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灰皿の前で素顔のきみ

掲載日:2026/06/06

灰皿の前で、素顔のきみ — 第1期 前編(第1話〜第12話)


════════════════════════════════════════


【第1話】灰皿の前の、彼女 〜いつもの笑顔じゃない〜


 五月の夕暮れは、どこか間抜けだと思う。  まだ夜でもないのに空が橙になって、帰りたくもない家への道を急かすように染めていく。  田中誠司は四十二歳。ブラック企業の営業部長代理という肩書きだけは重くて、中身はほとんど空っぽだった。  残業が続いて十八時に退社できただけで「早上がり」と自嘲するようになって、もう何年になるだろう。  コンビニでもいいのだが、誠司には週に三回、必ずここへ寄る理由があった。  駅前のスーパー「フレッシュマート橋本」。  別に値段が安いわけでも、品揃えが特別いいわけでもない。  ただ、レジの女の子の笑顔が——  「いらっしゃいませ、こんにちは! 今日もいいお天気でしたね」  聞こえてくる明るい声に、誠司は思わず肩の力を抜く。  二十二か、二十三か。名札には「葉山かえで」と書いてある。ポニーテールをゆるく結んで、頬に小さなえくぼ。  誠司がこの店を使うのは、彼女の笑顔が会社の疲れをほんの少しだけ溶かしてくれるからだ。  もちろんそんなことは誰にも言えない。四十二歳のおじさんが「レジの子の笑顔目当てでスーパーへ行く」などと言えば、ただの気持ち悪いやつになる。

◆◆◆


 誠司は発泡酒二本とサラダチキンとおつまみを籠に入れてレジに並んだ。

「お次のお客様、どうぞ〜」


 今日も葉山かえでのシフトだった。スキャン、スキャン。手際がいい。

「袋はご利用ですか?」


「あ、いつものやつで」


「はい! では二十三円いただきます。ポイントカードはお持ちですか?」


 満点の笑顔。眩しいくらいだ。  誠司は「ありがとう」と言って袋を受け取り、外へ出た。  出口の横、小さな灰皿スタンドのそばに立って、コートのポケットからタバコを出す。  百円ライターで火をつけ、一口目を深く吸った。

——煙が白く昇って、夕空に溶けていく。


 一日に一本か二本。それが誠司の楽しみのすべてだった。

◆◆◆


 次の煙を吐き出したとき、横に人の気配がした。  誠司は視線を横にずらして——固まった。  葉山かえでが、立っていた。  ただし、レジの彼女とは別人のような顔をしていた。  ポニーテールを結び直した跡がある。エプロンは外している。制服のシャツの胸元のボタンを一つ開けて、コンビニで買ったらしい缶コーヒーを持って、灰皿の横に腰を下ろした。

「……あ」


 目が合った。かえでは一瞬だけ表情を動かして、また前を向いた。  いつもの接客スマイルは、影も形もない。  眉をわずかに下げて、唇をまっすぐに結んで、缶コーヒーを一口飲む。

クール。ボーイッシュ。別人みたいだ。


 誠司は何も言えなかった。  かえでも何も言わなかった。  ただ二人並んで、夕暮れの空の下で、それぞれの沈黙を持て余した。  かえでがタバコを持っていないことに気づいたのは、しばらくしてからだった。  吸うわけじゃないのか。ただ、休憩に来ただけ。

——それでも、ここにいる。


 誠司は二本目に火をつけようとして、やめた。  今日はもう一本でいいや、と思った。  なんとなく。理由はない。  「お先に」と言おうとしたが、声が出なかった。  代わりに小さく頭を下げて、誠司は帰り道へ踏み出した。  背後で缶コーヒーのプルタブを開ける音がした。



