第三話 断罪の全校放送
水曜日の朝、空は抜けるような青さだった。皮肉なほどの快晴が、これからの惨劇を予感させない静けさを保っている。
全校生徒が体育館に集められていた。今日は月に一度の全校集会。そして、進路指導部長である黒川健次による講話が予定されている。
俺は列の後方に座り、壇上を見つめていた。
そこには、マイクの調整をする黒川の姿がある。自信に満ちた表情。生徒たちの未来を導く教育者としての仮面。その裏に隠された醜悪な素顔を知っているのは、今のところ俺と、そして当事者である美咲だけだ。
視線を女子の列に移す。
美咲は俯いていた。顔色は悪く、周囲の友人たちと談笑することもない。その姿は、一見すると体調不良のようにも見えるが、俺には罪の意識に苛まれる囚人のように見えた。いや、もしかしたら「秘密を共有する背徳感」に酔っているだけかもしれない。
「それでは、進路指導部長の黒川先生より、お話をいただきます」
司会の先生の声と共に、拍手が起こる。黒川が悠然とマイクの前に立った。
「おはようございます。三年生の諸君にとっては、いよいよ勝負の秋が近づいてきましたね。進路決定というのは、人生における大きな岐路です……」
黒川のよく通る声が体育館に響く。
美辞麗句。
努力の尊さ。
大人の責任。
どの口が言うんだ。
俺はポケットの中でスマホを握りしめた。
準備は整っている。
放送室には入っていない。そんなリスクを冒す必要はない。
今の時代、校内放送システムはネットワークで管理されている。そして、我が校のセキュリティはお世辞にも強固とは言えない。少しパソコンに詳しい生徒なら、部室のLANポートから侵入して、割り込み放送をかけることくらい造作もないのだ。
俺は情報処理部の友人に協力を仰ぎ……いや、巻き込むわけにはいかないから、彼が以前自慢げに見せてくれた裏技を独学で再現した。
指定した時間は、講話のクライマックス。
黒川が最も気持ちよく語っている、その瞬間だ。
「……君たちの努力は、決して裏切らない。正しい行いをしていれば、必ず誰かが見ていてくれる。私はそう信じています」
黒川が胸に手を当て、感動的な締めに入ろうとした、その時だった。
『……先生、今日は誰も来ませんか?』
スピーカーから、ノイズ混じりの女の声が流れた。
黒川の声ではない。
会場がざわめく。マイクのトラブルか? 放送部のミスか? 生徒たちが顔を見合わせる。
黒川の表情が凍りついた。
彼はマイクを握ったまま、キョロキョロと周囲を見回した。
『大丈夫だ。休日にわざわざこんな所に来る物好きはいないよ。鍵もかけた』
続いて流れたのは、紛れもなく黒川の声だった。しかも、今の威厳ある声色とは違う、粘着質で欲望に満ちた声。
体育館の空気が一変した。
ざわめきが大きくなる。
「これ、黒川先生の声じゃね?」
「女の声、誰?」
「ていうか、何の話?」
黒川は顔面蒼白になり、マイクに向かって叫んだ。
「な、なんだこれは! 放送部! すぐに止めろ!」
だが、音声は止まらない。俺がセットしたプログラムは、強制停止コードを受け付けないように細工してある。電源を落とさない限り、この地獄は終わらない。
『高橋のやつ、推薦が決まって浮かれていたよ。君のおかげだとな』
俺の名前が出た瞬間、三年生の列から一斉に視線が集まるのを感じた。
だが、俺は動じない。ただ冷ややかに、壇上のピエロを見つめていた。
『……はい。彼、喜んでました。ありがとうございます、先生』
そして、その声の主に気づいた生徒たちが、今度は美咲の方を見た。
「え、これ吉永さんの声?」
「マネージャーの?」
「マジで? どういうこと?」
