第四話 「いらない」という最大の復讐
季節は巡り、校庭の木々が鮮やかな紅葉を散らし始める頃、俺の周りの空気は一変していた。
あの騒動から一ヶ月。学校内での噂話は徐々に沈静化しつつあったが、俺に向けられる視線には依然として独特な色が混じっていた。それは「被害者」への同情であり、「推薦を蹴った変人」への好奇心であり、そして「巨大な悪を告発した英雄」への畏怖でもあった。
だが、俺にとってそんな周囲の雑音はどうでもよかった。
今の俺にあるのは、ただひたすらに目の前の参考書と向き合う時間だけだ。
放課後の教室。日が短くなり、窓の外はすでに薄暗い。
俺は一人、黙々と数学の難問と格闘していた。指定校推薦を辞退した俺に残された道は、一般入試のみ。しかも、目指すのは県内トップの国立大学だ。推薦なら書類一枚で済んだかもしれない壁を、自分の腕一本でよじ登らなければならない。
「高橋、まだ残ってたのか」
声をかけてきたのは、担任の教師だった。手には温かい缶コーヒーを持っている。
「先生。……はい、もう少しキリの良いところまで」
「あまり根を詰めるなよ。お前は少し、気負いすぎている気がする」
担任は缶コーヒーを俺の机に置いた。
あの事件以降、教師たちは俺に対して過保護なほど気を遣っている。腫れ物に触るような扱い、とも言えるが、彼らなりの贖罪のつもりなのだろう。
「気負ってなんかいませんよ。ただ、絶対に落ちるわけにはいかないだけです」
「……そうだな。だが、お前の選択は間違っていなかったと、私は思うよ」
担任の言葉に、俺はペンを止めた。
間違っていなかった。頭では分かっている。
あんな汚れた切符で手に入れた未来に、何の価値もないことは理解している。
それでも、夜中にふと不安に襲われることがある。模試の判定が悪かった時、過去問が解けなかった時、「もしあのまま推薦を受けていれば」という甘い誘惑が脳裏をよぎるのだ。そのたびに、俺は美咲のあの喘ぎ声と、黒川の卑しい笑い声を思い出し、自らを奮い立たせていた。
「ありがとうございます。……先生、黒川はどうなりましたか?」
ふと、気になっていたことを尋ねた。ニュースでは逮捕されたことまでは報じられていたが、その後の詳細は学校側から伏せられていたからだ。
担任は顔をしかめ、小さくため息をついた。
「……懲戒免職だ。当然だが、退職金など出るはずもない。余罪も多数出てきて、実刑は免れないだろう。奥さんとは離婚調停中らしいし、家のローンも残っているとかで、自己破産するしかないという話も聞く。……まあ、自業自得だがな」
社会的な死。
かつて進路指導室でふんぞり返り、生徒の未来を支配した気になっていた男の末路としては、あまりにもあっけない。だが、同情の余地など欠片もなかった。
「そうですか。……吉永は?」
その名前を口にするのは、少しだけ勇気が必要だった。
図書室での決別以来、彼女の姿を見ていない。
「吉永については……個人情報だから詳しく言えないが、一家で引っ越したようだ。この町にはもう居られないだろうからな」
「引っ越し、ですか」
「ああ。噂はすぐに広まるからな。彼女の父親も会社で肩身が狭くなったとか、母親が心労で倒れたとか……いろいろと大変みたいだ」
担任は言葉を濁したが、その行間から滲み出る悲惨さは十分に伝わってきた。
田舎のネットワークは恐ろしい。「娘が教師と不適切な関係を持ち、それを盾に推薦を取ろうとした」というスキャンダルは、一瞬で地域中に拡散し、家族の生活基盤すら破壊したのだ。
「彼女は、転校先でも学校には通えていないらしい。……一生、この十字架を背負って生きていくことになるだろう」
担任の言葉は重かった。
俺は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
美咲をそこまで追い込んだのは、間違いなく俺だ。俺の告発が、彼女の人生を終わらせた。
だが、後悔はなかった。
彼女が選んだのは「献身」という名の自己満足であり、その代償として支払ったのが彼女自身の未来だったのだ。因果応報。その言葉が静かに胸に落ちた。
「……そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
俺は再びペンを握った。
もう、彼女たちのことを考えるのは終わりにしよう。
