たった一人の意味
森の奥深く、苔むした岩陰で、二人は息を殺して隠れていた。
夜の冷気が肌を刺す。遠くで王国軍の松明が揺れ、兵士たちの声が木々の間を這うように聞こえてくる。
スタンリーはリナを強く抱きしめたまま、目を閉じていた。
頭の中の痛みは、もうなかった。
代わりに、すべてが戻ってきていた。
王国の玉座室の冷たさ。
兄たちの嘲るような視線。
「第三王子など、用済みだ。人さらいとして使え」
無数の娘たちの泣き声。
血の匂い。
短剣を握り、暗い路地で腕を掴んだ感触。
そして——最後の標的、リナ。
雨の夜、彼女の家から連れ出した瞬間。
震える彼女が、意外な言葉を口にした。
「ありがとう……あなたは、私を助けてくれたのね。」
スタンリーの体が、小さく震えた。
「リナ……俺は、すべて思い出した。」
彼はゆっくりと目をあけ、リナの顔を両手で包んだ。
彼女の瞳は、涙で濡れていたが、穏やかだった。
「俺は人さらいのスタンリーだ。
王国の闇仕事で、何十人も娘をさらった怪物。
お前をさらったのも、俺だ。
最初は、政略結婚から逃がすためだった。
だが……その後、俺は逃げられなくなった。
お前と一緒にいる日々が、俺のすべてになった。」
リナは静かに頷き、彼の頰に手を当てた。
「知っていたわ。
最初から、あなたが人さらいだと。
でも、あなたは私を傷つけなかった。
むしろ、王国から守ってくれた。
私は、あの夜から、あなたを選んだの。
怪物でも何でも、あなたと生きることを。」
スタンリーの胸が、熱く締め付けられた。
長年、怪物として生きてきた自分が、初めて「人間」として感じた瞬間。
記憶を失っていた間も、無意識に守り続けていた想い。
それが、今、はっきりと形になった。
「俺は……何をしたかった人間だったんだ?
人を傷つける怪物になりたかったわけじゃない。
ただ、誰かに必要とされたかっただけだ。
お前だけが、俺にそれをくれた。
たった一人の少女だけが、俺の生きる意味だった。」
彼はリナの額に自分の額を押し当て、囁いた。
「人さらいのスタンリーとして……
最後に、たった一人の少女を守る。
それが、俺の答えだ。」
リナの涙が、スタンリーの頰を伝った。
二人は、静かに唇を重ねた。
霧の森の中で、たった一つの温もりが、すべてだった。
遠くで、軍の声が近づいてくる。
スタンリーは立ち上がり、リナの手を強く握った。
「王都へ行く。
俺の命と引き換えに、お前を自由にする。
これが、人さらいのスタンリーの、最後の仕事だ。」
リナは微笑み、頷いた。
「一緒に、行きましょう。」
二人は、霧を切り裂くように歩き始めた。
背後で、兵士たちの叫びが響く。
「人さらいのスタンリー! 見つけたぞ!」
呼び覚まされた名が、夜の森に木霊する。
しかしスタンリーは、もう振り返らなかった。
たった一人の少女の為に。
それだけが、彼のすべてだった。




