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第二話 黒い確信とボイスレコーダー

八月の終わり、夏休みも残りわずかとなったその日、校庭にはまだ騒がしい蝉時雨が降り注いでいた。連日の猛暑がアスファルトを焼き、陽炎が揺らめく中、俺は進路指導室の前に立っていた。


重厚な扉の向こうには、俺の未来を握る男がいる。

深呼吸を一つして、ノックをした。


「失礼します。三年二組の高橋です」

「入れ」


中から聞こえたのは、粘着質を含んだ低い声。扉を開けると、冷房が効きすぎた冷たい空気が肌を刺した。黒川健次はデスクで何か書き物をしていたが、俺が入ってくると眼鏡の位置を直し、口角だけで笑った。


「おお、高橋か。座りなさい」


勧められるままにパイプ椅子に腰掛ける。黒川は手元の資料を閉じ、もったいぶった仕草で俺を見た。


「単刀直入に言おう。お前の指定校推薦の件だが……ほぼ内定だ」


心臓が大きく跳ねた。

喉から渇いた音が漏れる。


「ほ、本当ですか……?」

「ああ。評定平均も申し分ないし、部活での実績も評価された。校長への根回しも、私が済ませておいたよ」


黒川は自分の手柄だと言わんばかりに胸を張った。

本来なら、ここで飛び上がって喜ぶべき場面だ。母さんにすぐに電話をして、安心させてあげたい。そう思うはずだった。だが、俺の胸に湧き上がったのは、安堵よりも先に、奇妙な違和感だった。


黒川の目が、俺を値踏みするようにじっと見つめている。それは優秀な生徒を見る教師の目ではない。何か弱みを握った人間が、優越感に浸りながら相手を見下ろすような、そんな不快な視線だった。


「ありがとうございます。先生のおかげです」

「いやいや、礼を言う相手が違うんじゃないか?」


黒川は身を乗り出し、声を潜めた。


「彼女に感謝するんだな。吉永美咲さんに」

「……美咲に、ですか?」

「ああ。彼女は熱心だったよ。お前のために、何度もここに足を運んで頭を下げていた。『彼の成績なら絶対に大丈夫です』『彼を信じてください』とな。……本当に、献身的な彼女だ」


黒川の言葉の端々に、妙な含みがある。「熱心」「何度も」「献身」。単語だけなら美談だが、その言い方がひどく猥雑に響く。

さらに、黒川はニヤリと笑い、俺の肩をポンと叩いた。


「彼女の『努力』を無駄にするなよ? 彼女はお前のために、随分と無理をしたようだからな」


背筋に冷たいものが走った。

無理をした? 美咲が? 何を?

ただの推薦の話だ。生徒一人のために、部活のマネージャーがそこまで奔走する必要があるのか? いや、そもそも推薦枠の決定は会議で決まるもので、生徒の直訴でどうにかなるものじゃないはずだ。


「……肝に銘じます」


俺はどうにか笑顔を作り、逃げるように進路指導室を後にした。

廊下に出ても、肩に残った黒川の手の感触が消えない。まるでナメクジが這ったような不快感が、肌に張り付いていた。


***


その日の夕方、部活の休憩中に俺は美咲に報告をした。

部室の裏、人目につかない日陰のベンチ。


「美咲。推薦、内定もらったよ」

「えっ……!」


スポーツドリンクの粉末を溶かしていた手が止まる。美咲は弾かれたように顔を上げ、俺を見た。その瞳が一瞬、大きく揺れた。


「本当……? 本当に、決まったの?」

「ああ。黒川先生がそう言ってた。ほぼ間違いないって」


俺がそう告げた瞬間、美咲の目から大粒の涙が溢れ出した。

彼女は俺に抱き着くこともなく、その場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。


「よかった……よかったぁ……」


嗚咽交じりの声。それは喜びの涙というには、あまりにも切迫していて、まるで重い十字架から解放されたような、あるいは取り返しのつかない罪悪感に押しつぶされそうな、痛々しい響きを含んでいた。


