名前のない朝
意識が浮上したとき、最初に感じたのは頭の奥で響く鈍い痛みだった。
まるで誰かに鉄槌で殴られたような、ずしりとした重さ。
スタンリーはゆっくりと瞼を開けた。
天井は古びた木の梁。
小さな窓から差し込む朝の光が、埃をきらきらと舞わせている。
湿った土と草の匂い。
ここは……森の中の、小さな家だ。
「目が覚めたのね」
柔らかな声がすぐ傍から聞こえた。
少女がベッドの横に膝をつき、彼の額に冷たい布を当てていた。
茶色の髪が肩に落ち、大きな瞳が心配そうに覗き込んでいる。
彼女はまだ濡れた服のままだった。昨日の雨の記憶が、ぼんやりと蘇る。
「……ここは、どこだ?」
声が掠れる。喉がカラカラに渇いていた。
少女——リナは、穏やかに微笑んだ。
「私の家よ。あなたは崖から落ちて、ずいぶん深く眠っていたわ。三日も。」
彼女は彼の手を取り、そっと握った。指が細くて温かい。
「大丈夫。もう安全。ここには誰も来ないから。」
スタンリーは自分の名前を思い出そうとした。
……出てこない。
頭の中に、空白が広がっている。
王都も、処刑台も、縄の感触も——すべてが霧の向こうだ。
ただ、首筋に残る微かな擦り傷だけが、妙にリアルだった。
「俺は……誰だ?」
リナは少しだけ目を伏せた。
けれどすぐに顔を上げ、はっきりと言った。
「あなたの名前はスタンリー。
そしてあなたは、私の大切な人よ。
今はそれだけでいいわ。ゆっくり思い出して。」
彼女は立ち上がり、部屋の隅の炉に火を起こし始めた。
乾いた枝がパチパチと音を立て、炎が揺れる。
その橙色の光を見た瞬間——
フラッシュ。
血の匂い。
少女の叫び声。
炎に包まれた何か。
短い、ほんの一瞬の映像が脳裏を掠めた。
「っ……!」
スタンリーは頭を抱えて身を折った。
激しい痛みが波のように襲ってくる。
リナが慌てて駆け寄り、彼の背中を抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫よ。怖くないわ。」
彼女の体温が、震える肩に染み込んでくる。
不思議と、その温もりが痛みを和らげた。
まるで、ずっと前から知っている温もりだった。
痛みが引けた後、彼はゆっくりと顔を上げた。
リナの瞳が、すぐ近くにあった。
「……ありがとう。」
言葉が自然に出た。
なぜ感謝しているのか、自分でもわからない。
ただ、この少女がここにいてくれることが、胸の奥を満たす気がした。
その日の午後、リナは村の外れの井戸へ水を汲みに行こうとした。
廃村は静かで、人影はない。木々が密集し、外界を遮っている。
彼女が戸口に手をかけた瞬間、スタンリーはベッドから飛び起きた。
「待て。」
声が勝手に出ていた。
足がまだふらつくのに、彼は彼女の腕を掴んでいた。
強く。離さないように。
「……俺が、行く。」
リナが驚いた顔で振り返る。
「でも、あなたまだ傷が——」
「行くな。」
理由などない。
ただ、彼女が視界から消えると思うと、胸がざわついて息が詰まる。
まるで、誰かに奪われるような、得体の知れない恐怖。
スタンリー自身も戸惑っていた。
なぜこんなに、必死になる?
リナは静かに微笑み、彼の手を優しく包み込んだ。
「わかった。一緒に行きましょう。」
二人は並んで森の小道を歩いた。
陽光が木漏れ日となって落ち、鳥の声だけが響く。
水桶を運ぶリナの横顔を、スタンリーは無言で見つめ続けた。
この子を守りたい。
その想いだけが、記憶のない頭の中で、はっきりと燃えていた。
夜。
暖炉の火が部屋を橙色に染める。
リナは毛布にくるまり、静かに眠っていた。
スタンリーはベッドの端に座り、彼女の寝息を聞いていた。
「俺は……何をしたかった人間だったんだ?」
独り言が、炎の音に溶ける。
答えはない。
ただ、首の傷が、かすかに疼いた。
記憶のない朝が、静かに始まっていた。




