夜の始まり
「僕なんかに勇者がつとまるのでしょうか……」
彼は十代の若者とは思えない沈痛な表情を浮かべて座っている。髪と同色の深い藍色の瞳は潤んでおり彼の悲痛な心情を言葉よりも饒舌に訴えかけてきた。
「それは、………」
私は心なし椅子ごと後退る。しん、と私と彼の間に静寂が落ちる。4年前に購入したCDプレイヤーから流れるショパンの夜想曲第四番のメロディがや けに際立って聞こえた。
無音というのも何だか落ち着かないので、小さめの音で流していたのだが、ぽつ、ぽつ、と星がまたたくようなゆったりした曲調が目の前の彼の悲惨さをかえって浮き彫りにする気がして、そっとプレイヤーの停止ボタンを押した。
それにこの曲、このままいくと中盤から雷が轟くがごとく激しいパッセージが唐突に出現するので、お互いの心臓に悪そうだ。
彼は俯いて膝の上で握りしめた拳を凝視している。泣いてはいないが今にも泣き出しそうな雰囲気。
対する私は初対面の勇者候補から受けた相談があまりにもハードだったため、内心ドン引きしていた。
こういった問いに答えるのに私ほど不適格な人材はいないだろう。
日々をゆるゆると過ごし、人生の選択において二つ道の内、どちらかを選ばなければならないとしたら、迷わず楽な方を選ぶ人間だ。
夢は宝くじを当てて会社を辞め、左うちわで悠々自適のニート生活を送ること。
勇者候補になるようなお人とは器が違いすぎる。
明らかに人選ミスだと思う。
恨みがましく、ノクターンの隣にいるフードを目深に被った魔術士ネイドを睨むが、彼はどこ吹く風だった。布地からのぞく唇は胡散臭く弧を描いている。
それにしても服の材質は何なのか。彼のローブは周囲の闇に完璧に溶け込んでおり、まるで夜を纏っているようにも見える。たまに紫や青や赤の光が星 のようにちろちろとまたたくので本当に夜空で出来ているのかもしれない。
ノクターンの手前、ネイドを怒鳴り付けることも出来ず、目の下に隈を作っている勇者候補を放り出すわけにもいかないので、私はとりあえず優しく問い返す。
「勇者の資質があるから選ばれたわけでしょう?どうして自分には務まらないと思うの?」
今の私に出来ること。
少年へのアドバイスでもなければ、少年にかわって魔王を倒すことでもない。
彼が心に抱えている暗澹としたもの。夜の闇のように巣食って、決してなくなることはない不安を聞くことで晴らしてやることしか出来ない。
勇者が具体的にしなければならない事は何か。現段階では何が実行可能で何が実行不可能なのか。ノクターンが不可能を可能にするには何をすべきか。
不安要素があるなら一つ一つ炙り出した上でそれを解消していく。
私は事務的にならないように気をつけつつ、彼に問いを投げかけることによって、問題点を挙げさせ、またその解決方法を提示させた。
さらに、彼が現在憂慮している全てを一つ残らず吐き出させた。
彼は行動する前に先手を打ってあれこれ思い悩み、自分の想像でがんじがらめになって、一歩も踏み出せなくなるという厄介な性格であるようだったから、魔王討伐の旅に出た途上で迷って足取りが止まることがないよう、出来得る限り悩みの芽を摘んでおきたかった。
命懸けの旅だ。迷いは即、死につながるだろう。
彼にたえず質問し、その心の闇を吐かせているうちに、この類まれなる誠実さと真面目さを持ち合わせた少年に死んで欲しくない、と思うぐらいの情がわいていた。
余計なことに気を回し過ぎるきらいはあるものの、勇者に抜擢されるだけのことはあって、頭の回転は早いし、大抵のことはこなせる実力もある。
だから答えはノクターンの中にある。ただ彼が夜のような暗闇の中にいるために見えていないだけで。
私が彼の悩み事を解決するのではなく、彼が自分自身の生み出した不安という魔物を退治すべき方法に気づくように誘導してやる。
恐らくはネイドが私に期待しているのはそういうことではないのか。
その推測に従い、私は彼に質問を投げかけたり、時には黙ってじっと彼の話を聞いたり、また、彼の話に相槌を打ってその気持ちに寄り添ったりして、その不安で頑なに覆われた自分の能力への自信のなさを少しずつ取り払っていくようにした。
はじめの内は青ざめて、硬く唇を噛みしめ、受験に落ちた高校生かお通夜か、といった風情だった少年はまだ物憂げな空気を残しながらも、頬をわずかに綻ばせて笑うようになった。
私たちの様子をじっと見守っていたネイドが満足げに頷き、フードの下でニッと口角を上げるのが視界に入った。
どうやらこの対応で正解のようだ。ふとディスプレイの右下に表示された時刻に目をやると、時間は早朝の四時を示していた。
通りで先ほどから欠伸が止まらないわけだ。アラサーの身に夜更かしはこたえる。
「ごめんなさい。シモンさん。仕事で疲れているのに僕の話に長々と付き合わせてしまって……。もうお休みになりますか?」
涙のたまった目をしきりにこすっていると、ノクターンは申し訳なさげに聞いてきた。ヤコでいい、と告げて私は頷いた。
「ねぇ。ここにある物をそちらに送ることは出来る?」
ネイドは一瞬の間ののち、是、と答える。面白げに笑っているのが気になったが、深く考えないことにした。
「あなたも疲れたでしょう。夜、眠りが浅いと言っていたわね。これが熟睡の助けになるかどうかは分からないけど、あなたにあげる」
淡い紫の小さな布袋をかざすと、中に秘められたラベンダーから優しい香りが漂った。
次の瞬間、布袋は私の手の中から姿を消し、ノクターンの手の中に出現していた。
「ありがとうございます…一生大事にします」
素直な勇者は、命懸けの旅に出るには取るに足らないだろう、ささやかな贈り物をうやうやしく捧げ持ち、その袋に柔らかくくちづけて、ふっと笑った。
それまでは頼りない様子だったのに、やけに色っぽく感じられる動作と笑みに私は顔全体が熱くなるのを感じた。
計算された行動ではなく、嬉しさのあまり自然に身体が動いていたようだ。いわゆる天然だろう。
勇者というステータスに加え、頭脳明晰、魔法の才もあり、剣術にも長けている。さらに優しく誠実な心根。
この少年、無自覚でたくさんの女性をたらしこんでいそうだし、正式に勇者となった暁には世の女性たちがこぞってハートを奪われるだろう。
なんとも末恐ろしい存在だ。
「お見事です。あなたはあなたに与えられた役割を十二分に果たしました」
ノクターンが寝室に向かった、すなわちパソコンのディスプレイから姿を消した後、話がある、と残った魔術士は拍手喝采した。
「彼はああ見えて聡明で芯の強い少年ですから、悩んでいても自ら答えを導き出すでしょう。今後も先ほどしていただいたように、優しく話を聞くことで彼の自信と答えを引き出して頂きたいのです」
これからもよろしくお願いしますね、夜の衣の下で胡散臭く笑ったネイドは、机に数個あったラベンダーの小袋の一つを自分の手中に収めると、お休みなさい、という挨拶とともに闇に消えた。
「あいつ……勝手にラベンダーとっていったわね」
一人残った私の呟きが夜の静寂に溶けていく。
これが、私と勇者と魔術士の「面白うてやがて悲しき物語」 - 夜の物語 - の始まりだった。