「美咲? そんなに泣かなくても……」

「だって、だって蒼太……これで、お母さん楽させられるね……国立、行けるね……」

「ああ。ありがとう。先生が言ってたよ。美咲が何度も頼み込んでくれたって」


俺がそう言うと、美咲の肩がビクリと跳ねた。

顔を覆っていた指の隙間から、怯えたような視線が俺に向けられる。


「……先生、何か言ってた?」

「いや、美咲が俺のために頑張ってくれたって。感謝しろよって言われた」


「そ、そう……。うん、私、頑張ったよ。蒼太のためだもん。……私なんか、どうなってもいいから、蒼太に夢を叶えてほしかったの」


美咲は立ち上がり、無理やり作ったような笑顔を見せた。だが、その笑顔はどこか歪で、目の奥は死んだように暗い。

ふと、風が吹き、彼女の髪がなびいた時だった。


首筋。耳の下あたりに、ファンデーションを厚塗りしたような不自然な色ムラが見えた。

夏だというのに、彼女は最近、髪を下ろしていることが多い。今日は珍しく結んでいたが、それでも後れ毛で必死に隠そうとしているのが分かる。


「美咲、首……どうしたんだ? 虫刺されか?」


俺が手を伸ばそうとすると、美咲は過剰な反応で身を引いた。


「さ、触らないで!」

「え?」

「あ、ご、ごめん……虫刺されが酷くて、触ると痛いの。変な薬塗ってるから、蒼太についちゃうし……」


早口でまくし立てる彼女の様子は、明らかに異常だった。

それに、近づいた時に微かに香った匂い。

汗と制汗スプレーの爽やかな匂いに混じって、鼻につく男物の整髪料と、独特の麝香のような香り。それは、先ほど進路指導室で嗅いだ、黒川の匂いと同じだった。


俺の中の疑惑が、確信へと変わり始めていた。

だが、信じたくなかった。幼馴染で、誰よりも純粋で、俺を応援してくれていた美咲が、そんなことをするはずがない。

俺は自分の疑念を「考えすぎだ」と押し殺し、震える手で拳を握りしめた。


***


それから数日が経った。

俺の観察眼は、嫌でも冴え渡っていた。


美咲は変わった。

以前は放課後になると「一緒に帰ろう」と誘ってきたのに、最近は「用事がある」「先生の手伝いがある」と言って、一人で残ることが増えた。

スマホを見る回数が劇的に増えた。画面が光るたびにビクッとして、すぐに画面を伏せる。

そして何より、俺と目を合わせようとしない。


決定的な瞬間は、唐突に訪れた。


ある日の放課後、俺は更衣室に忘れ物を取りに戻った。

女子更衣室の隣にある部室。そこには誰もいなかったが、長机の上に美咲の通学カバンが置かれていた。チャックが半開きになっている。


普段なら他人のカバンを覗くなんてことはしない。だが、その時は何かに導かれるように、俺はカバンに近づいた。

開いた口から見えたのは、化粧ポーチだった。そのポーチのファスナーもまた、中途半端に開いていた。


そこから、銀色の小さな袋が顔を覗かせていた。


心臓が早鐘を打つ。

まさか。いや、見間違いだ。

俺は震える指で、その銀色の袋をつまみ上げた。


それは、避妊具だった。

しかも、コンビニや薬局で売っているような箱入りのものではない。業務用の、あるいはホテルに備え付けられているような、安っぽいパッケージの個包装だ。

俺と美咲は、まだそういう関係には至っていない。受験が終わるまでは清い交際を続けようと、二人で決めていたはずだ。

なのに、なぜ。


「……うそだろ」


脳裏に、黒川の顔がフラッシュバックする。

『彼女の努力を無駄にするなよ』

『個人的な指導』

『献身的な彼女』


パズルのピースが、音を立てて嵌っていく。

美咲の首筋の痕。

不自然な残業。

黒川と同じ匂い。

そして、この避妊具。


吐き気がした。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。

美咲は、俺のために、黒川に体を売ったのか?

