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サイドストーリー 泥濘に咲く徒花(あだばな)の独白

北関東の地方都市。駅前の商店街はシャッターが降りた店が目立ち、冷たい風が吹き抜けていく。その一角にある雑居ビルの三階。ピンク色のネオン看板が、ジジジと不規則に点滅している。


「ミキちゃん、ご指名入ったよー。三番さんね」

「あ、はい。すぐ行きます」


待機室のパイプ椅子から立ち上がり、私は作り笑いを浮かべた。

店の奥にある鏡に映った自分を見る。安っぽいランジェリーに、透けたガウン。濃すぎるアイメイクに、派手な色のルージュ。

かつて、黒髪のポニーテールが似合うと言われた面影は、もうどこにもない。

今の私の名前は「ミキ」。年齢は二十二歳ということにしているが、実際はまだ二十歳にもなっていない。高校を中退した、元マネージャー。


「いらっしゃいませぇ。ミキです。よろしくお願いしまぁす」


個室に入り、中年男性客に媚びた声を出す。

男の脂ぎった顔が、あの男――黒川の顔と重なり、一瞬だけ吐き気が込み上げる。けれど、私はすぐにその感情を押し殺す。

これは仕事だ。

それに、私にはこれしかできないから。

誰かに求められ、体を差し出し、その対価として自分が生きていることを許される。

あの夏からずっと、私はその呪縛の中にいる。


***


時計の針を、あの夏に戻そう。

県立進学校の三年生。陸上部マネージャー。そして、高橋蒼太の恋人。

それが私の全てだった。


蒼太は眩しかった。

母子家庭というハンデを背負いながらも、決して腐ることなく、真っ直ぐに夢を追いかけていた。彼の走る姿が好きだった。汗を流して勉強する横顔が好きだった。

私は、そんな彼を支える自分が好きだった。

「蒼太のためなら何でもできる」。それは恋する乙女の決まり文句だけれど、私は本気でそう思っていた。彼の夢が叶うなら、私の命なんて安いものだと信じていた。


だから、黒川先生に呼び出された時も、私は疑わなかった。

「高橋の推薦は厳しい」

その言葉は、私にとって死刑宣告に等しかった。蒼太がどれだけ努力しているかを知っているからこそ、社会の理不尽さが許せなかった。


「僕なら、なんとかしてあげられるんだがね」


先生の言葉は、蜘蛛の糸のように見えた。

代償は、私の体。

普通なら断るだろう。警察に行くか、親に相談するだろう。

でも、私はそこで妙な優越感を覚えてしまったのだ。

――私だけが、蒼太を救える。

――蒼太は何も知らなくていい。私が泥をかぶれば、彼は綺麗なままでいられる。


それは、悲劇のヒロインを演じる陶酔感に他ならなかった。

「汚れる」という行為そのものが、私の愛の深さを証明しているような気がした。


初めて進路指導室のソファに押し倒された時、痛みと屈辱で涙が出た。

けれど、その涙すらも私は「美しい犠牲」だと変換した。

(蒼太、愛してるよ。これはあなたのためなの)

