メメント・ウィータ
軽度の残酷描写あり。
苦手な方はご注意ください。
「メメント・ウィータ。
覚えている? 俺としたもう一つの約束。
昔、教えたおまじない。ナハトの人間はね。
旅に出る時、魔物退治みたいな危険な任務時、他国との戦争に出征する時、大切な人が無事に生きて帰ってくるように、という想いをこめておまじないを唱えるんだ。
俺には家族も友人もいなかったから、誰も俺のためにその言葉を言ってくれる人はいなかった。
でも今はヤコがいる。俺はじきに死ぬけど、ヤコがおまじないを唱えてくれたら。
俺の生を心の底から信じて祈ってくれたら。
俺の魂は無事に生まれ変われる」
メメント・モリ
という言葉を私は聞いたことがある。死を想え、という意味のラテン語の警句で、私達はいずれ死すべき存在である。それを忘れるな。というメッセージが込められている。
死は誰にでも等しく訪れる。
男でも。女でも。
赤ん坊にも。若者にも。老人にも。
王様も。乞食も。罪人も。聖女も。
戦士も死ぬ。
魔女も死ぬ。
王子も死ぬ。
王女も死ぬ。
魔術士も死ぬ。
勇者も死ぬ。
魔王も死ぬ。
人間は死ぬ。
みないつか死ぬ。
「メメント・ウィータ。夜子。
同じ言葉を俺から君にも贈らせてもらうよ。
たとえ俺に何があっても。俺が消滅してもう二度と会えなくても。
ヤコは生きて。絶対に生き抜いて」
胸がいっぱいで言葉が出ない。私もおまじないを唱えてあげなくてはならないのに、何も言えない。私は涙がこぼれないように空を向きながら、ただ何度も頷いた。
「それじゃあ、ヤコ。そろそろ始めようか。
ノクターンも着いたみたいだ」
セレナーデが告げた刹那、鋭い紫の光が稲妻のように閃いて、私とセレナーデの間の空間を切り裂き、床に亀裂を生み出した。
「ヤコさんから離れろ!」
「ノン君」
身体がふわりと浮く。その名を口にした時、私はすでに勇者の腕に抱えられて宙を飛んでいた。
数メートルほどセレナーデと距離をとって、ノクターンは私を抱いたまま床に着地する。
「ヤコさん! こんな危ない所にどうして来たんだ。これじゃあ僕が独りで来た意味が全くないじゃないか!」
私の身体を下に降ろすと、ノクターンは苛立ちを隠さず怒鳴った。彼が私に向かって声を荒げるのは初めてだ。それだけ心配してくれているのだと思ったら、自然と謝りの言葉がでた。
「ノン君。心配かけてごめんね。でも私も貴方達のことが心配なの。心配でいてもたってもいられないから来たのよ」
怒りをストレートに表してしまったことに気付いた勇者は、私の謝罪を聞いて少し冷静になったようで、ごめん、と口にすると私の身体をぎゅっと抱く。
「僕の方こそ怒鳴ってごめん。でも僕だってヤコさんに怪我なんてして欲しくないんだ。その気持ちも分かってよ………」
私の髪に顔を埋め、切なげに彼は訴えた。
勇者の腕の中で視線を彼の左手に向ける。その手に携えられた抜き身の蘭夢の劔は鋭く研ぎ澄まされていた。彼の命を奪う恐ろしい武器。劔は不吉なまでに美しい光を放ち、私の心をずたずたに引き裂いた。
「怪我なんてしないわ。彼はネイドよ。分からない?」
「ネイド? あの男が?」
「初めまして。魂の片割れ。
俺の本当の名前はセレナーデ。お前の対なる魂にして、魔王の依代。勇者に殺されるためだけに存在する人間だ」
夜のローブがさっと鮮やかな紅に変化した。ローブから放出された膨大な光と熱が紫宮の闇を払い、隅々まで照らす。
「魔王の依代? 魂の片割れ? ネイドは一体何を言っているんだ」
「彼はノン君の魂の双子であり、魔王を宿せる唯一の器。私はあの人を」
ノクターンの左手に手を添え、蘭夢の劔を掴む。これは私の夢で出来た私の劔。ノクターンには殺させない。彼は私が。彼は私の手で。
「あの人を殺さなくてはならないの。蘭夢の劔を貸してちょうだい」
「駄目だ! 危ないよ。ヤコさん。そんな危険な事はさせられない」
ぐっと私の肩に手をかけると、勇者は私から劔を遠ざける。私はノクターンにつかみかかった。