────────────────────────────────────────


【第2話】休憩の十五分 〜タバコを吸わない理由〜


 誠司は翌週も、フレッシュマート橋本へ行った。


 葉山かえでは今日もレジにいた。

「いらっしゃいませ! あ、いつものお客様ですね」


 初めて「いつもの」と言われた。

 誠司は少しだけ頬が緩むのを感じて、すぐに締めた。四十二歳が喜ぶことじゃない。


「今日も発泡酒ですか? 最近、このハーフ&ハーフが人気ですよ」


「そうか。じゃあ試してみるか」


「はい! きっとお気に召すと思います!」


 満点の笑顔。百点満点。採点するつもりはないが、プロだと思う。


◆◆◆


 外に出て、灰皿のそばに立つ。タバコに火をつける。

 夕空は今日も橙だった。


 五分ほどして、また来た。


 葉山かえでが、エプロンを手に持って、缶コーヒーを持って、灰皿の横に来た。


 今日も吸わない。ただ立っている。


 誠司はしばらく黙って、煙を吐いて、それから言った。


「タバコ、吸わないのか」


 かえでは少し間を置いて、答えた。


「吸いません」


「なんでここにいるんだ」


「……外の空気が吸いたいので」


 素っ気なかった。レジのときの「!」が全部取れたような喋り方だった。


 誠司は苦笑した。


「灰皿の前で外の空気、か」


「タバコの煙、嫌いじゃないです。なんか……落ち着く気がして」


 それだけ言って、かえでは缶コーヒーを飲んだ。会話を打ち切る雰囲気ではなかったが、続ける気もなさそうだった。


誠司は、この子が職場でどんなにニコニコしているか知っている。だからこそ、この顔が珍しかった。


「……レジの子だよな、確か」


「……はい、そうです。でも、今は休憩中です」


「そうか。じゃあ今はただの人か」


「そうです。ただの人です」


 かえではそれだけ言って、また缶コーヒーを一口飲んだ。


——ただの人。


 誠司はその言葉を、煙と一緒に吐き出すように繰り返した。

 俺も今は、ただのおじさんだ。


 二人は並んで、夕空を見ていた。

 会話はそれだけだったが、悪くなかった。



────────────────────────────────────────


【第3話】名前を知らなくていい 〜別人のふり〜


 次に会ったのは三日後だった。


 誠司がいつもの位置に立って火をつけると、数分してかえでがやってきた。

 今日はコーヒーじゃなくて、緑茶のペットボトルだった。


「また来たな」


「休憩はここって決めてるので」


素っ気ない。でも嫌そうではない。


 誠司は煙を吐いて、少し考えてから言った。


「俺のこと、覚えてるか。レジで」


「……覚えてます。発泡酒とサラダチキンの方ですよね」


「そうそう。でも俺もあんたの名前知らないし、あんたも俺の名前知らない」


「そうですね」


「ここではそのままでいいか。名前とか関係なしで」


 かえでは少しだけ首を傾けて、ペットボトルの蓋を開けながら答えた。


「……それ、私が言いたかったやつです」


 誠司は少し笑った。


「そうか。じゃあ合意だ」


◆◆◆


 その日から、二人の間に暗黙のルールが生まれた。

 レジでは客と店員。

 灰皿の前では、ただの人と、ただの人。


 かえでは誠司に気づいても、レジでそのことを匂わせなかった。

 誠司もレジで「この前話したね」とは言わなかった。

 そういう空気が自然に出来上がっていた。


「仕事、大変そうですね」


 ある日かえでが、前を向いたままそう言った。


「なんでわかる」


「来るたびに少し顔色が悪くなってるから」


 誠司はしばらく黙った。


「……ブラックだから」


「大変ですね」


「あんたの仕事も大変だろ。ずっとニコニコしてて」


「……慣れました」


 かえでは緑茶を一口飲んで、少しだけ続けた。


「でも疲れるときはあります。だからここに来るんだと思います」


 誠司はうなずいた。


——俺も同じだ、と思ったが、言わなかった。


 灰皿の前は、二人にとって、小さな休戦地帯になっていた。



────────────────────────────────────────


【第4話】雨の日の灰皿 〜屋根の下で、少し近く〜


 六月に入ると梅雨がやってきた。


 その日は夕方から雨が降り始めた。

 誠司がスーパーを出ると、小雨がしとしとと灰皿にも降りかかっていた。


 灰皿スタンドの上には小さな屋根があった。本当に小さくて、一人立てばちょうどいい広さだ。


 誠司が屋根の下に入ってタバコに火をつけると、しばらくしてかえでが来た。


「狭いですけど、いいですか」


「どうぞ」


 二人が並ぶと、肩の距離が近くなった。

 かえでは気にしていないようだったが、誠司は少しだけ意識した。

 四十二歳にもなって何をやっているんだという気持ちと、それでもちょっとだけ嬉しいという気持ちが混ざった。


「雨、好きですか」


「嫌いじゃない。タバコが湿るのは嫌だけど」


「私は好きです。なんか音が全部消えるから」


雨音が、街の雑音を包んでいた。


「音が消えるのが好きなのか」


「うるさいのが苦手で。お客さんが多い日とか、声が重なって頭痛くなるときあるんです」


「それは大変だな」


「でも仕事ですから」


 かえではそれ以上言わなかった。言い過ぎたと思ったのかもしれない。


 誠司は煙を雨の向こうに吐き出した。


「俺も会議室の声が全部頭に入ってくるのは嫌だな。特に意味のない話が多い」


「ブラック企業って、会議も無駄なんですか」


「無駄どころか足を引っ張る。二時間かけて何も決まらない」


「……それは確かに雨より辛そうですね」


 かえでが少し笑った。


——初めて笑った。


 誠司は気づかないふりをした。でも煙を吐く口元が、少し緩んでいた。


◆◆◆


 雨はやまなかった。

 かえでの休憩が終わって、店に戻る前に彼女は言った。


「傘、持ってきてないんですか」


「折りたたみが鞄にある」


「ならよかった。……風邪引かないでくださいね」


 それだけ言って、かえでは雨の中を軽い足取りで店に戻っていった。

 誠司は屋根の下に残って、もう一度煙を吐いた。


——風邪引かないでくださいね。


 その一言が、傘を差した後も頭の中に残っていた。



────────────────────────────────────────


【第5話】疲れた顔 〜そのままでいい〜


 七月の初め。誠司は三日間、終電続きだった。


 久しぶりに定時に近い時間に上がれた金曜日、ふらふらとフレッシュマート橋本に向かった。

 正直、買い物より「ここに来たかった」という感覚が強かった。


「いらっしゃいませ〜、あ——」


 レジのかえでが一瞬言葉を止めた。

 すぐにいつもの笑顔に戻ったが、誠司は気づいた。


——見ちゃいけないものを見てしまった顔だ。


 会計を済ませて外へ出る。灰皿の前へ。

 今日は立っているだけでタバコに火をつける気力もなかった。


 しばらくして、かえでが来た。