心の中でそう唱えれば、黒川先生の生々しい息遣いも、肌を這う冷たい手も、全てが「聖なる儀式」の一部になった。


回数を重ねるごとに、私の感覚は麻痺していった。

放課後の進路指導室。鍵の掛かった密室。

そこで行われる行為は、次第にエスカレートしていった。

先生は私の体を貪りながら、「お前はいい女だ」「高橋にはもったいない」と囁いた。

私はそれを聞きながら、どこか冷めた頭で(そうよ、私は蒼太のためにこんなことまでしている特別な女なの)と自惚れていた。


避妊具を自分で用意するようになった時、私は完全に狂っていたと思う。

ポーチの中にそれを忍ばせている時、背徳感と共に、奇妙な高揚感があった。

蒼太とデートをしている時も、彼の手を握りながら(この手は知らないんだ。私が裏でどれだけ汚れて、彼を守っているかを)と考えていた。

彼が無邪気に笑えば笑うほど、私の「犠牲」は輝きを増すような気がした。


私は、蒼太を信じていなかったのだ。

彼が自分の力で壁を越えられる強さを持っていることを、信じてあげられなかった。

私が手を出さなければ彼はダメになる、という傲慢な思い込み。

それは愛ではなく、依存であり、支配欲だった。


***


そして、運命の全校集会。

あの瞬間まで、私は自分が「影の功労者」だと信じて疑わなかった。

いつか蒼太が合格した時、心の中で(私が合格させてあげたんだよ)と誇らしく思うつもりだった。


スピーカーから私の喘ぎ声が流れた時、世界が反転した。

羞恥心? 恐怖?

いいえ、最初に感じたのは「理解不能」という感情だった。

なぜ? どうして? これは蒼太のための行為なのに、なぜ晒されなければならないの?


体育館中が凍りつき、軽蔑の視線が突き刺さる。

黒川先生が取り乱し、無様に連行されていく。

私はパニックになり、叫んだ。

「蒼太のためにやったの!」と。


あの時の蒼太の目を、私は一生忘れないだろう。

怒りでも、悲しみでもなかった。

そこにあったのは、汚物を見るような、底冷えするほどの「拒絶」だった。


『汚い手段で手に入れた未来なんていらない』


彼の言葉は、私の存在意義を根底から否定した。

私が身を削って、痛みに耐えて、心を殺して積み上げた「献身」が、彼にとっては「最大の侮辱」だったなんて。

そんなはずはない。

私が間違っているはずがない。

私は彼を愛していた。誰よりも愛していた。

なのに、どうして私が悪者になるの?


警察での事情聴取は屈辱的だった。

女性警察官は同情的だったけれど、事実確認のために何度もあの行為の詳細を話さなければならなかった。

「強要されたのね?」「断れなかったのね?」と聞かれたけれど、私はうまく答えられなかった。

だって、心のどこかで、私は自分から進んであの部屋へ通っていたから。

「彼のため」という大義名分を盾に、背徳的な快楽に溺れていた部分が、一ミリもなかったとは言い切れないから。


***


地獄は、学校の外でも続いた。

噂は光の速さで広まった。

「娘が体を売って推薦を取ろうとした」

その事実は、真面目な公務員だった父の立場を奪った。父は職場にいられなくなり、依願退職に追い込まれた。

母は近所のスーパーに行くことさえできなくなり、心労で倒れて入院した。

家の壁には、夜中に生卵が投げつけられた。ネット掲示板には私の実名と顔写真が晒され、あることないこと書かれた。


「お前のせいで、人生めちゃくちゃだ」


引っ越しの荷造りをしている時、父にそう言われた。

いつも優しかった父が、鬼のような形相で私を睨んでいた。

私は何も言い返せなかった。

「蒼太のためだった」なんて、もう誰にも通用しない言い訳だった。


私たちは夜逃げ同然にこの町へ越してきた。

知り合いのいない、寒い北の町。

私は高校を退学し、転入先を探したが、精神的に不安定な私を受け入れてくれる学校はあっても、私自身が制服を着ることに耐えられなかった。

制服を見ると、あの進路指導室の匂いが蘇るから。


家にいても、両親の視線が痛い。

「育て方を間違えた」「あんな子じゃなかったのに」という会話が、襖越しに聞こえてくる。

私は自分の部屋に引きこもり、スマホで蒼太の情報を検索し続けた。


彼は、推薦を蹴ったらしい。

一般入試で、当初の志望校に合格したらしい。

そのニュースを見た時、私はスマホを壁に投げつけた。


「なんでよ……!」


私の犠牲は?

私が捨てた純潔は?

家族を巻き込んでまで失った私の未来は?

全部、無駄だったってこと?