彼らが地獄を歩もうと、俺には関係のないことだ。俺は俺の道を、光の射す方へと歩いていくだけだ。
***
冬が到来した。
センター試験(共通テスト)が近づくにつれ、教室の空気は張り詰めたものになっていった。
俺は誰ともつるまず、休み時間も単語帳を開き、昼休みも図書室に籠った。
「高橋くん、頑張ってね」と声をかけてくれる女子もいたが、軽く会釈をするだけで深く関わろうとはしなかった。今の俺に、恋愛だの青春だのを楽しむ余裕はない。
一月。共通テスト当日。
会場の大学には、雪がちらついていた。
かじかむ手で受験票を確認し、会場へ向かう。
周囲には、同じように緊張した面持ちの受験生たちが溢れている。
その中に、ふと、見覚えのある後ろ姿を探してしまう自分がいた。いるはずがないのに。美咲はもう、この戦いの場にはいないのだ。彼女はスタートラインに立つことさえ許されず、社会の隅で怯えているのだから。
「……集中しろ」
俺は自分の頬を叩き、席に着いた。
試験開始の合図と共に、問題用紙を開く。
文字の羅列。記号の群れ。
それらが、俺を試しているように見えた。
お前は本当に実力でここに来たのか?
誰かの犠牲なしに、自分の足で立てているのか?
『汚い手段で手に入れた未来なんていらない』
あの日、美咲に言い放った言葉がリフレインする。
そうだ。これは証明なのだ。
俺が俺であるための、最大の証明。
ペンが走る。
迷いはない。今まで積み上げてきた努力が、指先を通して解答用紙に刻まれていく。
黒川への怒りも、美咲への失望も、すべてを燃料に変えて、俺は解き続けた。
***
二月の二次試験を終え、三月になった。
合格発表の日。
俺は自宅のリビングで、パソコンの画面と向き合っていた。
隣には母さんが座っている。母さんは何も言わず、ただ俺の手を握りしめていた。その手は、長年のパート仕事で荒れていたが、何よりも温かかった。
「……時間だ」
午前十時。
大学のウェブサイトが更新される。
アクセスが集中しているのか、画面の読み込みが遅い。
ぐるぐると回るロード中のアイコンを見つめながら、心臓が破裂しそうなほど脈打っていた。
もし落ちていたら。
その恐怖がないと言えば嘘になる。
落ちれば、俺はただの「意地を張って推薦を蹴った馬鹿な男」になる。
美咲の「献身」を無駄にし、自分の人生も棒に振った、滑稽なピエロだ。
画面が切り替わった。
合格者一覧のPDFファイルが開く。
俺の学部、学科のページ。
数字の羅列を目で追う。
俺の受験番号は、4028番。
4020……4025……
あった。
4028。
間違いなく、そこにあった。
「……あった」
震える声が出た。
「母さん、あったよ。受かった……!」
「湊……!」
母さんが俺に抱きついてきた。
「よかった、本当によかった……あんた、頑張ったねぇ……!」
母さんの涙声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
俺の目からも、熱いものが溢れ出した。
黒川への復讐が完了した時も、泣かなかった。
美咲と決別した時も、泣かなかった。
だが、今だけは涙が止まらなかった。
これは、誰かのお情けでも、誰かの犠牲でもない。
俺が、俺自身の力で勝ち取った合格だ。
汚れていない、正真正銘の俺の未来だ。
「ありがとう、母さん……ありがとう」
俺たちはしばらくの間、抱き合って泣いた。
窓の外では、春の陽射しが優しく降り注いでいた。
***
卒業式の日。
体育館は、厳かな空気に包まれていた。
俺は卒業証書を受け取り、壇上から降りた。
かつて、この場所で黒川の悪事を暴き、美咲との関係を断ち切った。あの時の騒然とした空気はもうなく、今はただ、旅立ちを祝う温かい拍手だけが響いている。
式が終わり、教室に戻ると、最後のホームルームが行われた。
担任が一人一人に言葉を贈る。
俺の番が来た時、担任は力強く俺の肩を叩いた。
「高橋。よくやったな。お前は私の誇りだ」
「……ありがとうございます」
クラスメイトたちも、口々に「おめでとう」「すげーよお前」と声をかけてくれた。
そこにはもう、好奇の目はなかった。実力で難関大を突破した男への、純粋な敬意だけがあった。
放課後、俺は荷物をまとめて校門へ向かった。
桜の蕾が膨らみ始めている。
ふと、校門の陰に人影が見えた気がした。
痩せた、長い髪の女性。
美咲……?
