届かないアーラ
人は天に焦がれる。
届かないと知ってもなお、地に落ちた鳥のように、羽根をもがれた蝶のようにもがく。
勇者が翼を望んだのもまた、常に高みを目指す人の性なのだろう。
だけれどアーラに想いは届かない。
かわいそうなノクターン。
それでも。羽根をもがれて苦しんだとしても、生きて欲しいと思う私は残酷なのだろうか。
ついに来て欲しくない日がきてしまった。それも最悪の形で。
私の目の前にはパソコンのディスプレイが越えられない壁のように立ち塞がっている。
画面の中には蒼白な顔色の勇者。
勇者の首には銀に光るナイフが当てられている。あそこは頚動脈だ、と私の中の誰かが叫ぶ。掻き切ったら出血多量で死んでしまう。
「ノクターンを止めるんだヤコ!」
ネイドの声が途切れる。耳障りなノイズとともに揺らぐ画面。映像が消えそうになる。
駄目だ。今を逃したら永遠にノクターンを喪ってしまう。お願い、映して!
私の想いが通じたのか、なんとか持ちこたえた。
魔波が安定していない。繋いでいるネイドの魔力も足りないし、この場所は通信するのに適さない。それでも今は緊急事態で、ネイドはこうするより他にとるべき方法がなかった。
「馬鹿なことはやめろ。ノクターン!本気で死ぬ気か!」
「邪魔するな!」
勇者にナイフを引かせまいと、腕にしがみついている魔術士が払い除けられる。ネイドは吹っ飛んで硬い石の床に身体を叩きつけられる。
「ノン君! 止めて!」
私の叫びに勇者が一瞬動きを止めた。
「姫様に言われたんだ」
「何を?」
声が、いや、全身が震えている。気を抜くな。彼の手にはまだナイフがある。
手負いの獣のような目をした勇者は嗤った。
「貴方さえいなければ、レーギスは………」
ノクターンはナイフを再び耳の下にピタリと当てた。
「私のものだったのに、と」
「ノクターン!」
私はもう何も考えられなかった。床を蹴ってディスプレイに頭から突っ込んだ。
身体が透明な膜を通り抜ける感覚。飛び込んだ勢いで勇者の身体に体当たりした。必死に彼の腕を掴むが、振り払われそうになる。力では叶わない。
こうなったら最終手段だ。
首を切ろうとしていた刃を強く左手で握り込んだ。掌に激痛がはしる。ノクターンがひるんだ隙に、私はすかさずナイフを持つ手に思い切り噛み付いた。こちらも無我夢中だから加減などしていない。肉を食い破るぐらいの強さだ。
呻きとともにナイフが勇者の手から落ち、這って移動してきたネイドがナイフを回収し、懐に納めた。
気付けば私は獣のような叫びを上げながら、ノクターンにむしゃぶりついていた。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿とひたすら連呼し、血塗れの手を背中になすりつけ、両腕でその身体をぎゅうぎゅう締め付けた。
彼の真っ白なシャツが私の血で汚れようとも構わなかった。
もしも間に合わなかったら、彼自身の血が今とは比較にならない量でそのシャツを赤く染めていたのかもしれないのだ。これぐらい何てことはない。
「ヤコさん。ごめん。僕が悪かった」
ずっと馬鹿馬鹿と言い続けている私の頭をぎゅっと胸に押し付けて、ノクターンが切な気に呟く。
「僕が悪かったから………謝るから。泣かないで」
私はしゃくりあげながら、頬をシャツにぐいぐいこすりつけた。
「泣いてない!」
「説得力がないよヤコ」
「うるさい!」
ノクターンにしがみついている私にはネイドの様子が見えないが、怪我はないのだろうか。けっこう派手に飛ばされていたような気がしたけれど。
「ヤコ。離れて」
「いや!」
ネイドの声が背中の方から聞こえたと思ったら、両脇の下に腕が入り込んできて、引き剥がされそうになる。
「ヤダってば!」
意地でも離れない覚悟でしがみついていると、ネイドが呆れたように息を吐いた。
「馬鹿じゃないの」
「ヤコさん」
ぽんぽんと頭を宥めるように優しく叩くのは勇者の手か。
「嫌だってば」
臨界点を越え、色々なものを吹っ切った私は見事に幼児帰りをしていた。正気では考えられない行動、言動のオンパレードである。後で思い返して悶絶するに違いない突き抜けっぷりだ。
「そうじゃなくて」
ふっと頭に吐息がかかって、彼が笑ったのが分かった。
「ヤコさん、柔らかくてあったかい」
キュッと頭を抱き締められたらと思ったら、頬にふわりと唇が降りてきた。
そのこそばゆい感触に私は瞬時に赤面した。そして勇者を拘束する私の両腕が緩んだ瞬間、ズボッと、私の身体がノクターンの腕の中から引き抜かれた。
「馬鹿! ヤコの馬鹿!」
「ネイド」
赤ちゃんが高い高いされるように持ち上げられ、トンと地面に降ろされる。
「怪我してるんだろう!」