「違うよ! ノクターン。危なくなんてない。あの人が、セレナーデが私に危害を加えるはずがない。ノン君だって知っているでしょ」
どちらも退かず、私達はもみ合いになる。
まともな力くらべでは叶わないだろうが、私を傷つけたくないらしい勇者は、本気で私を押しのけられない。
「セレナーデはそうかもしれない。でもあいつの中には魔王がいる。その魔王が君を害さないという保障はどこにあるんだ!」
「ノン君お願い!」
「絶対に駄目だ! 許さない」
「じゃあ貴方が私を守って。セレナーデの中の魔王が暴走したら。そうしたらきっと大丈夫」
勇者の抵抗がピタリと止んだ。私は動きを止めた青年の手から蘭夢の劔を抜き取った。
眩しさをこらえ、セレナーデの顔が見える位置に近づく。最期に目を見て話したかった。
ヤコさん、引き止めるようにノクターンが名前を呼んだが、私は振り返らなかった。
ただ目の前の彼を見据えて、その言葉一つ一つをこぼさないように、全てをすくい上げるように耳を傾けていた。
「ヤコ。生まれてから俺はずっと死について考えていた。
何故俺は死ななければならないのか。
生きるにはどうしたらいいのか。
どうして俺だけが死を突きつけられるのか。
気が狂うほど考え続けて、そうして気付いた。
人はみな、遅かれ早かれ死ぬということに。
どんな超人も死からは逃れられないのだということに。
しかしみな普段はそのことを忘れている。
死と自分はまるで他人だという顔をして生きている。
本当は違うのに。
死は俺たちの父であり母であり姉であり弟であり娘であり息子だ。
俺は生まれ落ちた時から、常に鼻先に死を突きつけられて生きてきたから。
だから死が他人じゃないということを身をもって知っていた」
ヤコ、再び呼びかけてセレナーデは………いや、魔王が半分降臨しかけている魔術士だった男は唇を三日月形に釣り上げて笑った。
彼の全身はさらに輝きを増し、もはや輪郭がとらえるのが不可能なほどだ。あまりの眩しさに、私は目を閉じてしまった。
「ヤコ。死ぬのは恐ろしいことじゃない。絶望じゃない。
俺は全く死を忌み嫌ってなどいないんだ。
ヤコに送り出してもらえるのならば、それに勝る歓びはない。
紫宮で蘭使の劔に貫かれた聖士は玉となり、参道を通って新たな世界へ導かれる。
お願い。俺の魂をヤコの世界に導いて。
それが出来るのはヤコだけだから。俺はそのためにヤコを呼んだんだよ」
目を閉じて声だけを聞いていると、そこにいるのは魔王ではなく、セレナーデなのだと錯覚しそうだった。
姿は変わっても、声は変わらずセレナーデだ。でも彼がセレナーデでいられるのも、あとわずかな時間だけ。
魔王になりかけた彼が放出する熱エネルギーがどんどん強くなっていくから、理屈じゃなくそう分かった。
私は覚悟を決めた。また会えることを信じて。彼との最期の約束を果たすため、夢の劔を手にして一歩また一歩を踏み出す。
失明してもいい。無理矢理瞼をこじ開けて、セレナーデの全てを私の記憶に焼き付けようとした。
近づけば近づくほどに、全てを灰にする光と熱が私を容赦無く焼く。でももう止まらない。
剣なんて扱ったことはない。私は構えもなにもとらないまま、ノクターンにしたように魔王に体当たりした。あまりの熱さに自分の身体が燃え出すかと思った。
歯を食いしばり、太陽のローブに包まれたその身体に深々と劔を刺した。
最期に目にしたセレナーデは赤く灼けつく光の中で微笑み、愛しい恋人を抱擁するように両腕を広げ私の劔を受け入れていた。
「メメント・ウィータ。セレナーデ」
「ありが、とう、ヤコ」
口から血潮と共に感謝の言葉を吐いたセレナーデは光をまといながら、自らの血だまりの中に倒れた。
これで終わったのだろうか。
魔王はこんなにもあっさりと倒されるのだろうか。
私は自ら手を下しておきながら、目の前の骸と私のよく知るセレナーデが重ならなかった。今、血だまりに倒れているのはただの魔王で、セレナーデじゃない。そう思いたかった。