蒼太は私がいなくても、いや、私がいないからこそ、自分の力で光を掴んだ。

それが悔しくて、惨めで、どうしようもなくて、私は何日も泣き続けた。


***


「……おい、聞いてんのか?」


客の声で、現実に引き戻される。

目の前の男が、不機嫌そうに私を見下ろしていた。


「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてて」

「たく、指名料払ってんだからしっかりしろよ。……ほら、奉仕しろ」


男がソファに座り、脚を開く。

その構図は、あの進路指導室と全く同じだ。

私は慣れた手つきで膝をつき、頭を垂れる。


家を出て、一人で生きていくために選んだのがこの仕事だった。

皮肉なものだ。

私が唯一「誰かの役に立てる」と実感できたのが、結局はこの行為だけだったのだから。

「尽くすこと」でしか、自分の価値を証明できない。

黒川先生に植え付けられたのか、それとも元々の私の性質なのか。

私はここで、見知らぬ男たち相手に、偽りの献身を繰り返している。


「いいよ、ミキちゃん。うまいねぇ」


男の手が私の頭を撫でる。

その感触に、私は反射的に目を細める。

褒められると、嬉しい。必要とされていると、安心する。

たとえそれが、金で買われた関係だとしても。


(蒼太、見てる?)


心の中で、もう届かない彼に語りかける。

あなたは今頃、キャンパスライフを謳歌しているのかな。

新しい彼女がいるのかな。

私のことなんて、もう思い出しもしないのかな。


私は今、こんなに汚れてしまったよ。

でもね、これがあの時の私の成れの果て。

あなたが「いらない」と切り捨てた女の末路。


「……んっ」


男が果てる。

私は業務用のティッシュで口元を拭い、ニッコリと微笑む。


「ありがとうございましたぁ。また指名してくださいね」


男が出て行った後、個室に一人残される。

急に静寂が訪れるこの瞬間が、一番嫌いだ。

虚しさが、どろりと胸の底に溜まっていく。


スマホを取り出し、SNSを開く。

蒼太のアカウントはもう見られない。ブロックされているし、そもそも彼は鍵付きのアカウントに変えている。

代わりに、共通の友人だった子の投稿を見る。

そこには、大学の卒業式の写真が上がっていた。


スーツ姿の蒼太。

隣には、ショートカットの可愛い女の子。

二人とも、屈託のない笑顔でピースサインをしている。

背景には満開の桜。


画面の中の彼は、本当に幸せそうだ。

私と一緒にいた時のような、どこか影のある表情ではない。

太陽の下を堂々と歩く、勝者の顔だ。


私の指が震える。

画面をスクロールしようとして、誤ってその写真を拡大してしまう。

蒼太の瞳。真っ直ぐに未来を見つめる瞳。

そこにはもう、私というノイズは一片も存在していない。


「……ざまぁみろ、か」


乾いた笑いが漏れた。

彼は私に復讐した。

怒鳴るのでもなく、殴るのでもなく。

ただ「幸せになる」ことで、私を完全なる敗北者に仕立て上げた。


私がここで泥水をすすっている間、彼は美しい道を歩んでいく。

私が一生「あの事件の女」として後ろ指を指され続ける間、彼は「逆境を跳ね返した実力者」として称賛される。

この格差こそが、彼が私に与えた罰なのだ。


「うぅ……っ、うあぁ……」


個室の隅で、私は膝を抱えて嗚咽した。

涙で化粧が崩れ、黒い滴が頬を伝う。

戻りたい。

あの日、進路指導室のドアを開ける前の私に。

蒼太の隣で、「クレープ食べたい」と無邪気に笑っていた私に。


でも、もう遅い。

一度狂った歯車は、二度と元には戻らない。

私はこの薄暗い部屋で、見知らぬ誰かのために体を使い続けるしかない。

「愛のため」という幻想すら失った、ただの空っぽな肉人形として。


「ミキちゃーん、次のお客さんだよー」


ボーイの声が響く。

私は涙を乱暴に拭い、鏡に向かった。

目の周りは黒く滲み、まるで幽霊のようだ。

それでも私は、口角を無理やり持ち上げる。


「はーい、今行きまーす」


明るい声を作る。

これが私の人生。

自らが招いた、終わりのない転落劇。


私は個室のドアを開け、また新しい地獄へと笑顔で踏み出した。

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