蘭の花束を貴方に
起床する。食事をとる。会社に行く。仕事をする。友達と話す。外で遊ぶ。家事をする。入浴する。眠る。
あれからどれぐらい時間が経ったのだろう。私は意図的に数えることをやめた。
あんなことがあっても、私の日常は変化もなく、途切れることなく、笑ったり、怒ったり、たまに涙したりしながら、穏やかに流れて行く。
常に頭の中半分を二人の思い出と記憶で占拠されながら、残りの半分を使って今を生きる。
何の変哲もない日常を、自分の出来得る範囲で一生懸命に過ごすこと。これが生きるということなのだ。
そしてその時間は何よりも貴い。
セレナーデが私にかけたおまじないは効力を発揮していた。
おそらくこれがなかったら、二人が逝ってしまい、たった独り遺されたあの空間で、私は衝動に襲われて自らの命を絶っていたかもしれない。
夢の剣はまだ消えずに私の手の中にあったから。あそこは魔が住まう空間。自殺願望とは無縁の私であっても、立て続けに大事な人に去られてしまい、しかも日常とかけ離れた場所で、日常とかけ離れたダイナミックな感情をいくつも味わった直後。
"魔が差した"としても何ら不思議はなかっただろう。
私がぼんやりと座り込んで血だまりを見つめながら剣を手に"変な気をおこさなかった"のは、私の脳裏からメメント・ウィータ、夜子。というセレナーデの声が離れなかったからだ。
いや、その声は今も私の魂に囁きかけ、私が生をまっとうするよう促し続けている。
どれぐらい座り込んでいたのか。二人を導いたオーロラが私にも差しかかり、そのまぶしさに目を閉じ、再び目を開けた時には自室のベッドの上にいた。
枕元にあった貘は消えていた。部屋のどこを探してもない。
私はその時初めて、声をあげて泣いた。でももう私が泣いても、その涙を拭ってくれる優しい親指はこの世のどこを探してもないのだ。
それは恐ろしいほどの喪失感だった。
何の変哲もない、と言ったが、変化はあった。ほんのささいな取るに足らない変化だが、私はあれから私を取り巻く全てに感謝して生きるようになった。
生命のレースは私達が思うよりも過酷だ。世界を見渡して、無惨にも散らされていく生命のなんと多いこと。
そんな中、脆弱な私達が強かに生を謳歌出来るのは、私を取り巻く全ての人々、環境のおかげなのだ。
そんな当たり前のことに今頃気付いた。
私はムーンライトセレナーデの楽譜を入手し練習を始めた。あの人に懇願された時にピアノを弾いてあげられなかったこと。
私が悔やんでいる唯一の事だ。ノクターンにはさんざん弾いてあげたのに。
ノクターンに彼の名前の曲を捧げたように、セレナーデにはムーンライトセレナーデを捧げる。
もう当人はいないしまた会えるかどうかも分からない。それでも私は練習した。
優しいメロディに涙ぐみながら弾く。
さほど難しいアレンジではなかったので、マスターするまで一ヶ月もかからなかった。
しっとりとした美しいメロディ。音数がさほど多くなく、リズムも複雑ではなかったから、感情を思い切りこめて弾くことが出来、弾いていて気持ちのいい、お気に入りの一曲となった。
雨上がりのよく晴れた休日。おろしたての淡い紫のワンピースを着て、前日の雨のにおいが爽やかに残る街中を私はゆっくりと歩いていた。
特に目的はなく、しゃれた洋館や日光を反射する川の水面、公園に茂る緑を眺めながら、ゆったりと散歩する。
散歩が終わったらプラネタリウムを観に行こうか。ナハトに行けなくなった私は、プラネタリウムに通うようになった。本物にはかなわないけれど、リクライニングシートに身をうずめながら見上げる夜空は美しく、ナハトと私のつながりが途絶えていないと感じさせてくれる何かがあって安心した。
日を浴びて輝く白い教会の前を通りかかった時、人だかりの中に白いウェディングドレスを身にまとい、幸せそうに笑う花嫁を見た。ふと足を止める。
花嫁は綺麗な女性だった。顔の造作だけでなく彼女が発散する空気には充足した幸福感が満ち満ちており、その空気が何よりも綺麗だった。
私の口もとは自然にゆるんでいた。幸せな人の側にいくと、その歓びのエネルギーがこちらにも伝わってきて、こちらまで幸せな気分になる。
幸せのお裾分けをもらったような気がして、私は笑った。
彼女の抱える花束は白く可憐な胡蝶蘭だった。蘭の花。私の右手甲と左手掌にあるアザと同じ花。
周囲から祝福され伴侶とともに笑いあっていた花嫁は、腕を振りかぶりブーケを宙に放り上げた。