美咲は震えていた。両手で耳を塞ぎ、小さく首を横に振っている。
だが、無慈悲な放送は続く。
『感謝の言葉は口だけか? 態度で示してもらわないとな』
『あっ……んっ……』
決定的な音が、大音量で体育館に響き渡る。
衣擦れの音。
吐息。
そして、甘い喘ぎ声。
会場は悲鳴と怒号、そして野次馬的な興奮に包まれた。
「うわ、マジかよ!」
「ヤバすぎだろこれ!」
「先生と生徒? 最低!」
教頭や他の教師たちが慌てて放送室へ走るのが見えた。だが、もう遅い。
黒川は壇上で立ち尽くしていた。脂汗が滝のように流れ、口をパクパクさせている。威厳など欠片もない。ただの醜い中年男がそこにいた。
『もっと奉仕しろよ。彼を合格させたいんだろ?』
『は、はい……彼のために……んくっ……』
「彼のために」。
その言葉が、俺の胸を抉る。
周囲の視線が、同情から軽蔑へ、そして好奇心へと変わっていくのが分かった。
「高橋のためにやったってこと?」
「え、体で推薦取ったの?」
「高橋もグルなんじゃね?」
違う。
俺は被害者だ。いや、断罪者だ。
俺はゆっくりと立ち上がった。
騒然とする体育館の中で、その動きは目立った。
周囲が少し静まり返る。
俺は壇上の黒川を真っ直ぐに指差した。
「あんたが言ったんだろう! 『努力は裏切らない』って!」
俺の声は、マイクを通していないにも関わらず、不思議とよく通った。
黒川がビクリと反応して俺を見る。
「高橋……き、貴様……!」
「これが、あんたの言う『正しい行い』か? 生徒の弱みにつけ込んで、権力を振りかざして、女子生徒を食い物にするのが、あんたの教育かよ!」
俺の叫びに呼応するように、放送はクライマックスを迎える。
『吉永、中に出すぞ』
『だめ、です……赤ちゃん……』
『大丈夫だ、ちゃんと準備してるだろう?』
決定的な一言。
女子生徒たちから悲鳴が上がる。
教師たちが壇上に駆け上がり、黒川を取り押さえるように囲んだ。いや、守ろうとしたのか、逃げられないようにしたのかは分からない。
その時、女子の列から金切り声が上がった。
「ちがう! 私は! 私は蒼太のためにやったの!」
美咲だった。
彼女は立ち上がり、狂乱したように叫んでいた。髪を振り乱し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。
「蒼太を合格させるには、これしかなかったの! 私は犠牲になったの! 蒼太、なんで!? なんでこんなことするの!?」
美咲は俺の方へ駆け寄ろうとしたが、友人たちに止められた。
「美咲、落ち着いて!」
「離して! 蒼太に説明しなきゃ! 私は悪くない、私は彼を助けただけなの!」
その姿は、あまりにも哀れで、そして恐ろしかった。
「自分は正しいことをした」という妄信。
「愛のための行動」という自己陶酔。
それが完全に否定され、衆目に晒された時、人はこうも壊れるのか。
「吉永……」
俺は彼女を冷ややかに見下ろした。
かつて愛した女性。優しくて、可愛くて、俺の自慢だった彼女。
今はもう、ただの化け物にしか見えない。
「『蒼太のために』なんて言うな。君がやったのは、俺の努力を汚しただけだ。俺をダシにして、悲劇のヒロインごっこをしてただけだろう!」
「ちがう……ちがうよぉ……」
美咲はその場に崩れ落ち、泣き崩れた。
周囲の生徒たちは、ドン引きして彼女から距離を取る。
「うわ、なんか怖い」
「勘違いしすぎだろ」
「高橋くんかわいそう」
その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
俺があらかじめ通報しておいた警察だ。
「未成年者への淫行、および強要の疑いがある教師がいる」と。
