プロローグ
金曜日の夜は、空気がふわふわ浮かれている。仕事上がりで皆疲れているだろうに、帰ろうとはせず、デパートで買い物をしたり、待ち合わせをしたり、繁華街へ流れて行く人間も多い。
そんな中、私は寄り道もせずに家路を急いでいた。
平素よりも人口密度の高い駅を脇目もふらず通り抜け、いつもと比べて明らかに人がまばらな下り電車に乗る。
最寄り駅に着くと、スーパーに寄って、夕食になりそうなお惣菜と出来合いのもの、スパークリングワイン一本を手早く購入した。
食費節約と栄養バランスのいい食事の摂取という理由から、平日は自炊を心がけている私は、金曜日の夜だけはジャンクな食品とお酒を買うことを自分に許している。
帰宅し、バッグを置くのもそこそこにパソコンを立ち上げた。
いつもなら夕食の支度の前に部屋着に着替え、化粧もすぐに落としてしまうのだが、金曜日の夜だけは外出着から着替えず、化粧もすぐには落とさない。
足に絡み付くストッキングを脱ぎ捨て、浴室で軽く足だけを洗った。
「ヤコさん。こんばんは」
上着をハンガーにかけ、パソコンの前に買ってきた夕食とスパークリングワインを並べたところで、起動済のパソコンから若い男性の声が聞こえた。
「こんばんは。ノン君」
私は満面の笑みを惜しげなく、画面の向こうにいる勇者様に向けた。
液晶ディスプレイの中、勇者ノクターンの背後には深い夜の世界が広がっていた。
私は四聞夜子。30歳。しがないOLだ。
恋人なし。都心で一人暮らし。仕事をバリバリこなすわけでもなく、プライベートで秀でた趣味があるわけでもない。
現代日本において平均的なOL。いわゆる世間にとって毒にも薬にもならない存在。それが私だ。
そんな平穏平凡な日常を送っている私だが、実は数年前から勇者様の相談係のバイトをしている。時給は4000円。
OL業と両立できる副業を求めて、ネットをさまよっていたところ、ふと目についた求人広告を閲覧したのがこのバイトを始めたきっかけである。
【ただ話を聞くだけのカンタンなお仕事!】
冷静な目で見ると胡散臭いことこの上ない謳い文句だが、あの時は楽して稼ぐという浅ましい考えしか頭になく、熟考する前に手が動いてリンクをクリックしていた。
直後、パソコンの液晶ディスプレイにフードを目深に被った男がいきなり出現した時は、タチの悪いウィルスに感染したと誤解した。錯乱したついでにパソコンのHDを叩き壊そうとしたのは今ではいい思い出だ。
相談役とは名ばかりでほとんど愚痴聞きのようなものであり、労働の割にたくさんの報酬をもらっている。
拘束されるのは金曜日の夜の4時間だけ。たまに突発的に勇者様から通信がつながることもあるが、契約外の業務時間は、土日祝日の外出していない夜であるとあらかじめ伝えており、先方も承知の上である。
繊細な神経な持ち主である勇者様は、大抵、大きなものからささいなことまで様々な悩み事を抱えていたが、たまに悩みも愚痴聞きもない時があって、そんな時は二人で談笑して終わることもある。
勇者様はまだ若い。今年で18歳になったばかりだ。
血のつながった弟はいないけれど、 私にとって勇者様は弟のようなものだった。