これは現実逃避なのだろう。私が二つに分裂して、現実に直面している私とその姿を客観的に観察している私と二人いるような心持ちだった。
目の前で起こっている事象全てがガラスの板ごしに行われているような。
倒れてもその身体は熱と光を絶えず発し続けている。このまま焼き殺されるんだろうか。ぼんやりとそんなことを思った。
「ヤコさん。大丈夫?」
視界に気遣わしげなノクターンの顔が飛び込んでくる。腕をぐっと掴まれて顔を覗き込まれた。目、焦点があってない、と呟いて彼は痛ましげな表情になり、そっと私の肩を抱いて骸から遠ざけた。
「すごい熱量と光。目がつぶれそうだ。これが魔王なのか」
「魔王じゃない………。あれは太陽よ」
かつてセレナーデだったあれを魔王とは呼んでほしくなかった。
「太陽。あれが」
正確には太陽のなり損ないか。あれが本物の太陽であれば私もノクターンもとっくの昔に熱によって焼かれているだろうから。
私達は間に合ったのだろう。
ー また俺は死ぬのか。勇者でもない、たかが人間風情に貫かれて
ふと声がした。心臓をわしづかみにして、ぎりぎりと絞り上げるような、ぞっとするような声。
ー 駄目だ。器はもう死んでいる。俺はまた消えるのか
声に悔恨が滲む。
ー また四百四十四年待たねばならぬのか。夜子! お前のせいで!
姿のない何かが激しく憤っている。魂を抉られるような怒号とともにものすごい量の憎悪を叩きつけられて、ぐらりと倒れそうになった私を勇者が支えてくれた。
「あいつは魔王だ。ヤコさん。下がって。僕がとどめを」
ノクターンが身構えたその時。
ー 嗚呼………全てがかすむ。零れ落ちていく。だがせめて夜子を道連れに……
骸を貫いていた蘭夢の劔がひとりでに抜けた。まるで生き物のように浮き上がり、凄まじいスピードで私目掛けて飛んでくる。避けられない。
「ヤコさん!」
「ノン君!?」
あろうことか勇者は劔に背を向けて、私の身体を己の身体ですっぽりとくるんだ。
一瞬後に衝撃。ノクターンの身体に守られた私は痛みもない。でも劔をまともに受けた勇者は。
「あぶな、い、ところだった………ね。ヤコ、怪我は………な、い」
全体重をかけて倒れ込んできたノクターンを支えきれず、私は彼と共に倒れ込んだ。彼の背中から紫に輝く劔が生えている。
「怪我しているのはノン君じゃない! なんてこと! 私が守れと言ったばかりに!」
「それは………僕の」
言いかけて、勇者はごふりと血を吐く。呼吸が荒い。息も絶えだえに彼は言葉を紡ごうとする。
「しゃべらないで! ああ、ここにアーラがいれば!」
「違う………かばったのは、ぼくの意思」
命と血がどんどん流れ出ていく。私にはどうすることも出来ない。なんて無力な。私が貫かれれば良かったのに。
私に出来るのは消えゆく勇者の魂のためにおまじないを唱えることぐらいだった。
「メメント・ウィータ。ノクターン」
「ヤコ、ぶじで、よかった。太陽………死ぬ前に見られて、よかっ」
切れ切れに紡がれていたノクターンの言葉が途切れ、彼はそのまま動かなくなった。
ふいに天井で展開していたオーロラが巨大にふくれ上がり、光の爆発が起き、私達に向かって噴水のように降り注いだ。
光のカーテンが二つの骸に当たる。まるで女神オルキスの慈悲のように。
骸が光によって分解され、砂のような粒子になって崩れて消えていく。そして消えゆく粒子の中から紫色の玉が現れた。
まるでその出現を待っていたかのように、オーロラが白く輝く銀色の道に姿を変えると、骸から生成された二つの玉は導かれるようにしてその道を辿り、高みを目指して上昇し始める。
ー 玉となり参道を通って新たな世界へ導かれる
セレナーデの言っていた、あれが参道なのだろうか。あの美しい銀の道が。
逝く。二人の魂が逝ってしまう。赤く不気味に輝く二つの血だまりと、私をたった独り遺して。思わず伸ばした私の手をすり抜け、玉はぐんぐん昇っていき、やがて、見えなくなった。
そして。
誰もいなくなった。




