この花に及かず
みんみんみんみん……。
閉めきった窓の向こう、運動部の喧騒にまぎれて蝉時雨が微かに聞こえる。どの部活も少し先の夏の大会に向けて練習に励んでいるのだろう。
それにしても古人も随分粋な真似をしたものだ。冬の季語引っ付けて、夏の代名詞にしてしまうなんて。クマゼミの鳴き声を耳にしながら思う。
外は毎日真夏日だが、ここはそうでもない。
休みの図書室は冷房の使用が許されているからだ。
利用者のいない閑散とした室内で、私は机に向かい静かに本を読み漁る。
朝から汗だくになって蜃気楼の立ち昇る道路を歩き、わざわざここまで本を読みに来る理由は特に無い。言うほどの本好き、という訳ではないし。
ただ、どうしても述べろというのだったら、きっとそれは――――……。
やめた。
少しでもそっちの方向に思考を傾けると、全部をもっていかれそうになる。
誤魔化すように読みかけの本をパタンと閉じ、背伸びをした。ついでに欠伸も。
見計らったように丁度、背後の透明なガラス越しにグラウンドからサッカー部の休憩の合図であるホイッスルのけたたましいであろう独奏が聞こえた。耳をつんざくようなそれも、二階の密封された図書室でははその程度にしか聞き取れない。
座り続けた椅子から静かに立ち上がり窓辺に歩み寄る。
それは勿論、本を元の書架に戻す為では無い。現に書籍は未だに机の上にある。もっと利己的な思いからの行動だ。
図書室の入り口近のカウンターにちらりと視線を投げかける。
夏休みにまで呼び出された可哀想な図書委員は、暇そうにデスクにうつ伏せていた。
クーラーの生産する快適さに負けてきっと意識は睡眠欲求の中に片足を突っ込んでいる。手持ちぶさたなその様子を見るからに、こちらを気にすることはまず無いだろう。
何より、窓と向き合う私のカウンター側にはいくつかの本棚が並び、隙間から覗きこまない限り探りを入れることは不可能なのだ。つまり、私の立ち位置は死角にある。
そっと、鍵にてを掛ける。
たったそれだけの行為に、私の心臓はどくどく脈打った。まるで罪を犯そうとする小心者の気分だ。
早い鼓動をなるべく無視して施錠された鍵を下ろし、出来るだけ音をたてないようゆっくりと窓ガラスをスライドする。吹き込んだ南風が薄汚れたカーテンを優雅に攫った。同時に飛び込んできた熱気に、涼しさに慣れた顔をしかめつつ、少し身を乗り出し首を回し階下を見渡す。
――――いた。
探し求めてい人物を見つけ、視線を固定する。地上にいるサッカー部の彼は、ひまわりの咲くレンガの花壇に腰掛け水分補給をしていた。
背の高いその花が落とす影を避暑地としているのだろう。容赦ない日差しの中、彼、橋本夏樹はここ連日部活動に参加し青春を謳歌している。
最も、実際に競技をプレイする選手としての姿をこの目で見たわけではない。あくまでも目にするのは、水分補給をする彼の姿だけだ。
だから、休憩時間の盗み見程度では部活を楽しんでいるのかは分からない。サッカー部は練習が厳しいことで有名だ。また、一度入部すると、なかなか退部できないらしい。
嫌々渋々ボールを蹴っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。でも、なんとなく楽しんでいるのではないのかな、とは思う。勿論単なる憶測にすぎないの。そうであってほしい、という願望、ある種の憧れが含まれているのかもしれない。
とにかく、彼は現在進行形で火照った体を冷やし、体力を戻している。
ペットボトルに口をつけ、豪快にスポーツ飲料を流し込さまは男らしい。
それから持参したと思われるタオルで吹き出した汗を拭い、頭にかぶせる。横顔はこれでほぼ遮られてしまった。
それでも一心に見つめる。ユニフォームから覗く日焼けした浅黒い肌、高校に入学してから半年足らずで鍛えられた両脚、タオルからチラチラと見え隠れする、一般人と大差ない鼻筋。
視界が捉える僅かな体の部位が記憶の中の彼と符合し全体像を作り上げ、、私の脳裏に克明に浮かび上がる。その度に、気温では無い灼熱が私を苛み、頭をガンガンさせた。