 かえでは誠司を見て、少しだけ間を置いた。いつもより一歩遠くに立った気がした。


「……顔色、すごく悪いですよ」


「そうか」


「タバコも吸わないんですか」


「今日は気が乗らない」


沈黙が落ちた。かえでは何も言わなかった。それがよかった。


 変に励ましたりしないのが、この子の性格だと思う。

 誠司はぼんやり夕空を見上げた。


「……三日間、終電だった」


「それは……辛いですね」


「転職しようかな、とは思うんだが、もう四十二だしな」


「……四十二歳って、転職できないんですか」


「難しい」


「そういうもんなんですね」


 かえでは少し考えるように目を細めてから、言った。


「でも、死ぬよりはいいと思います。転職できるかどうかより先に、体が壊れそうなら逃げた方がいい」


 誠司は少し驚いて、かえでを見た。

 かえでは前を向いていた。


「なんか、急に真面目なこと言ったな」


「……休憩中なので」


そうか、休憩中のこの子はこういうことを言う。


 誠司は苦笑いして、タバコを取り出した。今日は一本だけ吸おう。


 火をつけながら、「ありがとう」と言った。

 かえでは「別に」と返した。


 それで十分だった。



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【第6話】好きな音楽 〜意外な共通点〜


 夏の入口。店の前に風鈴が吊るされた。


 誠司はいつもの買い物を終えて、灰皿の前でタバコに火をつけた。

 今日は珍しく早めにかえでが来た。


「今日は早いな」


「早番だったので、さっき交代しました」


 かえではポケットからイヤホンを取り出して、片方だけ耳に入れた。


「音楽聴くのか」


「いつも。休憩のときだけ」


「何聴いてるんだ」


 かえでは少し考えてから、片方のイヤホンを差し出した。


「聴きますか」


 誠司は少し驚いたが、受け取ってみた。

 流れてきたのは、渋い男のボーカルのブルースだった。


「……意外だな」


「なんで意外なんですか」


「もっと若い人向けのやつかと思って」


「ああいうのも聴くけど、休憩のときはこっちの方が好きです。頭が空っぽになる気がして」


 誠司はもう少しだけ聴いた。ギターの音が静かだった。


「悪くない」


「でしょ」


 かえではイヤホンを引き取って、また前を向いた。


「おじさんは音楽聴きますか」


「……おじさんって呼ぶのか」


「名前知らないので」


それはそうだ。


「昔はよく聴いた。今は通勤中にニュースしか聴いてない」


「もったいない」


「そうかな」


「頭を空っぽにする時間がないと、詰まりますよ」


「……そうかもしれないな」


 誠司は煙を吐いた。


「俺も昔ブルース聴いてたよ。B.B.キングとか」


 かえでが初めてちゃんと誠司の方を向いた。目が少し丸くなっていた。


「B.B.キング、知ってるんですか」


「大学の頃から好きだ」


「……意外です」


「なんで意外なんだ」


「もっとお酒の歌とか演歌とか聴くのかと」


 誠司は少し笑った。かえでも、口角をわずかに上げた。


風鈴が、夏の風に揺れた。



────────────────────────────────────────


【第7話】嫌いなもの 〜本音という名の接点〜


 誠司が店に入ると、かえでのレジに行列ができていた。

 隣のレジに並んでいた誠司は、横目でかえでを見た。


 笑顔、笑顔、笑顔。


——すごいな、と思う。あの顔を維持するのがどれだけ大変か、俺には想像もつかない。


 自分のレジを済ませて外へ出た。


◆◆◆


 いつもより遅くかえでが来た。疲れた顔は見せないが、緑茶を飲む手が今日は少し早い。


「嫌いなものってありますか」


 誠司が先に口を開いた。


「突然ですね。……いっぱいありますよ」


「じゃあ一番嫌いなもの」


 かえでは少し考えて、言った。


「嘘の笑顔を強要されること」


 誠司は少し驚いた。思ったより直接的な答えだった。


「……仕事で?」


「仕事だからしょうがないけど。でも、クレームのときに『笑って謝れ』って言われると、ちょっと嫌です」


「それはひどいな」


「まあ……接客業だから」


 かえでは緑茶を飲んで、少し間を置いてから続けた。


「おじさんは?」


「俺は……『まあまあ』が嫌いだ」


「まあまあ?」


「問題が起きたとき、誰かが『まあまあ』と言って丸く収めようとする。あれが一番嫌だ。問題は解決してないのに、なかったことになる」


「……それわかります。なんか息ができなくなる感じがする」


「そうそう。正確に言葉にしてくれた」


 かえでは少しだけ得意そうな顔をした。笑顔ではなく、ただ満足そうな顔。

 誠司はそれを見てまた少し笑った。


嫌いなものの話をして、なんで楽しいんだろう。でもそういうものだと思う。本音を言い合える相手というのは、楽しいものだ。



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【第8話】秋の夕方 〜風が変わる季節に〜


 気づけば九月だった。


 夕風が変わった。夏の湿った空気が引いて、乾いた涼しさが灰皿の前を通り過ぎるようになった。


 誠司は長袖のシャツを着るようになっていた。

 かえでは今日、紺のデニムジャケットを羽織って来た。


「涼しくなりましたね」


「そうだな。秋か」


「秋、好きですか」


「嫌いじゃない。食い物がうまい」


「おじさんらしい答えですね」


「おじさんだからな。あんたは?」


「秋は少し寂しいです。なんかいろんなものが終わっていく気がして」


かえでは空を見上げた。高い秋の空。うろこ雲が流れていた。


「……去年の秋、ちょっと嫌なことがあって。それから毎年この時期になると思い出すんです」


「話せるか?」


「……いつも仲良くしてた子に、急に距離置かれて。理由もわからなくて」


 誠司は何も言わなかった。かえでも続けなかった。


 秋の風が二人の間を通り過ぎた。


「……今もわからないままですか」


「わからないままです。でも今は、まあいいかって思えるようにはなった」


「そうか」


「時間ってすごいと思います」


「そうだな。俺も若い頃の傷が、いつの間にか跡しか残ってないことがある」


「跡はあるんですか」


「ある。でも痛くない」


 かえではそれを聞いて、少し目を細めた。


「……それ、いい言い方ですね」


秋の夕空が、また少し橙になっていた。



────────────────────────────────────────


【第9話】残業と夜風 〜感動回・後輩のために〜


 その日、誠司は閉店近くにフレッシュマート橋本に来た。


 残業が伸びて、いつもより一時間遅い。

 店内には客がまばらで、かえでのレジはもう片付けモードだった。


「あ、ギリギリでしたね」


「ぎりぎりかけ込んですまない」


「いえ! どうぞ〜」


 接客スマイルで迎えてくれた。誠司は少し申し訳なく思った。


 会計を終えて外へ出ると、空はもう暗くなっていた。

