ちだったの?」
少し頬を赤くして想夜はあの時と同じように私の頬に柔らかな口付けをひとつくれた。
「これと同じだよ。なんだか急に君のことが愛しくてたまらなくなって、気が付いたらああしてた。お礼とかそんなこと考えもしなかった。ただ自然に身体が動いて」
「ということはアーラ王女にも?」
私は心中複雑になった。
ナハトにいた頃から、勇者はスキンシップが多かった。
王女をあれほど想っていたノクターンだ。"自然に身体が動いて"アーラの頬にキスぐらいしているかもしれない、と思ったら、面白くなくて頬が膨らんだ。
「ヤコ、ひょっとしてヤキモチやいてくれている?」
想夜がすごく嬉しげな顔になって、ぱんぱんに膨らませた私の頬をからかうように突つく。
思わず噴き出してしまい、空気が抜けた私の頬を優しく撫でると、彼は二度、小鳥のついばむようなキスをくれた。
はじめは恍惚としていた私だけど、瞬時に青ざめる。
「想夜! 人前!」
公衆の面前で平然といちゃつくような、そんな人間にはなるまいと心に決めていたのに。
想夜はいたずらっぽく笑って傘を揺らしてみせた。
「大丈夫。これでちゃんと隠れていたから。
晴れた日に君とデートするのもいいけど、雨の日は傘があるからいいね。
人前でも君に遠慮なく触れられるもの」
想夜のストレート過ぎる言動や行動に耐性がついてきて、近ごろは私も赤面することが減ってきていた。
でも今の想夜の言葉には耐えられなかった。
久々に顔と頭がかっと熱くなる感覚を味わう。
照れる私を優しい眼差しで見ながら、想夜はクレナイと呼ばれる、鮮やかに紅い紫陽花の花に触れた。花がふわっと揺れて透明な蜻蛉玉のような水滴が飛び散った。
「アーラにはキスすら出来なかったよ。だからあんな風にしたのはヤコが初めてだから。
ヤコが僕のためにわんわん泣いてくれて、僕のためにあんな怪我までして。
それを目にした途端、あれほど好きだったのにアーラのことがいきなり頭から吹き飛んで。
ヤコを泣かせちゃ駄目だ、僕が守らなきゃって、そればかり考えてた。
僕の心の中のアーラがいた場所にヤコが居座っていて、でもそれがすごく自然で。
ヤコがそれまで僕にくれた言葉とか、僕にくれた気持ちとか色々思い出したら、僕の中に暖かい力が溢れてきて、今なら一人で魔王を倒せるかもって考えたんだ」
私は今ものすごく苦々しい顔になっていると思う。あの時アーラを同行させていたら、ノクターンは死ななかったかもしれないのに。
レーギスの命だって救った彼女なのだから、背中から蘭夢の劔に貫かれたとしても、勇者の生命力なら助かったかもしれないのだ。
最善を尽くした末に落命するならともかく、簡単に命を捨てるようなことをして欲しくなかった。
「ノン君。正直言って単独で魔王戦っていうのはいくらなんでも無謀過ぎたと思う。今さらだけどアーラ王女は絶対に連れて行くべきだったのよ。あれは若気の至り以外のなにものでもないからね」
「うん。でもあの時のアーラはレーギスに手をかけてしまって相当動揺していたし、僕に着いて来てもらったとしても、姫さまは王子が気になって戦いどころじゃなかっただろう。
だから僕は一人で最終決戦に向かったことを後悔していない。今こうして君と一緒に過ごせるのはあの時に死んだおかげだしね。
だからやり直せると言われても、僕はまた何度でも同じことをするよ」
顔を上げて真剣な目で私を貫くように見た想夜は、私の後頭部に手を回して引き寄せ、私の頭を彼の胸に押しつけた。
傘では全身は隠れないのに。人に見られてしまうと分かっているのに、私は大人しく彼の腕の中に収まっていた。
雨で冷えた身体が彼の体温でぬくまっていく。
「危険なめに遭わせたくないから、置いてきたはずなのに、その君がよりにもよって魔王の側にいるものだから僕は心臓が止まりそうになったよ」
当時のことを思い出しているのか、想夜の鼓動が速くなったのを、私は彼の胸に当てた耳で聞いていた。
「あの時は絶対に止められると分かってたし、僕に着いて来るとさえ言い出しそうだったから、君を魔法で眠らせて後をネイドに託して決戦に向かった。でも」
そこでふっと想夜の声がかすれた。