ん? あのブーケやけに飛び過ぎじゃないか。そんなに飛んだら………。
あの可愛らしい花嫁はソフトボールだか野球だかの凄腕ピッチャーだったのか、空中に綺麗な放物線を描いたブーケは、なんと私の頭上目掛けて降ってくる。
とりあえずしっかりと花束を受け止めたものの、私は非常にきまりの悪い思いでいた。
私は単なる通行人であって結婚式の参列者ではない。そんな完全部外者がうっかり大事なブーケを、事故とはいえもらってしまう。
これは由々しき事態である。即座に返却し、速やかにこの場を立ち去るべきである。
花嫁のすぐ側にいた二人のスーツ姿の男性が駆け寄ってくる。
二人の男性の顔立ちは酷似していた。双子だろうか。しかし背丈がやや違う。
「すみません! お怪我はありませんか!」
背の高い方の男性は気遣わしげに言って、私の顔を覗き込んだ。その動作に既視感を覚える。
「あの、僕達どこかで会ったこと………」
ハッと目を見開いた男性が何か言いかけた時、無粋な声がそれを遮った。
「馬鹿じゃないの。花束がぶつかって怪我するとかどれだけか弱いんだよ」
背がやや低い方の男性は冷めた口調だ。なんだろう。この人を馬鹿にしたような口調。こちらにも強烈な既視感が。
「小夜! 失礼なことを言うな! すみません。弟に悪気はないのですが」
「本当のことを言って何が悪い。それと想夜、前から言っているが兄は俺の方だから」
双子は先に生まれた方を兄とする場合と後から生まれた方を兄とする場合と両方のケースがあるらしい。私からすれば二人ともほぼ同じタイミングで誕生しており、違いなどないに等しいのだから、どちらが兄でも弟でも構わないと思うのだが、この自称兄にとっては重大な問題らしい。
「いえ。実際、怪我はないので大丈夫ですよ」
このままいくと兄弟喧嘩に発展しそうだったので、引っかかる何かを感じつつも、私は首を振って慌てて花束を差し出す。
よく観察してみると二人の顔の造作は似ているものの、小夜と呼ばれた背の低い方の男性はまなじりが上がり気味で気の強そうな顔立ちをしており、想夜と呼ばれた背が高い方の男性は、優しげな顔立ちだった。似ているのは顔だけで、恐らく性格はだいぶ違うのだろう。
私が差し出した花束を想夜が受け取ろうとしたが、小夜がそれを横から奪い取った。またまた既視感。まさか、とも思うが、目の前の二人とナハトの二人が重ならない。双子ということ以外に共通点を見出せない。私には尋ねる勇気がなかった。
花束を渡した瞬間、小夜は私の右手に視線をひたりと据えた。想夜も気がかりなことがあるのか、私に探るような視線を向けている。非常に居心地が悪い。
双子と参列者達の注目を浴び続けていることに耐えられなくなった私は、それじゃあ私は所用がありますので、と一言断って、場を離れようとしたが出来なかった。
「ヤコ」
二人が同時にそう呼びかけ、私の腕を掴んだからだ。
どうしてこうなったのか。私には理解出来ない。
今、私はプラネタリウムに来ている。休日のせいか満席だ。それはいいのだが、右側に小夜が座り、左側に想夜が座って、左右から手を握られている状態である。
二人ともスーツ姿のままだ。
「結婚式は良かったの?」
「うん。身内じゃなくて友達のだから。二次会もはじめから出る予定じゃなかったし。大丈夫だよ」
それよりヤコにまた会えて嬉しい、と臆面もなく告げる想夜に私は赤面した。
この男、勇者時代よりも更にタチが悪くなっている。予想外の再会から片時も手を離そうとしないのだ。
「ナンパ師じゃあるまいし、よくそんな言葉がすらっと出てくるね。恥ずかしくないの」
そう言いつつも、私の手を握りしめる小夜。想夜が私から離れないのでムキになっている。握りしめたついでにぐいっと私の手を引いて、自分の方へと引き寄せた。
「こっちにおいでヤコ。こっちのほうがよく見えるよ」
妙な独占欲を見せるところは、あの時と全く変わっていない。
「いや、ここでもそっちでも見え方はほとんど変わらないから。それより二人とも。人前で密着しないで。特に小夜!」
「嫌だ」
大人気なく小夜が言い、私は頭を抱えたくなった。人目が痛い。
道すがら聞いたところによると、二人は二十二歳。今年、大学を卒業するのだそうだ。
私は首を傾げた。ナハト時代から思っていたが、あちらの時間の流れはどうなっているのだ。同一ではないにしても、滅茶苦茶ではないか。
私が当然の疑問を口にすると、小夜が遠い目をした。