俺は足を止めた。
もし彼女だったら、どうする?
罵倒するか? それとも、許しの言葉をかけるか?
いや、違う。
俺は視線を戻し、そのまま前を向いて歩き出した。
もし彼女だったとしても、俺にはもう関係のないことだ。
声をかける価値もない。
視線を向ける必要もない。
彼女は俺の人生における「過去の登場人物」の一人に過ぎず、これからの物語には不要な存在なのだ。
「無関心」。
これこそが、彼女に対する最大の、そして最後の復讐だ。
彼女が一生、俺への罪悪感と「もしも」という後悔に苛まれ続ける一方で、俺は彼女のことなど一ミリも思い出さず、幸せに生きていく。それが一番、彼女にとって残酷な結末だろう。
俺は校門を出た。
春の風が、俺の背中を押した。
***
――それから、四年が経った。
俺は大学を卒業し、春から大手メーカーへの就職が決まっていた。
陸上は大学でも続け、それなりの成績を残すことができた。
今日は、大学の卒業式だ。
「蒼太、こっち向いて! 写真撮るよ!」
明るい声に呼び止められ、俺は振り返った。
そこにいたのは、大学で出会った恋人、真理だ。ショートカットが似合う活発な女性で、俺の過去など何も知らない。いや、知る必要もない。
「はい、チーズ!」
スマホのシャッター音が鳴る。
画面の中の俺たちは、満面の笑みを浮かべていた。
「ねえ蒼太、就職祝いに何食べたい? 今日は私が奢ってあげる!」
「本当? じゃあ、高い焼肉がいいな」
「えー、高いのはちょっと……ま、いっか! 今日は特別だしね!」
真理と並んで歩きながら、俺はふと、遠い記憶を思い出した。
高校時代の、あの湿った夏の日々。
歪んだ献身と、汚れた欲望にまみれた季節。
風の噂で聞いた話では、黒川は出所した後、日雇いの仕事を転々とし、酒に溺れる生活を送っているらしい。
そして美咲は……精神を病んで引きこもり生活を続けた後、今は遠い地方の風俗店で働いているという話を聞いた。店のプロフィールには「元陸上部マネージャー。尽くすタイプです」と書かれているそうだ。
彼女は結局、自分の価値を「男に尽くすこと」でしか見出せなかったのかもしれない。そして、その歪んだ献身が、彼女を泥沼へと沈め続けている。
「……どうしたの、蒼太? ぼーっとして」
真理が俺の顔を覗き込む。
俺は彼女の屈託のない笑顔を見て、自然と笑みがこぼれた。
「いや、なんでもない。……幸せだなと思って」
「何それ、急に! 照れるじゃん!」
真理が俺の腕を叩く。その痛みさえも心地よい。
俺の手には、自分の力で掴み取った未来と、愛する人がいる。
汚れのない、眩しい光の中に俺はいる。
「行こうか」
「うん!」
俺たちは手を繋ぎ、雑踏の中へと歩き出した。
過去の亡霊たちは、もう二度と俺に追いつくことはない。
俺の人生は、これからも俺自身の手で切り拓いていくのだから。