 灰皿の前に立ってタバコに火をつける。


 そこへ、いつもより早くかえでが来た。

 今日は制服を腕に抱えている。もう上がりなのか。


「今日は上がりか?」


「はい、今日遅番だったので」


 かえでは制服を畳みながら、少し沈んだ顔をしていた。


「……どうかしたか」


「後輩の子が、今日泣いてて」


「ああ」


「クレームで怒鳴られて。初めてで怖かったみたいで。……なんで謝りにくるんですかね、ああいう人」


 声に珍しく、熱があった。


この子は誰かが傷ついているのが嫌なんだ、と誠司は思った。


「後輩に何か言えたか」


「『慣れるよ』って言って……でも慣れるって言葉、本当のことだけど、少し嘘みたいで」


「慣れても傷つくのは同じだからな」


「そうなんです。だから慣れるって言葉、好きじゃないのに、言っちゃった」


 誠司は煙を吐いて、少し考えてから言った。


「俺が二十代のとき、上司に言われた言葉がある。『傷つくことは慣れなくていい。ただ、立ち上がることだけ早くなればいい』って」


 かえでは黙っていた。


「……それ、いいですね」


「その上司、後でひどいやつだとわかったんだが、その言葉だけは本物だった」


「人ってそういうもんですよね。全部正しいわけでも、全部嘘でもない」


「そうだな」


 かえでは夜空を見上げた。星は見えなかった。


「……明日、その後輩に伝えます。おじさんの言葉」


「俺の言葉じゃない。元上司の言葉だ」


「でも私に届けてくれたのはおじさんなので」


誠司は何も言えなかった。ただ夜風の中で、タバコの火が揺れていた。



────────────────────────────────────────


【第10話】知らなかった顔 〜店の中での一幕〜


 十月の半ば。


 その日、誠司は珍しく週末の昼間に店へ来た。

 平日の夕方ではなく、土曜日の昼。


 何となく来てみただけだった。


◆◆◆


 店内に入ると、野菜コーナーにかえでがいた。

 制服を着ているが、今日は別のシフトらしく、品出しの仕事をしていた。


 かえでは誠司に気づかなかった。


 誠司はそっと距離を置いたまま、横目で見た。


 品出しをしながら、かえでは隣にいた同僚の女の子と話していた。

 笑っていた。でも接客スマイルではなかった。


——砕けた笑顔。はにかんだ顔。少し子供みたいな顔。


 誠司は視線を前に戻して、足早に通り過ぎた。


◆◆◆


 その日の夕方、かえでが灰皿の前に来た。

 ちゃんと誠司が来ていることを確認してから、少し離れた位置に立った。


「今日、昼間もいましたよね」


 気づいていたのか、と思った。


「ああ、ちょっと用があってな」


「見ました? 私が笑ってるの」


「見た」


 かえでは少し間を置いた。


「……あれ、休憩じゃないとき用の笑顔です。接客用でも、ここ用でもない」


「三種類あるのか」


「多分もっとあります」


 誠司は少し考えてから言った。


「どれが本物なんだ」


「全部本物ですよ。場所によって引き出しが違うだけで」


 誠司はその答えに少し感心した。


「……それ、大人の答えだな」


「そうですか? おじさんの方が大人でしょ」


「俺は引き出しが少ない。大体同じ顔しかしてない」


「……そんなことないと思いますけど」


「そうかな」


「疲れた顔と、ちょっと安心した顔と、たまに笑う顔、全部違いますよ」


誠司は煙を吐きながら、自分の顔がそんなに読まれていたのかと思った。


「……よく見てるな」


「接客業なので、顔を見るのが習慣になってます」


 かえではそれだけ言って、緑茶を飲んだ。



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【第11話】初めて聞いた話 〜かえでの過去、少しだけ〜


 十一月になった。


 夕方の日が短くなって、誠司がスーパーを出る頃には、もう空が暗くなりかけていた。


 今日はかえでが先に来ていた。

 灰皿の前で、缶コーヒーを持って、空を見ていた。


「珍しいな、先に来てるなんて」


「今日は早めに上がれたので」


 誠司はタバコに火をつけた。


かえでは何かを話したそうにしていた。でも切り出せないでいる。誠司は急かさなかった。


 しばらく沈黙が続いた。


「……私、元々この仕事やるつもりじゃなかったんです」


 唐突だったが、誠司は驚かなかった。


「そうか」


「やりたいことがあって。でも……なんか、いろいろあって」


「言いたくなかったら言わなくていい」


「……いや、なんか言いたい気分で」


 かえでは缶コーヒーを両手で包むように持った。


「デザインがやりたかったんです。グラフィックデザイン。専門学校も行って、でも就活でうまくいかなくて……それで、とりあえずって思って始めたのがここで」


「今も続けてるか、デザイン」


「……たまに。休みの日に趣味でやってます。でもあんまりできてない」


「なんでやりたかったんだ、デザインが」


「なんかこう……ごちゃごちゃしてるものを、整理して、きれいにするのが好きで。情報でも、形でも」


なるほど、と誠司は思った。この子がレジの仕事が上手いのは、本質的にそういう整理好きなところがあるからかもしれない。


「……まだ諦めてないんだろ」


「え?」


「趣味でも続けてるってことは、諦めてないってことだろ」


 かえでは少しだけ黙って、それから言った。


「……そうかもしれないです」


「俺が若い頃のことを言うと説教みたいになるから言わないが、一つだけ言っていいか」


「どうぞ」


「続けてる間は、まだ始まってない」


 かえでは誠司を見た。


「……どういう意味ですか」


「終わるまでは、どこからでも再開できるってこと」


かえではしばらく黙っていた。缶コーヒーの最後の一口を飲んで、小さく言った。


「……ありがとうございます」


 空に星が一つ、見えていた。



────────────────────────────────────────


【第12話】冬の入口で 〜半年分の距離〜


 十二月になった。


 空気が乾いて、タバコの煙が白くよく見えるようになった。

 誠司はマフラーをしてスーパーへ行くようになった。


 かえでは今日、耳当てをしてレジに立っていた。

 それでもいつもの笑顔だった。

 誠司は会計を終えて、外へ出た。


◆◆◆


 灰皿の前。タバコに火をつけた頃、かえでが来た。

 手袋をはめていた。缶コーヒーじゃなくて、今日はカイロを持っていた。


「寒いな」


「寒いです。でも外の空気は好きなので」


 いつもの答えだった。でも誠司にはもうそれが当たり前になっていた。


春に初めて会って、もう半年以上経った。


 誠司はそれを思って、少し不思議な気持ちになった。

 名前も知らない。素性もよく知らない。でも、週に何度か、灰皿の前で話す。


「な、一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「ここで話すのは、俺にとっては結構、楽しいんだが」