「君は結局魔王との戦いにまで着いて来てしまったね。僕の気持ちも知らずに。
セレナーデが君を望んでいたから。
………僕はアーラとは何もなかったけど、ヤコ。君はセレナーデと何かあった。
そしてあの時の君にはセレナーデしか見えていなかった」
想夜が辛そうな声音で断じた。
セレナーデとの最後のひと時は想夜に話したこともなかったし、ずっと隠していくつもりだった。
でも察しのいい彼は全て分かっていたのだ。
「私は四歳の時にセレナーデと会っているの。
セレナーデは魔王の器だったからいつも孤独で。
たまたまナハトに迷い込んで一時を一緒に過ごした私に強く執着した。
あの人には私の他に誰もいなくて、こっちに転生するには、私の存在が必要不可欠だったから、彼の想いの全ての比重が私にかかってしまったのね。
私はそんな彼が何だかいじらしくて、放っておけなくて………」
冷静になってみると、私がセレナーデを好きになったきっかけは、彼への同情と共感がかなりのウェイトを占めている気がする。
「でも今はもうなんとも思っていないの。だからそこは含んでおいてね」
彼はそっと私の身体を離すと、私から見えないように顔をうつむかせた。
「僕は小夜が君のことを一生思い出さないですむことを願っているよ。
だから僕は小夜とはナハトの話をしたことが一度もない。
小夜が全てを忘れたままでいれば、君には僕だけしかいなくなるから………だから」
想夜は言葉を途切れさせ、うつむいたままじっとしていた。ぽろりぽろりと水滴が落ちるのが見えて、私は胸がいっぱいになって、背伸びをして下を向いた彼の頭を抱きしめた。
傘が地面に落ちて、雨が私たちをしっとりと濡らしていく。
「………だから。君を小夜に会わせたくなかった。ヤコはこんな僕を軽蔑する?」
「するわけないでしょう。小夜があの時のことを覚えていないのは想夜のせいじゃない。
確かに私はセレナーデが好きだったわ。
でも、今は想夜のことが好きよ。
たとえ小夜が私のことを思い出したとしても、それは変わらない。
それに小夜には朝ちゃんがいるもの」
私は子供にするように冷えた彼の身体を抱き締め、背中をぽんぽんとなだめるように数度叩いた。
「ばかな想夜。何の心配もいらないのに。今の私はあなたに骨抜きなのよ。
たとえ小夜が私を思い出したって、それが何だというの? 私にはどちらでもいいことだわ。
だから貴方が小夜と私を会わせたくないと言うなら、私は会わない。
でも、もしも私たちがこの先、一緒になるんだとしたら、ずっとこのまま避けているわけにはいかないんじゃないかしら。
だって私と小夜は義理の兄弟になるわけでしょう?」
ぽかんと口を開けて想夜は惚けた表情で私を見た。
「僕たちが一緒になるって………義兄弟って………」
しまった。
私はまたもや全身から火が吹き出るかと思った。
これまで想夜が会話の中で、結婚をほのめかすことは何度かあった。
だけど彼はまだ若い。だからこそ勢いで結婚して後悔するようなことになって欲しくなかったから、彼のほのめかしにはっきりとした反応を返さず、のらりくらりと返事を避けていた。
私の真意を知ってか知らずか、想夜は話をはぐらかし続ける私に結婚を明言することはなく、こちらの覚悟が固まるまで辛抱強く待ってくれているようだった。
それが、私の方から二人の将来について明言してしまうとは。不覚だった。
傘は相変わらず転がったままだ。雨が私の身体をひんやりと鎮めてくれている。
始めはただびっくりして呆然としていた想夜も、私の言葉の意味を理解した途端、ぱっと笑顔になって先ほどまでしょんぼりしていた人間とは思えない勢いで、私に抱きついてきた。
それだけでは収まらなかったのか、私の身体を持ち上げるとぐるぐると回って笑い声を上げた。
さすがにこれを許容するわけにはいかない。ただでさえ周囲の注目を集めてしまっているというのに。
「こら! 想夜やめなさい! 今すぐにやめないと離婚するわよ!」
まだ結婚もしていないのに、離婚も何もあったものではないが、想夜には効果てきめんだった。
彼はぴたりと動きを止め、私から離れて我に返ったらしかった。
泥の跳ねた傘と、雨にぐっしょり濡れた私たちを交互に見て、彼は照れたように笑った。




