耳にした名前
朝霧が村を包んでいた。
廃村の家々は、蔦に覆われ、まるで森の一部になったように静まり返っている。
スタンリーは窓辺に立ち、外をじっと見つめていた。
リナが後ろから声をかける。
「今日は畑の続きをしましょう。雨が降りそうだから、早く済ませて——」
「外へは出るな。」
彼の声が、低く遮った。
リナが動きを止める。
スタンリーは振り返らず、続けた。
「俺が全部やる。お前はここにいろ。」
ここ数日、彼の言葉はますます短く、強いものになっていた。
リナが少しでも戸口に近づくと、手を伸ばして引き止める。
夜中も、彼女の寝息を聞きながら、決して目を離さない。
理由はわからない。
ただ、彼女が自分の視界から消える瞬間を想像するだけで、胸が締め付けられるような恐怖が襲う。
リナはため息をつき、微笑んだ。
「わかった。でも、あなたも無理はしないでね。」
その日、二人は家の中で過ごした。
スタンリーが薪を割り、リナが糸を紡ぐ。
狭い部屋に、二人の息遣いだけが響く。
時折、フラッシュバックが彼を襲う。
斧を振り下ろす瞬間、血の飛沫が目に浮かぶ。
少女の腕を掴む感触。
冷たい命令の声——「さらえ」。
「っ……」
スタンリーは斧を落とし、頭を抱えた。
リナがすぐに駆け寄り、背中をさする。
「また……?」
「ああ……でも、大丈夫だ。」
彼はそう言いながらも、彼女の腰に腕を回し、離さなかった。
午後遅く、村の外れから足音が聞こえてきた。
スタンリーの体が、即座に緊張した。
彼はリナを部屋の奥へ押しやり、短剣を握って戸口に立った。
「誰だ。」
入ってきたのは、ぼろぼろの外套を着た中年の男だった。
行商人。
馬車を森の奥に隠し、食料を求めて迷い込んだという。
男は疲れた笑みを浮かべ、干し肉と塩を差し出した。
「交換してくれんか。パンでもいい。こんな廃村に人がいるとは思わなかったよ。」
スタンリーは警戒を解かず、黙って干し肉を受け取った。
リナが後ろから出てきて、パンを少し分け与える。
商人と三人で、炉の前に座った。
男は酒を一口飲み、世間話を始めた。
王都の話、天候の話、そして——
「そういえば、最近大きな噂があるんだが……」
男は声を潜めた。
「人さらいのスタンリーって知ってるか? 王国の第三王子で、何十人も娘をさらっていた怪物だ。
処刑されたはずなんだが、死体が見つからなくてな。
まだ生きてるって話だ。拉致した最後の娘も、一緒に逃げてるらしいぜ。
見つけたら大金だって、王国が懸賞かけてるよ。」
その名前が出た瞬間——
頭の中で、何かが爆ぜた。
フラッシュ。
縄の感触。
群衆の罵声。
雨に濡れたリナの瞳。
兄の冷たい笑み。
「人さらいのスタンリー……死ね!」
「うぐっ……!」
スタンリーは額を押さえ、うずくまった。
激しい痛みが、波のように押し寄せる。
商人 が驚いて身を引く。
リナが即座に彼を抱きかかえた。
「大丈夫……! ただの頭痛よ。旅の方、申し訳ありません。」
商人 は気まずそうに立ち上がった。
「すまん、変な話をして。じゃあ、俺は行くよ。また来るかもしれない。」
男が去った後、家の中は重い沈黙に包まれた。
スタンリーはゆっくりと顔を上げ、リナを見つめた。
「……人さらいのスタンリー、か。」
彼は自嘲するように笑った。
「俺とは関係ないな。
俺はただ……ここで、お前と暮らしているだけだ。」
言葉にしながらも、胸の奥がざわついていた。
その名前が、自分の名前のように響く。
なぜか。
なぜ、こんなに胸が痛い?
夜。
リナが眠りについた後、スタンリーは再び窓辺に立った。
外は真っ暗だ。
しかし、遠くの森の奥で、かすかな灯りが揺れている気がした。
馬車の灯りか。
それとも——別のものか。
彼はリナの寝顔に視線を戻した。
小さく、穏やかな寝息。
この子だけは、守りたい。
たとえ自分が、噂の怪物だったとしても。
スタンリーは短剣を握りしめ、静かに誓った。
「この幸せを、誰にも奪わせない。」
噂の影は、ゆっくりと村に近づいていた。