 かえでは何も言わなかった。続きを待っていた。


「……あんたはどうなんだ」


 少し長い間があった。

 かえでは手袋の中でカイロを握りなおして、前を向いたまま言った。


「……嫌いじゃないです」


「それは最大限の褒め言葉か、最低限の否定か」


「……最大限に近い方です」


誠司は煙を吐いた。白い煙が冬の空気に溶けた。


「そうか。ならよかった」


 それ以上は言わなかった。

 かえでも何も言わなかった。


 二人は冬の夕方を、灰皿の前で静かに過ごした。


 誠司は帰り道、久しぶりに足取りが少し軽かった。

 理由はわかっていたし、わかっているからこそ、あえて考えないことにした。


——嫌いじゃない、か。


 それで十分だった。今は。


◆◆◆

         — 第1話〜第12話 了 —

灰皿の前で、素顔のきみ — 第1期 後編(第13話〜第24話)


════════════════════════════════════════


【第13話】クリスマスイブの灰皿 〜特別でもない、普通の夜〜


 十二月二十四日。  誠司はもちろん予定がなかった。  残業も今日は早めに終わって、いつものようにフレッシュマート橋本へ向かった。  店内はクリスマスの飾りつけで賑やかだった。  かえでは今日もレジにいた。

「いらっしゃいませ! 今夜はお一人ですか?」


 接客スマイルのまま言うから、別に他意はないとわかっていた。

「お一人です」


「クリスマスチキン、まだ残ってますよ!」


「一人分ないだろ」


「ハーフサイズあります!」


 誠司はチキンのハーフサイズと発泡酒と惣菜を買った。

◆◆◆


 外に出て灰皿の前に立つと、しばらくしてかえでが来た。  エプロンを外して、缶コーヒーを持って、いつもの顔で。

「今夜、シフト入れたんですね」


「予定なかったので」


「俺も予定なかった」


 沈黙。

「……クリスマスに灰皿の前で二人でいるの、なんか変ですね」


「変だな」


「でも悪くないです」


誠司は煙を吐いた。遠くで誰かの笑い声がした。


「クリスマス、好きか」


「昔は好きでした。今は……なんか、周りが楽しそうで少し息苦しい日、って感じです」


「わかる。同調圧力が強い」


「そうなんです! 楽しまなきゃいけない気がして」


「楽しみたくない日は楽しまなくていい」


「……そう言ってもらえると楽です」


 かえでは星のない夜空を見上げた。

「でも今日は……まあ、悪くない気分です」


「そうか」


誠司もそう思っていた。クリスマスイブに一人で灰皿の前にいるのに、悪くなかった。





────────────────────────────────────────


【第14話】年越し前夜 〜感動回・父の話〜


 大晦日の二日前。


 誠司がスーパーへ行くと、かえでは今日も遅番でいた。


 いつもより店が混んでいた。年末の買い出しで家族連れが多い。

 誠司はそれをぼんやり眺めながら、買い物をした。


◆◆◆


 灰皿の前へ。しばらくして、かえでが来た。

 今日は少し時間がかかった。疲れた顔をしていた。


「年末って大変か」


「死にそうです」


珍しく率直だった。余裕がないのだろう。


 誠司は黙ってタバコを吸っていた。


 しばらくして、かえでが言った。


「おじさんは、お正月、誰かと過ごしますか」


「……実家に帰るか迷ってる」


「迷ってるんですか」


「親父が入院してて。会いに行くべきなのはわかってるんだが、なんか……行きにくくて」


 誠司は自分でも驚いた。こんな話をするつもりはなかった。


「……喧嘩でもしてるんですか」


「してない。ただ……昔から不器用な父親でな。ほとんど話したことがない」


「それで、行きにくい」


「今さら何を話せばいいかわからない。向こうも俺に何を言えばいいかわからないだろう。なんかそれが……情けなくてな」


 かえでは黙っていた。


 しばらくして、ゆっくりと言った。


「私、父親と仲悪かったんです」


「そうか」


「高校の頃から口も聞かなくて。でも去年、急に電話くれて。用事とかじゃなくて、ただ『元気か』って」


「どうした」p>


「最初びっくりして。でも……結局三十分くらい話しました。他愛もない話ばっかりだったけど」


かえでは缶コーヒーを両手で包んだ。


「何を話すかって、あんまり関係ないと思います。話せばいいんじゃないかな。何でも」


「……そんなもんか」


「そんなもんだと思います」


 誠司は煙を長く吐いた。


——行こう、と思った。うまく話せなくてもいい。ただ行けばいい。


「……ありがとう」


「別に私は何もしてないですよ」


「してる」


 かえでは少し驚いたように誠司を見て、それから前を向いた。

 缶コーヒーを飲んだ。


冬の夜風が、二人の間を通り過ぎた。



────────────────────────────────────────


【第15話】新しい年 〜一月、また会えた〜


 一月の初め。


 誠司は実家から帰ってきた。

 父親との会話は、かえでの言った通り、他愛もないものだった。

 退院の見通し、病院の飯のまずさ、昔見ていたテレビ番組の話。


 それだけだったが、それで十分だった。


◆◆◆


 正月明けの初出勤の帰り、誠司はフレッシュマート橋本へ行った。


 かえではいた。お正月の飾りがまだ残っている店で、いつもの笑顔でレジに立っていた。


「あけましておめでとうございます!」


「おめでとう」


「……行けましたか」


 声が少し低くなった。他のお客さんには聞こえないように。


「行けた」


「……よかったです」


 接客スマイルのままだったが、目が少しだけ違った。


◆◆◆


 灰皿の前。久しぶりの冬の外気。


 かえでが来た。


「お父様、どうでしたか」


「老けてた。でもまあ、元気だった」


「話せましたか」


「病院の飯がまずいって、三十分聞かされた」


 かえでが笑った。声を出して笑った。


「それすごくいいじゃないですか」


「そうか?」


「文句言える相手がいるって、いいことですよ」