推薦枠という餌に釣られ、汚い教師の玩具にされたのか?

それを「献身」だと勘違いして?


「ふざけるな……」


怒りが、悲しみを塗りつぶしていく。

俺が欲しかったのは、こんな汚れた推薦じゃない。

美咲が体を張って取ってきた切符なんて、ちっとも嬉しくない。

それは俺の実力への侮辱であり、俺たちの関係への裏切りだ。美咲がどう思っていようと、これは浮気であり、不貞だ。


その時、廊下から足音が聞こえた。

俺は慌てて避妊具をポーチに戻し、カバンから離れた。

ガラッと扉が開く。入ってきたのは美咲だった。少し顔が赤い。髪が濡れている。


「あ、蒼太……? どうしたの、こんなところで」

「忘れ物を取りに来たんだ。……美咲こそ、シャワー浴びてたのか?」


陸上部の練習後ならシャワーを浴びるのは普通だ。だが、今日はミーティングだけで練習はなかったはずだ。


「う、うん。ちょっと掃除してたら汗かいちゃって。……蒼太、顔色悪いよ? 大丈夫?」


美咲が心配そうに近づいてくる。

その体から、石鹸の匂いがした。

だが、俺には分かった。その石鹸の匂いの下から、あの忌々しい匂いが漂ってくるのを。

彼女は「事後」の汚れを洗い流してきたのだ。黒川との情事の痕跡を、学校のシャワーで消し去ってきたのだ。


「大丈夫だよ。……帰るわ」


俺は美咲の顔を直視できず、逃げるように部室を出た。

これ以上ここにいたら、彼女を罵倒してしまいそうだった。

だが、今問い詰めても、彼女はきっと「蒼太のため」と言い訳をするだろう。あるいは泣いて誤魔化すかもしれない。黒川もシラを切るはずだ。証拠がない。


証拠が必要だ。

言い逃れのできない、決定的な証拠が。


俺の中で、何かが冷たく固まった。

もう、美咲を守る必要はない。彼女は自ら堕ちたのだ。

俺が守るべきは、俺自身のプライドと、これからの未来だけだ。


そのためには、この腐った茶番劇を終わらせなければならない。


***


翌日、俺は家電量販店で高性能なボイスレコーダーを購入した。

スティック型で、長時間録音が可能なモデルだ。バイト代が消し飛んだが、惜しくはなかった。


狙う場所は、進路指導室。

黒川の城だ。


黒川は、毎週金曜日の放課後、教職員会議に出席するために一時間ほど部屋を空ける。その隙がチャンスだった。

金曜日の放課後、俺は「進路の資料を見たい」という口実で、事務室で鍵を借りた。進路指導室への出入りは、資料閲覧目的であれば生徒にも許可されている。もちろん、教師の同伴が原則だが、「黒川先生に許可をもらっています」と嘘をつき、忙しい事務員を言いくるめた。


