福音の人形 ー 神の揺りかご ー
気が付くと私たちはピンク色の亜空間を浮遊していた。
お互いに怪我がないことを確かめ合い、ひとしきり再会を喜び合った後、事態を打開すべく頭をひねり始める。
「ヤコ。どこにも出口がないんだけど、どうしたらいいかなぁ?」
私と同じように周囲を見回しつつ現状把握をしていた想夜は、何の解決策も見出せなかったらしく、首を傾げ、眉を八の字にした情けない表情で私を見た。
その仕草がやけに可愛くて、私は思わず彼の頭を撫でてしまい、もっと真面目に考えて、と悲しげに言われてしまった。
「私たちをここに呼んだ人形は遊んでもらいたがっていたわ。だから、彼女の気が済むまでお姫様ごっこに付き合ってあげれば、元の場所に帰してくれるんじゃないかしら」
しかし私は召使い役で想夜は王子役らしいが。
配役にいささかの不満はあるが、目的のためならば多少の不平不満は抑えて、自らに課せられた役割を全うするのが社会人としての常識。
ここから出してもらえるのだったら、もう召使いでも庭師でもなんでもやってやる。
「ねぇ! あなたお姫様ごっこがしたいんでしょう! 隠れていないで出てらっしゃいな。一緒に遊びましょう」
なかなか姿を現さない人形にしびれを切らした私は大声で呼ばわったが、応えるものはいなかった。
「一人が寂しいから僕たちを呼んだんだよね? 気が済むまで遊んであげるから出ておいで」
想夜が優しく呼びかけると、亜空間にフワッと風が吹いて、星や花が美しく舞った。
"エヴァンジェリンよ"
ふいに聴こえた少女の声に私たちは顔を見合わせる。
"私のことはエヴァンジェリン姫と呼んでちょうだい"
想夜は自然な動作でひざまずくと、胸に手を当てて芝居がかった口調で呼びかけた。
「エヴァンジェリン姫。あなたを迎えに参りました。どうか僕の前にその美しいお姿を現してください」
ぽん、とポップコーンが弾けるような軽快な音がして、嬉しげに笑った人形、エヴァンジェリンが私たちの前に姿を現した。
すかさず想夜はエヴァンジェリンの白く小さい手をとり、その甲に口付ける。彼の動作のはしばしから相手を慈しむ心が感じられて、私の心はざわざわした。
姫、と照れもせずに呼ぶ彼に、前世でアーラ王女を一途に慕っていた勇者の姿が重なった。
ノクターンはアーラ王女をあんな風に宝物のように大切に扱っていたのだろうか。
そういえば、アーラ王女に刺されかけても、ノクターンは彼女のことを恨んでいる様子もなければ、嫌いになった様子もなかった。
勇者の真っ直ぐで強過ぎる想いを私はよく知っている。
ひょっとして、彼はまだアーラ王女のことを?
「ちょっと召使い! ぼーっとしてないでさっさとお茶の支度をしてちょうだい」
「どうして私がそんなことしなきゃならないのよ」
「召使いでしょ。あなた以外の誰がお茶を用意するというの?」
エヴァンジェリンはツン、と顎を上げた。どこまでも可愛くない人形だ。
「ヤコ。落ち着いて。相手は子供だから。ね?」
思わず剣呑な眼差しで彼女を睨んでしまった私の肩をそっと抱き、想夜は背中をなだめるようにポンポンと叩く。
その途端、にこやかだったビスクドールの表情が一転し、般若のような恐ろしい形相になった。
「召使いの分際で私の王子さまに触らないで!」
カッと人形の瞳が光り、その瞳で睨まれた途端、私の身体はすごい勢いで後方にはじき飛ばされていた。
壁にぶつかる!?