この音声データがあれば、言い逃れはできない。
体育館の扉が開き、制服警官が数名入ってきた。
校長が真っ青な顔で対応に向かう。
黒川は「違う、誤解だ! 合意だったんだ!」と叫びながら、警官に腕を掴まれた。
「合意? 生徒と教師の間で、進路をチラつかせての行為に、合意なんて成立するわけないだろう!」
若い警官が一喝し、黒川に手錠をかけた。
黒川は抵抗しようとしたが、大人しく連行されていく。その際、俺と目が合った。
憎悪に満ちた目。
だが、俺は嘲笑で返した。
ざまぁみろ。お前の人生はこれで終わりだ。
美咲もまた、事情聴取のために婦人警官に連れられていく。
彼女は最後まで俺の方を見ていた。
「助けて」「許して」「褒めて」。
そんな様々な感情がない交ぜになった、虚ろな目で。
俺は目を逸らした。
もう、彼女にかける言葉は何もない。
***
騒動の後、全校生徒は教室に戻され、緊急ホームルームとなった。
だが、誰も授業になど集中できるはずがない。教室中がさっきの放送の話で持ちきりだった。
「ねえ、高橋くん」
クラスの女子が、恐る恐る声をかけてきた。
「大丈夫……? さっきの放送、本当なの?」
「……ああ。俺が録音したんだ」
隠すつもりはなかった。むしろ、俺が被害者であることを明確にしておく必要があった。
「すっごい勇気……。普通、あんなことできないよ」
「黒川、マジで気持ち悪かったもんね。高橋くんのおかげで助かった女子、多いと思うよ」
意外なことに、クラスの反応は俺に対して同情的、かつ英雄視するものが多かった。
黒川の悪評は周知の事実であり、美咲の「イタイ」言動も一部では有名だったらしい。
「あの子、いつも『私が支えてあげてる』アピールすごかったもんね」
「まさかあそこまでやってるとは思わなかったけど」
俺は淡々と対応しながら、窓の外を見た。
パトカーが去っていくのが見える。
これで、一つの区切りがついた。
だが、まだ終わりではない。
俺には、やらなければならないことが残っている。
この「汚れた推薦」をどうするか。
そして、美咲との関係をどう清算するか。
***
放課後、俺は校長室に呼ばれた。
中には校長、教頭、そして学年主任が座っていた。重苦しい空気。
俺は直立不動で彼らと対峙した。
「高橋くん。……今回の件、大変なショックを受けたことと思う。学校として、監督不行き届きを深くお詫びする」
校長が深々と頭を下げた。教頭たちもそれに続く。
保身のための謝罪かもしれないが、今の俺にはどうでもよかった。
「それで、今後のことなのだが……」
校長が顔を上げ、言いにくそうに切り出した。
「君の指定校推薦の件だ。黒川が関与していたとはいえ、君の成績や実績が優秀であることに変わりはない。大学側とも協議し、特例としてこのまま推薦枠を維持することは可能だという方向で話を進めたいと思うのだが」
学校側としては、これ以上騒ぎを大きくしたくないし、優秀な進学実績を一つでも確保したいのだろう。
「被害者救済」という名目で、俺に飴を与えるつもりだ。
俺にとって、それは喉から手が出るほど欲しい切符だった。
母さんを楽にさせるための、確実な道。
このまま受け取れば、俺は来年の春、国立大生になれる。経済的な不安もなくなる。
だが。
その切符には、美咲の裏切りと、黒川の汚れた欲望が染み付いている。
「彼女のおかげで取れた推薦」。
一生、その事実がついて回る。
大学で講義を受けるたび、合格証書を見るたび、あの喘ぎ声がフラッシュバックするだろう。
そんな未来で、俺は胸を張って生きられるか?
母さんに、「俺が頑張って合格したよ」と嘘をつかずに言えるか?