何が彼にそうさせたのか想像する余地も無いが、彼は不意に顔を持ち上げ、視線が二人、かち合った。
こちらを見上げる表情は、タオルのせいもあり遠目からでは窺えない。それでもしっかり視線は直線に結ばれている瞬時に理解し、全身が硬直した。
ひゅ、と喉仏を押さえられえ、呼吸を奪われたような錯覚に陥る。
蝉の大合唱が遠ざかり、直立不動のまま身動きが取れず、彼を凝視することしかできなかった。無音の世界に放り込まれ、何をしていいか賢明な判断ができない。
今直ぐ顔を背けるべきなのか、果てまただんまりを保つべきなのか。
親しくもない彼の名を呼び声を掛けるべきか、それとも誤魔化すように微笑むべきか。
何がこの関係上不自然では無くて、何が正しいのだろう。
何度も目を向けたことは夏休み中にも前にもあったが、こんな場面に遭遇するのは初めてだ。予想だにしなかった。
気絶でもして今直ぐにこの最悪の展開から逃げ隠れてしまいたい。
再三再四素早く逡巡した揚句、私のとった行動は全身に指令を届けへ直ちに窓を閉め鍵を掛け更にはカーテンを引きその場にずるずると座り込む、だった。
何もそんなに念入りにする必要はないのだろうけれど、とにかく少しでも可能な限りの謝絶を試みた。
背後の棚に寄りかかり、全体重を掛ける。
窓を開放する前と同じ、いやそれ以上に心拍が速い。早鐘のように刻むリズムを五月蝿いと何処か遠くで思う。上手く頭が回らないのだ。
体中の隅々まで網羅する血管を巡る熱い血を、心から煩わしいと感じる。
速やかに冷静を保つべきなのに、真っ白な脳内ではどうも上手くいかない。
体が鉛のように重くなって、自分のものではないような気がした。
のろのろと手の甲を閉じた瞼に押し当て、天井の方に顔を向ける。
クーラーの冷気で冷えた手が、ただきもちいい。スゥッと全身を凍結して、落ち着いた思考判断を開始
させた。
真っ先に脳裏に思い描いたのは、彼の背景の、鮮やかで舷しい黄金色だった。
――――ひまわりはその昔、女性だった。
いつかの遠い昔の、何処かの神話を思い返す。
美しい彼女は太陽に恋をした。
しかし彼女の想い人が愛したのは、よりにもよって彼女の姉だった。
絶望した彼女は二人の仲を故意に引き裂く。しかしそれによって彼女は太陽から侮蔑を買うのだ。
深い深い悲しみの闇に落とされた彼女は、ただただ地上で上空の愛しい人を健気に日で追う。その姿がいつしか花となり、大きな太陽を咲かすひまわりとなったのだ。
彼女はあまりにも幼稚だった。自分が持て余す感情を、向こうも同じだけ抱えていると信じ込んで。
希望の数だけ絶望して、失意の底をついには覗いた。
その感情は、光り輝く相手に対する羨望だったのではないのか。恋に恋をしていたのではないのか。
胡散臭い神話を知った当時の私には、そうとしか思えなかった。
そして、今も。
ひまわりは、確かに太陽を追いかける。朝早くから夕暮れ時まで、恋い焦がれながら必死に頭上を仰ぎ見る。
しかしそれは、蕾の時だけなのだ。
花開き、大人になった彼女は思い知る。この恋が、報われぬことを。想えば想うだけ、無意味なことを。
そうしてついに、成長し自分を取り巻く運命を知った彼女の愛のいたちごっこは終わる。
今現在の私の感情も、それと同じなのだ。
橋本夏樹へ散々視線を送る意味は、単なる憧憬から。磁石が対極同士惹かれるように、自分とは正反対の存在の彼に私は興味を持ってしまったにすぎないのだ。この感情の本当の名前を知ってしまったら、きっと私は立ち直れない。そうなるのだけはどうしても避けたかった。身の丈合わない恋慕の情は自分をいたく傷つけていると端から分かっている。
だからお願い、心という者の準備が整い、クリュティエと同じ深淵に叩き落とされる覚悟ができるその日まで――――
「この花に及かず」
(もう少し蕾のままでいて)
なんとも暑苦しい小説になりました。
向日葵をモチーフにした女性は前から書きたいと思っていたので、今回部活で書けて満足でした。色々至らない所はありますが……。
良ければ感想・評価お願いします。
今後の部活動の参考にさせていただきます。