曰く。私がいる時間に座標を固定し、しかも金曜日という限定した、連続した時間に毎回繋げるのは、相当の苦労を伴うものだった、と。
彼の溢れるばかりの才能があったからこそ成せる技で、気を抜くとジュラ紀とか氷河紀に繋げてしまったこともあったそうだ。よくても戦国時代とか。
ナハトとソールの時間軸は平行ではないから、指定しないと当然のごとくとんでもない時代に繋がれてしまう。
そこまで聞いて、おや、と想夜はけげんな声を上げた。
「でも僕が一人でヤコに会った時、全然苦労しなかった。願うだけですんなり繋がったよ」
小夜は苦虫をかみつぶしたような表情で想夜を一瞥し、だから俺は昔からお前が嫌いなんだよ、と毒づいた。
私の手の紫のアザは、私という座標をセレナーデの魂が世界と世界の狭間で見失わないために意図的につけたものだった。しかし座標指定のためアザをつけたものの、転生先の時間が二十年以上前にずれてしまった。
ちなみにノクターンがアザを私につけてしまったのは意図しての事でなく、偶然であり無意識らしい。器用な人である。
天才肌で意識せずとも器用に物事をこなすノクターン。血のにじむような努力によって目的を達成する努力家のセレナーデ。
現世での小夜の苦労が垣間見えた気がして、私は少し彼に同情した。
「二人とも静かに。そろそろ始まる」
やいやいと口喧嘩する私達に向かって想夜がしぃっと長い指を唇にあてる。
上映が始まり、場内は深い暗闇に沈んだ。二人の姿は見えなくても、触れ合った手が暖かかったから、一緒に同じ空を見ていると分かる。
いつもは独りで見る闇を二人と見るのは不思議な心地だった。
まるでナハトに帰ったみたいだ。
何も見えない夜に身を浸していると、自分の身体が夜空に溶けて、大気の一部になってしまったかのような錯覚に陥る。このまま己が消えて、宇宙を構成する集合体の一部になってしまいそう。
まるで私の心を読んだかのように左手にぐっと力をこめられて、私はふと現実に立ち返る。
二人に会えるかどうか分からなかった頃、私は自分の存在が希薄になるこの感覚を好み、何度も体験した。
こちらの世界の夜とナハトの夜は繋がっていて、私が夜に溶けて無数にきらめく星のひとつになれば、同じく大気にいるかもしれない二人と一緒になれるかもしれない。また会えるかもしれない。そんなことを思ってプラネタリウムに通いつめたっけ。
私は暗闇の中、笑ってしまった。げんきんなものだ。二人にこうして会えてしまうと、そんな感情なんて跡形もなく吹き飛ぶんだから。
プラネタリウムでの時間は、いつもと同じで、でもいつもとだいぶ違う不思議なひとときだった。
「それで? ヤコはどちらが好きなの? もちろん俺だよね」
自信まんまんに言い放った小夜は、にっと意地の悪い笑みを浮かべて私を見た。
プラネタリウムの後、喫茶店に入った私達は丸いテーブルを三人で囲み座っている。
「小夜。先走り過ぎだよ。ほら、ヤコも困ってる」
私は頷いてティーカップを取り上げると、熱い紅茶を口に含む。やたらと動悸が激しくなっている。落ち着け私。
しかし伏兵は意外なところにいた。
「恋人はいますか? いなかったら僕と結婚を前提にお付き合いしてください」
ブルータス。お前もか。いや、ストレートな分、小夜よりもタチが悪い。
想夜のフォローにほっとしたのも束の間、私はふいを突かれてむせた。紅茶が気管に入った。
「お前の方が先走ってるよ。全く、油断も隙もない」
苦笑しながら小夜は私の背中をさすってくれた。涙が滲んだ目元を親指で優しく拭う。その懐かしい感触に更に涙が出てきた。
「ごめんなさい。僕が急ぎ過ぎた。ゆっくり決めていいから、泣き止んで」
目尻を下げた想夜は困ったように言って、慰めるように頬を撫でる。
私達が座るテーブルの下の物入れには、花嫁が投げた胡蝶蘭のブーケが入っている。
二人が友達に交渉して、そのブーケを貰い受けてきたのだ。
そしてそのブーケを私に受け取って欲しいと言っている。
その意味を汲み取れないほど鈍くもないし、子供でもないつもりだ。
私は体制を立て直すと、こういう時のきまり文句を口にした。
「まずは友達からでお願いします」
二股上等。魔性の女で結構。
時間はたっぷりとある。小夜と想夜にピアノを聞かせたいし、またプラネタリウムにも行きたい。他にもしてみたいことが山ほどある。
私は三人で過ごす時間に思いを巡らせ、にっこり笑った。
まずは二人とたくさんの思い出を作るのだ。
結論を出すのはそれからでも遅くない。