静まり返った進路指導室。

俺は手早く黒川のデスク周りを探った。

引き出しの中? いや、見つかるリスクが高い。

本棚の裏? 集音が悪いかもしれない。


視線が、デスクの下にある配線コードの束に向いた。

パソコンやプリンターの太いコードが複雑に絡み合っている。その奥、床に近い位置なら、覗き込まない限り見えないし、足が当たって見つかる可能性も低い。


俺はボイスレコーダーのスイッチを入れ、録音モードになっていることを確認した。

小さな赤いランプが点滅する。この光が、奴らの破滅へのカウントダウンだ。

黒いビニールテープで、レコーダーを目立たないコードの裏側に固定する。


「……これでいい」


心臓の鼓動がうるさい。

俺は急いで部屋を出て、鍵を返却した。

あとは、待つだけだ。

美咲が黒川に呼び出されるのを。

そして、あの忌まわしい行為が行われるのを。


***


土日が明け、月曜日。

俺は再び隙を見て進路指導室へ忍び込み、レコーダーを回収した。

黒川はこの週末、休日出勤をしていたという情報を掴んでいた。そして美咲もまた、「模試の勉強で学校に行く」と言って家を出ていたことを、彼女の母親から聞いていた。


間違いなく、何かが録られているはずだ。


放課後、俺は誰もいない自宅の自室に戻り、パソコンにレコーダーを接続した。

画面に表示される音声ファイルのリスト。

いくつかあるファイルの中で、土曜日の日付がついた、一際長いデータがあった。一時間半。


震える指でマウスを握る。

これを再生してしまえば、もう後戻りはできない。

知らなかった頃の俺には戻れない。

だが、知らなければ前にも進めない。


「……」


意を決して、再生ボタンをクリックした。


『……先生、今日は誰も来ませんか?』


スピーカーから流れてきたのは、紛れもなく美咲の声だった。怯えているような、それでいてどこか甘えるような猫なで声。


『大丈夫だ。休日にわざわざこんな所に来る物好きはいないよ。鍵もかけた』


黒川の下卑た笑い声。

衣擦れの音。何かが机に置かれる音。


『高橋のやつ、推薦が決まって浮かれていたよ。君のおかげだとな』

『……はい。彼、喜んでました。ありがとうございます、先生』

『感謝の言葉は口だけか? 態度で示してもらわないとな』

『あっ……んっ……』


そこから先は、地獄だった。

水音。

荒い息遣い。

そして、美咲の喘ぎ声。


『もっと奉仕しろよ。彼を合格させたいんだろ?』

『は、はい……彼のために……んくっ……』

『ここを舐めろ。そうだ、いいぞ。高橋にはこんなことしてやってないんだろう?』

『してません……初めてです、こんなの……』

『もったいないなぁ。僕が教えてやるよ、大人の悦びを』


聞くに堪えない会話が続く。

俺はヘッドフォンを投げ捨てたい衝動に駆られたが、歯を食いしばって耐えた。

これは証拠だ。

黒川の職権乱用、未成年者への強要、淫行。

そして美咲の、言い逃れようのない裏切りの証拠。


「『初めて』……?」


美咲の声が、鼓膜にこびりつく。

俺とのキスさえ恥ずかしがっていた彼女が。

俺の手を握るだけで顔を赤らめていた彼女が。

こんなにも卑猥な声を出して、俺以外の男に奉仕している。

しかも、「彼のために」なんて聖女ぶった言葉を吐きながら、快楽に溺れているのが音声越しにも伝わってきた。


『あぁ、先生、すごい……』

『吉永、中に出すぞ』

『だめ、です……赤ちゃん……』

『大丈夫だ、ちゃんと準備してるだろう?』

『……はい』


音声データの中で、二人の息遣いが重なり、絶頂を迎える音が響く。

俺の心の中で、何かが完全に砕け散った。


涙は出なかった。

悲しみはもう通り過ぎていた。

残ったのは、氷のように冷たく、鋭利な殺意に似た怒りだけ。


俺は音声データを保存し、バックアップを複数のクラウドにコピーした。

そして、静かに画面を閉じた。


「……ふざけるな」


暗い部屋の中で、俺の呟きだけが響く。

もう許さない。

推薦なんてどうでもいい。

俺のプライドを踏みにじり、俺をダシにして快楽を貪ったお前たちに、相応の報いを受けさせてやる。


俺はスマホを取り出し、校内放送のシステムについて調べ始めた。

次の全校集会は、明後日の水曜日。

進路指導部長である黒川が、全校生徒の前で講話を行う予定だ。

最高の舞台じゃないか。


「待ってろよ、先生。そして美咲」


俺は冷たい笑みを浮かべた。

お前たちが隠してきた「愛の営み」を、白日の下に晒してやる。

それが、俺からの最後の手向けだ。


画面の向こうで、俺の復讐のシナリオが、静かに、しかし確実に動き出していた。

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