 誠司は苦笑した。


「……そういう見方もあるな」


「私、もう少しお父さんと話しとけばよかったって、今でも思うので。だから」


 かえでは続けなかった。でも誠司には伝わった。


——この子はこんなに優しいのに、どうしてそれを接客の笑顔の後ろに隠しているんだろう。でも、その理由もなんとなくわかる気がした。


「あんたにとってもいい年になるといいな」


「……ありがとうございます。おじさんも」


 一月の空は、澄んでいた。



────────────────────────────────────────


【第16話】名前の話 〜もういいかな、と思った〜


 一月の下旬。


 その日、誠司はレジで列に並んでいた。かえでのレジは混んでいて、少し待った。


 前に並んでいたお客さんがかえでに言った。


「かえでちゃん、いつもありがとうね」


 常連の老婦人らしかった。かえでは満面の笑顔で答えていた。


——かえでちゃん。


 誠司はその名前を、頭の中で繰り返した。

 名札で知ってはいた。でも他人が呼ぶのを聞くのは初めてだった。


◆◆◆


 灰皿の前。


「俺、名前を知ってた」


「え?」


「名札で。葉山かえでさん」


 かえでは少し間を置いた。


「……ずっと知ってたんですか」


「ずっと知ってた。でも言わなかった。ルールがあるから」


「……私も、名前わかりましたよ。クレジットカードで」


「なんだ、お互い知ってたのか」


「田中誠司さん、でしょ」


 誠司は少し笑った。


「そうそう。……もうルールなしでもいいか」


 かえでは少し考えて、答えた。


「……でも、ここではまだ『おじさん』でいいです。慣れてるから」


「そうか。じゃあ俺もまだ『あんた』で」


「それでいいです」


名前を知っている。でも使わない。それが二人のここでの約束になった。


「……ねえ、おじさん」


「なんだ」


「灰皿の前以外で、会ったらどうします?」


 誠司は少し驚いた。でも落ち着いて答えた。


「……その時はその時だな。考えてない」


「そっか」


かえでは缶コーヒーを飲んだ。その横顔が、少しだけ安心したように見えた。



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【第17話】二月の寒さ 〜感動回・誠司の弱さ〜


 二月。


 誠司の部署で大きなミスが出た。

 誠司自身のミスではない。部下のミスだが、上司は誠司を呼び出した。


「お前が管理できていないからだ」


 それだけ言って、上司は帰った。残業を指示して。


 深夜に近い時間、誠司がフレッシュマート橋本に寄れたのは奇跡に近かった。

 閉店間際の滑り込みだった。


 かえでは今日いなかった。


◆◆◆


 それでも誠司は灰皿の前に立った。

 タバコを出して、火をつけようとして——ライターが空だった。


なんだそれ。


 誠司は笑えなかった。

 壁に背中をもたれて、火のないタバコをくわえたまま、立っていた。


 寒かった。


◆◆◆


 「あの」


 声がした。


 見ると、私服のかえでがいた。

 たまたま買い物に来たらしく、レジ袋を手に持っていた。


「シフト外の日です」


「ああ……」


「火、持ってます」


 かえではポケットから小さなライターを出した。

 誠司は少し驚いたが、受け取ってタバコに火をつけた。


「ありがとう」


 かえでは受け取ったライターをポケットに戻して、いつもより近くに立った。


「……今日、すごく顔が怖いです」


「怖いか」


「怒ってるのか泣きそうなのかわからない顔」


 誠司は煙を吐いた。


「……どっちでもある、かもしれない」


沈黙。かえでは何も言わなかった。立っていてくれた。それだけだった。


 誠司は一本を吸い切って、静かに言った。


「……昔はな、こういうとき帰る家に誰かいたんだ」


「……そうですか」


「今はいない。それが一番きつい時がある」


「……」


「こんな話してすまない」


「謝らないでください」


 かえでの声は、いつもより低かった。静かで、まっすぐだった。


「帰ってから話せる人がいないなら……ここで話してください。私が休憩のときなら、聞けます」


 誠司は少し俯いた。


「……ありがとう」


二月の夜は寒かった。でもかえでが横にいて、誠司は少しだけ温かかった。



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【第18話】ライターの話 〜小さなプレゼント〜


 次の日、誠司はドラッグストアで新しいライターを買った。

 ついでに、少し良いものを一本余分に買った。


◆◆◆


 フレッシュマート橋本。いつもの買い物を終えて外へ出た。

 灰皿の前に立って、かえでを待った。


 今日はシフトが入っていたから、来るはずだ。


 しばらくして、かえでが来た。


「昨日はすみません、余計なこと言って」


「昨日のことですか? 気にしてないです」


「でも」


「気にしてないって言ってるので」


 かえでは缶コーヒーを持ちながら、少し口をへの字に曲げた。


有無を言わさない。この子はそういう時、強い。


「……昨日、ライターありがとう」


「いいですよ、百円のやつなので」


「はい」


 誠司はポケットから、少し良い方のライターを出してかえでに渡した。


「……何ですか」


「タバコ吸わないのに灰皿の前に来るやつには、ライターが必要だと思って」


「私、タバコ吸わないです」


「わかってる。それでもライターは持ってると便利だろ。俺みたいなのが空になっているときに使える」


 かえでは少し間を置いてから、受け取った。


「……意味わからない理由ですけど」


「変か」


「変です」


 でも受け取った。

 かえではライターを一度眺めてからポケットに入れた。


「……大事にします」


誠司はそれを聞いて、タバコに火をつけた。煙が白く夕空に昇った。



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【第19話】同僚の目 〜ちょっと困った一幕〜