答えは、決まっていた。
「……お断りします」
俺の言葉に、教師たちは目を見開いた。
「えっ……? 断る? しかし高橋くん、君の家庭の事情も聞いている。国立の推薦を蹴るというのは、相当なリスクだぞ? 一般入試まであと半年もないんだ」
「分かっています。でも、いらないんです」
俺は拳を握りしめ、はっきりと言い放った。
「あんな汚い手段で、誰かの犠牲の上に成り立つ合格なんて、僕はいりません。それは僕のプライドが許さない。……僕は、自分の実力で合格してみせます」
「高橋くん……」
学年主任が、何か言いたげに口を開きかけたが、俺の決意に満ちた目を見て言葉を飲み込んだ。
校長はしばらく沈黙した後、小さく頷いた。
「……分かった。君の意思を尊重しよう。学校としても、一般入試に向けたサポートは惜しまないつもりだ」
「ありがとうございます」
俺は一礼して、校長室を出た。
廊下に出ると、長く息を吐いた。
もったいないことをした、という後悔は少しだけある。
だが、それ以上に、胸のつかえが取れたような清々しさがあった。
これで俺は自由だ。
黒川の呪縛からも、美咲の歪んだ愛からも。
俺は俺の足で、未来へ歩いていける。
***
翌日から、学校はさらに騒がしくなった。
黒川の余罪が次々と明るみに出たのだ。過去にも数人の女子生徒に対し、同様の手口で関係を迫っていたことが発覚した。被害届も複数出され、彼は二度と教壇には立てないだろう。社会的にも完全に抹殺される。
美咲は、学校に来なくなった。
噂では、精神的なショックで入院したとも、親戚の家に預けられたとも聞く。
彼女の両親が学校に謝罪に来たらしいが、俺は会わなかった。
そして一週間後。
俺は図書室で勉強をしていた。
窓際の席。西日が差し込む静かな空間。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
入り口に、美咲が立っていた。
やつれていた。かつての輝きは見る影もない。髪はボサボサで、目は落ち窪んでいる。私服姿だった。
彼女はおずおずと俺に近づいてきた。
周囲の生徒がヒソヒソと話すのが聞こえるが、彼女は気にしていないようだった。いや、気にする余裕もないのかもしれない。
「……蒼太」
掠れた声。
俺はペンを置き、彼女を見た。
「……何しに来たんだ」
「謝りに……ううん、会いたくて」
美咲は俺の前の席の椅子に手をかけたが、座ることはせず、立ったまま話し続けた。
「私、退学することになったの。……もう、ここにはいられないから」
「そうか」
「……ねえ、蒼太。推薦、断ったって聞いたよ。どうして? 私、あんなに頑張ったのに。蒼太のために、あんな思いしたのに」
まだ言っているのか。
この期に及んで、彼女はまだ自分が「悲劇のヒロイン」であり、俺のために犠牲になったと信じ込んでいる。
その思考回路の頑迷さに、俺は呆れを通り越して哀れみを感じた。
「美咲。君はまだ分からないのか」
俺は立ち上がり、彼女と向き合った。
「君がやったことは、『俺のため』じゃない。君が『俺のために尽くす自分』に酔いたかっただけだ。君の自己満足のために、俺を巻き込んだんだよ」
「違う! 私は本気で……!」
「本気なら!」
俺は声を荒げた。図書室の空気が張り詰める。
「本気で俺を信じてるなら、俺の実力を信じて待つべきだったんだ! 黒川なんかの誘いに乗らずに、『蒼太なら実力で受かります』って言い返すべきだったんだ! それが信頼だろ! それが愛だろ!」
美咲はハッとして、言葉を失った。
初めて、自分の論理の矛盾を突きつけられた顔をしていた。
「君は俺を信じてなかった。俺が実力じゃ受からないと思ったから、あんな真似をしたんだ。君は俺の努力を、一番近くで見ていたはずなのに、一番信じてなかったんだよ」
「あ……あぁ……」
美咲の目から、涙が溢れ出した。
今度の涙は、悲劇のヒロインの涙ではない。
真実を知り、自分の愚かさに直面した、絶望の涙だった。
「汚い手段で手に入れた未来なんていらない。君がしたことは、僕の努力に対する最大の侮辱だ」
俺はトドメの一言を放った。
「二度と顔を見せるな。君の顔を見ると、吐き気がするんだ」
美咲は崩れ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」と床に突っ伏して泣きじゃくる彼女。
だが、俺の心はもう動かなかった。
俺は荷物をまとめ、彼女の横を通り過ぎた。
一度も振り返ることなく、図書室を出た。
背後で聞こえる慟哭が、俺たちの関係の終わりの合図だった。
これで本当に終わりだ。
さようなら、美咲。
俺は一人で、前に進む。