ネイドはいつになく真剣な声音で怒鳴ると、血塗れの私の左手をそっと開いた。魔力を集中しようとしているが、上手くいかない。
「駄目だ。力が足りない」
苦々しげに呟く魔術士。蘭夢の劔を生成するのに力を使い果たしてしまったのか、ネイドは不調が続いていた。
横から勇者の声がかかった。
「僕がやるよ。姫様ほどじゃないけど癒しの術が使えるから」
魔術士は悔しげに舌打ちすると、私の左手を勇者に委ねた。
「傷の一つでも残してみろ。許さないからな」
「分かっているよ」
ノクターンは痛ましげに私の掌をはしる傷といまだ流れる血を見た。恭しく私の左手を掲げると、目を閉じて祈りの言葉を天へ捧げる。
淡い銀の光とともに左手の痛みが和らぎ、消えていった。
「すごい。全然痛くない」
手を閉じたり開いたりしてみるが、引き攣れた感覚もなく、痛みもしびれもない。血の汚れまでは落ちていないので傷の状態は確認できないが、完全に塞がっているようだ。
「ヤコさん。ちょっとごめんね」
しかしノクターンはひょいっと掌に唇を寄せると、舌を這わせて掌にべったりついた血を舐めとった。
あまりのことに私は動けない。身体中の血が全て顔に逆流しているのか、というぐらい顔が熱い。
私の動揺も意に介さず、あらかた血を舐め終えたノクターンは、左手を見てよし、と満足げに頷いた。ネイドの時と同じだ。紫色の蘭の花のような形をした不思議な痣がそこにある。
「よし、じゃないでしょ!」
「ノクターンの馬鹿!」
マイペースな勇者の頭に私とネイドの手刀が振り降ろされた。
「知らなかったんです。姫様がレーギスの婚約者だったなんて」
ネイドが子猫を守る母猫のように神経をピリピリさせている。私の右手は魔術士にしっかりと握られており、ついでに肩も抱き寄せられているが、左手は何故か勇者が握っている。
「レーギスは婚約破棄をしようと姫様に持ちかけたそうです。僕を想ったまま、姫様と結婚することは出来ないと」
私はむずむずしていた。話の内容にではない。
何なんだこの二人は。一体どういうつもりなんだ。必要もないのに片時も離れないなんてひっつき虫じゃあるまいし。
先ほどは私が勇者にひっつき虫だったが、あれはショックで幼児帰りしていただけだ。ほんの一時の気の迷いだ。忘れて欲しい。
勇者に魔術士を挑発する意図はないようだが、ノクターンが私の手を握ったままなので、ネイドがむきになる。両者に手を離す気はないらしい。
「姫様は幼い頃からレーギスを想っていた。だから婚約破棄を言い渡されて、頭が真っ白になって、気付くとナイフを両手に僕に襲いかかっていたそうです」
「アーラ王女のお気持ち。とってもよく分かるわ」
お互いに憎からず思っていた間柄なのに、出会って数年の、しかも男性の恋敵のせいであっさり婚約破棄されるとか。私も同じ立場だったら、ナイフとまではいかなくても、バットぐらいは振り回していたかもしれない。
私は何度めか分からないあくびをした。不真面目だからではない。三十路の身に夜更かしは堪えるのだ。
「ヤコさん。疲れた?」
目敏い勇者がすかさず尋ねてくる。
「ちょっとね」
私は腕時計を見ようとして、自室のデスクに置いてきてしまったことを思い出した。
今は一体何時で、朝なのか夜なのか。明るくなることのないナハトでは判別がつかない。
「レーギスはこの馬鹿を庇って負傷したんだよ。それで錯乱したこいつは王女のナイフで自殺をはかろうとした。とんだ三文芝居だ」
「ネイド!」
毒を吐いた魔術士を咎めると、プイッとそっぽを向かれてしまった。でも手は離さない。
「いいんだヤコさん。ネイドの言う通り僕が馬鹿だったんだよ」
自嘲ぎみに笑う勇者の姿が悲しくて、私は再び泣きそうになったが、鼻をつままれて涙が引っ込んだ。
「ヤコも馬鹿だよね。こいつのために泣くなと何度言ったら分かるの」
「らって………」
「鼻をつままれたまま喋らないでよ。アホな人みたいだよ」
無理に喋ろうとした私にネイドは冷たく言い放った。
勇者はそっと私の左手を離すと立ち上がった。
「何処行くの?」
「レーギスと姫様の所だよ」
私は思わず立ち上がろうとして、ネイドの腕に阻まれた。
「レーギスの傷は深かったけれど大丈夫なんだ。最高の癒し手である姫様がついているからね」
焦った私の必死の顔を見て、勇者は微笑んだ。
「僕はもう誰も傷付けたくないし、誰も僕の運命に巻き込みたくない。だから僕は」
その後に続いたノクターンの言葉を聞いて、私の頭は真っ白になる。
「独りで行くよ。魔王を倒しに」
飛び上がりそうになった私は、ネイドに凄い力で羽交い締めにされた。
勇者は淡く笑って、顔を寄せると私の瞼に唇を押し付けて涙を吸いとった。
「今までありがとう。おやすみなさい。ヤコさん。よい夢を」
まぶしげに笑う勇者の顔を見たのを最後に、私の意識は闇に落ちていった。