 三月。


 誠司の職場の同僚、三十代の吉田という男が「橋本のフレッシュマートいいですよね」と言い出した。


「田中さんもあそこ使うんですか? レジの子、めっちゃ笑顔よくないですか」


誠司は何も言わなかった。


「ほら、ポニーテールの子。葉山さんって名前でしたっけ。俺ちょっと気になってて」


「……そうか」


「連絡先聞こうかなって思ってるんですよ。どう思います?」


 誠司はコーヒーを一口飲んでから、答えた。


「接客中に連絡先聞くのは迷惑だと思う」


「そうですかね〜」


「そうだ」


 それ以上は言わなかった。


◆◆◆


 その日の夕方、灰皿の前。


「あの、ちょっと聞いていいですか」


「なんだ」


「レジで連絡先聞いてくるお客さん、どう対応すればいいと思いますか」


 誠司は少し考えてから言った。


「断っていい。客でもそういうのは越権だ」


「……やっぱりそうですよね。店長には『うまくかわせ』って言われてて」


「それはひどい対応だ」


「そうですよね。……あの、一人職場の知り合いが聞いてきそうで」


誠司は少しだけ複雑な気持ちになった。もしかして吉田のことだろうか、とは思ったが言わなかった。


「聞かれたら、『仕事中なので』って言えばいい。丁寧に言えばちゃんとした人なら引く」


「……ちゃんとした人だといいですけど」


「もし困ったら、また言え。何か手がないか考える」


 かえでは少し驚いたように誠司を見た。


「……頼もしいですね」


「頼もしくない。ただのおじさんだ」


「ただのおじさんが一番頼もしいです」


誠司は苦笑した。煙を吐いた。夕風が吹いた。



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【第20話】春の夜、少し長く 〜二人の時間が変わる〜


 三月の終わり。春の気配が出てきた。


 誠司がいつもの買い物をしていると、かえでがいつもと違うポジションにいた。

 レジではなく、惣菜コーナーの近くにいた。


 目が合った。

 かえでは一瞬だけ会釈した。誠司もうなずいた。

 それだけ。


◆◆◆


 灰皿の前。今日のかえでの休憩は少し長かった。


「今日長いな」


「今日は一時間休憩で。閉店前だから」


「そうか」


 一時間。いつもの十五分ではない。


 二人は並んでいた。煙が上がった。かえでは緑茶を飲んでいた。


「おじさんって、昔どんな人と付き合ってたんですか」


 唐突だった。誠司は少し戸惑ったが、正直に答えた。


「元妻がいた。十年前に別れた」


「……子供は?」


「いない。それが一つの理由だった」


「……辛かったですか」


「辛かった。でも……お互いのためだった、と思う。今は思える」


かえでは何も言わなかった。ただ前を向いていた。


「あんたは?」


「私は……一人いました。大学の頃。でも、ちゃんと向き合えなかった」


「どういう意味だ」


「……本音を話せなかった。いつも笑ってて、元気なふりして。そしたらいつの間にかいなくなってた」


誠司は煙を吐いた。


「……ここでは本音を話せるな」


「……はい。それが、ここが好きな理由かもしれません」


春の夜風が、柔らかく吹いた。


「……おじさんは、また誰かと一緒にいたいと思いますか」


 誠司は少し間を置いて、答えた。


「……わからない。でも、誰かに話を聞いてもらうのは、悪くないと思うようになった」


かえでは缶コーヒーを持ったまま、少し俯いた。その横顔が、橙の街灯に照らされていた。



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【第21話】ポートフォリオ 〜感動回・デザインの夢〜


 四月の初め。


 かえでが今日は少しそわそわしていた。

 灰皿の前に来ても、いつもより落ち着きがなかった。


「どうした」


「……デザイン会社に、ポートフォリオ送ったんです」


「応募したのか」


「はい。小さい会社で、中途を一名募集してて。……なんか、今年やらないとずっとやらない気がして」


誠司は少し驚いた。去年の秋に話してくれたことを、この子はちゃんと動いていた。


「いつ頃返事が来る」


「来週くらいには、と書いてありました。でも……怖いです」


「落ちたとき?」


「落ちたときじゃなくて、受かったとき。どうしようって。ちゃんとできるのかって」


誠司は煙を吐いた。


「その怖さは正しい」


「え?」


「受かったときに怖くない人間は、本気じゃない。怖いってことは、本気でやりたいってことだ」


 かえでは黙っていた。


「……でも、自信がなくて」


「自信は後でつくもんだ。先につく自信は慢心だ」


「……おじさん、たまに格言みたいなこと言いますよね」


「四十二年生きてりゃそのくらい溜まる」


 かえでが笑った。声を出して。


「……ありがとうございます。もう少し待ってみます」


◆◆◆


 一週間後。かえでが灰皿の前に来た。


 誠司には、今日は何かが違うとわかった。

 顔が、少し光って見えた。


「来ましたか」


「来ました」


「どうだった」


「……面接に来てほしいって」


誠司は煙を吐いた。心の中で、よかった、と思った。


「よかった」


「……はい。よかったです。怖いですけど」


「それでいい」


 夕空に、春の雲が流れていた。



────────────────────────────────────────


【第22話】最後のシフト 〜別れの前に〜


 五月。


 かえでは面接を通過して、六月からデザイン会社に転職することになった。


 そのことを誠司に伝えたのは、退職一週間前のことだった。


「来月から、ここのシフト、なくなります」


「そうか」


「転職、決まりました」


「おめでとう」


「……怖いです。やっぱり」


「それはずっとそうだ」


かえでは緑茶を飲んだ。誠司はタバコを吸った。


「おじさん……私がここにいなくなったら、どうするんですか」