衝撃を覚悟して身をすくめるが、私の身体は留まることを知らず、猛スピードで飛んでいく。
想夜たちの姿があっという間に豆粒大になり、星や花、ファンシーな小物たちがかなりの速度でめまぐるしく流れていった。
「そういえば壁なんてなかったわね」
あの勢いで壁のような硬い物体にぶつかったら、全身骨折していたかもしれないのでそれは良かったのだが。
「これどうすれば止まるの?」
わたしは自分の意思で止まることが出来ないでいた。想夜の姿はとうの昔に見えなくなっている。
この亜空間に果てはあるのか。まさか永遠にこのままじゃあ。ゾッとして身を震わせたその時。
かすかに声が聴こえた。
私を呼んでいる。
この声はきっと。
「ノン君!」
私は今、一番会いたい人の名前を叫んだ。
銀色に光るものが私目がけて一直線に飛んでくる。はじめは星のように見えたそれが近づくにつれ、人の輪郭をとる。
「ヤコ!」
力強い応えとともに、銀の風にふわりと包まれる。風はクッションのようになって私の身体を受け止めてくれた。
一瞬後に待ち人が到着し、力強い腕にぎゅっと抱きしめられる。
「間に合って良かった。ヤコ」
「ありがとう。助かったわ。ノン君」
銀の星が見えてから数秒、瞬きを数回する間の出来事。
勇者時代はスピードと身軽さを売りにしていたとはいえ、すさまじい移動速度だ。さすがは元勇者。想夜、恐ろしい子。
「大丈夫? 怪我はない?」
心配げに顔を覗き込まれ、身体のあちこちをチェックされる。
「ただ飛ばされただけだから大丈夫」
「ごめん。まさか人形がいきなりヤコを攻撃するなんて予測していなくて、反応が遅れた」
申し訳なさげに謝る彼に首を振る。油断していたのは私も同じだ。
もっとも、人形の攻撃が予測出来たところで、私に回避することは不可能だっただろうが。
「それよりノン君、すごいスピードで飛んできたのね。びっくりしたけどかっこよかった」
すごいすごいと褒めると、元勇者は頬をうっすら染めて、はにかむ。
照れる仕草もノクターンと全く同じ。外見が変わっても彼は私の大事な勇者だった。
しかし彼はノクターンと同一視されることについてどう思っているのだろう。
「名前、想夜と呼んだ方がいい?」
「ヤコに呼ばれるんだったらどちらでも。ノクターンも僕の一部には違いないから」
そう言って、想夜は私をふわりと抱き上げた。
「超特急で戻るから。しっかり掴まっていて」
彼の言った"超特急"は決して比喩ではなかった。
私は、まるでお姫様のように抱き上げられた気恥ずかしさを実感するより早く、彼の神がかったスピードを体感することになった。
耳がキンと痛くなり、身体にグンとGがかかる。すさまじい圧力に息が止まり、意識がすぅっと遠のいた。
「……コ。……ヤコ! ヤコ!」
必死に名前を呼ばれ、身体を揺さぶられる。うっすらと目を開くと、泣きそうな表情の想夜が私を見ていた。
「あれ? 私………」
「ごめん僕の配慮が足りなかった。スピードが出過ぎて、君の身体に負担がかかったみたいだ」
どうやら重力がかかりすぎて一時的に意識を喪失していたらしい。想夜。どこまでも恐ろしい子。
「こちらこそ重ね重ねごめんね。私かなりの足手まといよね」
これ以上、彼に負担をかけたくない。軽く頭痛を覚えたが、時間が経てば治るだろうと踏んで、抱えてくれていた想夜の腕から降りようとしたが彼は許さなかった。
「駄目。もう少し回復するまで大人しくしていて」
「でも………。重いし想夜に迷惑でしょ」
「全然重くないし、迷惑なわけない。ねぇ、ヤコ。さっきので分かったと思うけど、僕はこの空間においてはノクターンと同等の力が奮えるんだ。だから君一人抱えているぐらいわけないし、君一人守るのだってわけないんだよ」
ぼんやりした頭で周囲を見回すと、こちらを憎々しげに睨むエヴァンジェリンと目が合った。
また何かされるんだろうか。思わず身をすくませると、想夜は私を抱く手にぎゅっと力をこめて囁いた。
「大丈夫。僕がついてる。エヴァンジェリンはさっきキツめに叱っておいたから」
想夜は優しい。
そんな彼が誰かを叱るなんて想像もつかない。
温和な想夜でも先ほどの出来事は腹に据えかねたのだろうか。普段ほとんど怒らない彼が、小さな少女のような人形をきつく叱りつけてしまうほどに。
どうして彼はそこまで怒ったのか。
先ほど私はノクターンに宝物のように扱われるアーラ王女を想像して胸を痛めた。嫉妬したのだ。
それじゃあ私は?
私は大事にされていない?
彼が怒ったのは誰のため?
魔王の最期の時、私を殺そうとする剣から私を庇ってくれた。それこそ命がけで。
それだけじゃない。亜空間に引きずり込まれる時も私を庇い、さっきは弾き飛ばされた私を必死に追いかけてきて掴まえてくれた。
今だって私を抱える腕は暖かく、壊れ物を扱うように丁寧で。
私、想夜に大事にされてる。
すごくすごく大事にされてる。
自分の想いを自覚した途端、頭がかーっと燃え、火が出たかと思うぐらい顔が熱くなった。
「ヤコ、どうしたの? 顔が真っ赤だよ。熱がある?」
彼はためらいなく顔を近付けてきて、自分の額をわたしの額につける。
やめんか馬鹿者。ますます熱が上がる。
駄目だ。殺される。私は無自覚な天然王子に殺される。
自覚しての行動ならともかく、彼の場合はほとんど無意識に身体が動いているのだろう。これだから天然は手に負えない。
突然、エヴァンジェリンが狂ったように笑い出した。
想夜は人形から少し離れた所で私を降ろすと、自らの背に私を匿いつつ彼女と対峙する。
「すてきな王子さま。王子さまは私のものよ。誰にも渡さないわ」
人形がすぅっと近づいてくる。短い手足がすらりと伸び、白く冷たい頬に柔らかさと赤みが宿った。ブルネットが豊かになびき緑の瞳はそのままに、人形は美しい人間の少女に変貌した。
「見て。想夜。私きれいでしょう? あなたのために人間になったのよ」
「うん。すごく綺麗だよ」
想夜は悲しげに微笑んだ。
「でもごめんね。僕は君の王子にはなれない。だって僕にはすでにお姫さまがいるから。君じゃない別のお姫さまが」
エヴァンジェリンじゃない別のお姫さま。それはまさかアーラ王女の。
やはり彼は転生しても彼女のことを?
私は彼の言葉に深く胸を抉られたようになる。そして傷ついたのは、私だけじゃなかった。エヴァンジェリンの緑の瞳からひっきりなしに流れる涙。
数多の眠り
千の眠り
万の眠り
億の眠りをあなたに捧ぐ
桜色の唇から紡ぎ出される旋律。自らの涙で唇を濡らしながら彼女は透き通った声で歌う。
海よりも深く
宇宙よりも深く
森に抱かれて
星に抱かれて
「子守歌?」
「くっ………。まさかこれは魔法……だめだ。身体が、うごかな……」
想夜は蒼ざめると、ガクリと力を失くしてその場に崩れ落ちた。
「ノン君!? どうしたの!」
慌てて倒れた彼の側に膝をついてその身体を抱えようとすると、弱々しく伸ばされた手がワンピースの裾を握る。
「ヤ……コ。逃げ……て。ぼくは、もう」
我の腕で
神の揺りかごで
永遠に眠れ
ブルネットを揺らしながら彼女が高らかに歌い上げると、私の服を掴んでいた想夜の手がぱたりと落ちた。
「愛してるわ。想夜。これであなたは私のものよ」
意識を失った想夜を見下ろしながら、レースをあしらった扇子を口元に当てると、エヴァンジェリンは妖艶に笑った。
「ノン君……?」
呼びかけに応えは返らなかった。