 誠司は少し考えて、正直に答えた。


「他の店に変えるか、このまま来るか、わからない」


「……来てくれた方が、なんか安心する気がします」


「そうか」


「灰皿、なくならないといいですけど」


「なくならないよ」


沈黙。春の夜風が吹いた。


「……おじさん。私、ここで話せてよかったです」


「……俺もだ」


「ここのことは、ずっと覚えてると思います」


「そうか」


「……変な一年でしたよね。名前も知らないのに毎週話してて」


「変だな」


「でも、よかった」


「そうだな。よかった」


誠司は煙を吐いた。かえでは夜空を見上げた。


「……おじさん、転職、考えてないんですか」


「……最近また考えてる」


「考えてるなら、やればいいと思います」


「難しい」


「でも、続けてる間はまだ始まってない、って言ったの、おじさんですよ」


誠司は少し黙った。


「……俺の言葉を俺に返すのか」


「適材適所です」


二人は少しだけ笑った。夜空に星が見えた。



────────────────────────────────────────


【第23話】最後の灰皿 〜一年後の春〜


 五月の最終週。


 かえでの最後のシフトの日だった。


 誠司はその日、少し早めに会社を出た。

 自分でも理由はわかっていた。


◆◆◆


 フレッシュマート橋本。


 かえでは今日もレジにいた。満点の笑顔で、てきぱきと仕事をしていた。

 いつも通りだった。最後の日だとは誰にもわからないくらい、いつも通りだった。


「いらっしゃいませ!」


「……今日、最終日か」


 少し声を小さくして言った。かえでは一瞬だけ目を細めた。


「はい。今日で最後です」


「そうか」


「……外にいます」


それだけ言って、かえでは次のお客さんへ向けた接客スマイルに戻った。


◆◆◆


 灰皿の前。

 誠司はいつものようにタバコに火をつけた。


 しばらくして、かえでが来た。

 エプロンを外して、制服のまま、缶コーヒーを持っていた。


 今日は何も言わなかった。

 ただ、並んで立った。


いつもと同じ場所。いつもと同じ距離。でも、今日が最後。


「……怖いか」


「怖いです。でも楽しみでもあります」


「それがいい」


かえでは缶コーヒーを最後まで飲んだ。


「……おじさん」


「なんだ」


「ここで話せる人がいてよかったです。本当に」


「……俺もだ」


「おじさんのこと、応援してます。転職でも、なんでも」


「ありがとう。あんたのデザインの仕事も、うまくいくといいな」


「……うまくいかせます」


かえでが静かに笑った。ボーイッシュで、クールで、でも少し嬉しそうな顔。


 誠司はタバコを吸い切って、踏み消した。


 かえでが、ポケットから出した。


——あのライター。誠司が渡した、小さなライター。


「……これ、返した方がいいですか」


「持ってていい。タバコを吸わないやつがライターを持っているのは、使い道があるから」


「……使い道、ありますかね」


「ある。困った時に火を貸せる」


かえではライターを握って、ポケットにしまった。


「……じゃあ、大事にします」


「そうしろ」


春の夜風が吹いた。二人は並んで、最後の夕暮れを見た。



────────────────────────────────────────


【第24話】灰皿の前で、また 〜第1期 最終話〜


 六月。


 誠司はまだフレッシュマート橋本を使っていた。

 かえでのいないレジに並んで、別のスタッフから袋をもらって、外に出た。


 灰皿の前に立って、タバコに火をつけた。


——いつもの場所。でも誰も来ない。


 煙が上がった。夕空は橙だった。

 誠司は一人で煙を吐いた。


 思ったより、寂しかった。


◆◆◆


 二週間が経った。


 誠司はその日、会社の昼休みに転職サイトを開いた。

 眺めるだけのつもりだったが、一件だけ気になる求人があった。


——続けてる間は、まだ始まってない。


 誠司はそのページを、ブックマークした。


◆◆◆


 三週間後。


 誠司がいつものようにフレッシュマート橋本を出て、灰皿の前に立った。


 タバコに火をつけた。一口目を吸った。


 「——すみません」


 声がした。


 誠司は振り返った。


 私服のかえでがいた。


 デニムジャケットと、短いボトム。ポニーテールは解いて、肩に髪を下ろしていた。

 制服ではなかった。エプロンもなかった。

 でも、確かにかえでだった。


「……買い物に来てたんですが、見かけたので」


「……そうか」


「新しい仕事、始まりました」


「どうだ」


「……わからないことばっかりで、怖いです。でも、毎日が面白い」


「そうか。それがいい」


かえでは灰皿の前に、いつもと同じように並んだ。制服じゃないのに、でも自然に。


「おじさんは?」


「……転職の面接を来週受ける」


「……本当ですか」


「本当だ」


かえでは少し目を見開いて、それから——笑った。


「……よかった」


「受かるかどうかはわからない」


「受かっても受からなくても、動いたことがよかったんです」


「……また俺の言葉を返してくるのか」


「あ、今度はおじさんの言葉じゃないです。私の言葉です」


誠司は少し笑った。


◆◆◆


 二人は並んで、夕暮れの空を見た。

 橙に染まった空の下、灰皿の前で。


 かえでは缶コーヒーを持っていた。

 誠司はタバコを吸っていた。


 何も変わっていないようで、少し変わっていた。


「……また、来てもいいですか」


 かえでが、前を向いたまま言った。


「……俺はいつもここにいる」


「じゃあ、また来ます」


それだけだった。

それだけで、十分だった。


 煙が白く昇って、夕空に溶けた。

 二人は並んで、夕暮れの中に立っていた。


◆◆◆

   灰皿の前で、素顔のきみ

        第1期 全24話  了

◆◆◆



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