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第一話:歪んだ献身と甘い毒

七月の湿った空気が、教室の窓から入り込んでくる。期末テストが終わったばかりの放課後、多くの生徒たちが開放感に浸って騒いでいる中、俺、高橋蒼太たかはし そうたは一人、模試の結果表を睨みつけていた。


「……A判定。でも、ボーダーぎりぎりか」


ため息交じりに呟くと、隣からスポーツドリンクのボトルが差し出された。


「また難しい顔してる。蒼太、根詰めすぎだよ」


呆れたような、それでいて甘い声色。顔を上げると、陸上部のマネージャーであり、俺の幼馴染にして恋人でもある吉永美咲よしなが みさきが立っていた。ポニーテールに結い上げた黒髪が、扇風機の風に揺れている。彼女は俺の机に頬杖をつき、上目遣いで覗き込んできた。


「A判定なんでしょ? すごいじゃん。県内トップの国立大だよ? 私なんてE判定以外見たことないのに」

「模試の判定だけじゃ安心できないんだよ。俺が狙ってるのは『指定校推薦』だから」


俺は結果表をクリアファイルに丁寧にしまいながら答えた。

我が家は母子家庭だ。女手一つで俺を育ててくれた母さんに、これ以上負担はかけられない。私立大学への進学は経済的に厳しく、浪人なんてもってのほかだ。だからこそ、学費の安い国立大学へ、確実に行ける指定校推薦を勝ち取る必要があった。


「評定平均は足りてる。部活の実績もある。でも……」

「でも?」

「最終決定権を持ってるのが、あの黒川先生だってことが不安なんだ」


黒川健次。陸上部の顧問であり、進路指導担当の教師だ。表向きは熱血教師として保護者からの評判も悪くないが、生徒たちの間では悪い噂が絶えない。特に女子生徒に対する粘着質な視線や、権力を笠に着た高圧的な態度は、俺も生理的な嫌悪感を抱いていた。


美咲はきょとんとした顔で首を傾げる。


「えー? 黒川先生、いい先生じゃん。いつも『マネージャーの仕事は大変だな』って声かけてくれるし」

「それは美咲が……いや、なんでもない」


美咲が可愛くてスタイルが良いからだ、とは言えなかった。美咲は昔からそうだ。人を疑うことを知らず、自分に向けられる好意や視線の裏側にある邪念に気づかない。その純粋さが彼女の美点であり、俺が守ってやらなきゃいけないと思う理由でもあった。


「大丈夫だよ、蒼太。蒼太の努力は私が一番近くで見てきたもん。神様だって、黒川先生だって、絶対分かってくれるよ」


美咲は俺の手をぎゅっと握りしめた。その温もりに、張り詰めていた心が少しだけ解ける。


「……そうだな。美咲がそう言ってくれるなら、心強いよ」

「でしょ? さ、部活行こ! 今日はインターバル走だから、タイム計測厳しくいくよ!」


美咲の笑顔に励まされ、俺たちはジャージに着替えるために教室を出た。

この時の俺はまだ知らなかったのだ。

その「純粋さ」こそが、俺たちの未来を壊す最大の凶器になることを。


***


部活動が終わったのは午後七時を回った頃だった。

夏の日は長く、まだ西の空には赤紫色の残光が残っている。グラウンド整備を終え、部室棟へ戻ろうとした時だった。


「吉永、ちょっといいか」


ねっとりとした低い声。振り返ると、ジャージ姿の黒川が立っていた。首にかけたタオルで汗を拭いながら、爬虫類を思わせる細い目で美咲を見つめている。


「はい、何でしょうか先生」

「進路指導室に来なさい。推薦枠の資料整理を手伝ってほしいんだ」

「あ、はい! すぐ行きます」


美咲は二つ返事で承諾し、俺に向かって「ごめん蒼太、先帰ってて!」と手を合わせた。


「待ってるよ。暗いし、送っていく」

「ううん、大丈夫。資料整理なら時間かかりそうだし、蒼太は勉強あるでしょ? 私のことは気にしないで、自分の未来のために時間を使って」


美咲はそう言うと、俺の返事も待たずに黒川の後を追って走り出した。

彼女の背中を見送りながら、胸の中に正体不明のざらつきが走る。だが、「自分の未来のために」という言葉に背中を押され、俺は一人で校門を出た。あの時、無理やりにでも彼女の手を引いていればよかったと、後悔することになるとも知らずに。


***


冷房の効きすぎた進路指導室。

窓の外は完全に闇に包まれている。

美咲は、山積みになった資料を棚に分類する作業を終え、額の汗を拭った。


「ありがとうございます、先生。これで終わりですか?」

「ああ、助かったよ吉永。君は本当に気が利くな」


黒川は革張りの回転椅子に深く腰掛けたまま、満足げに頷いた。しかし、その視線は美咲の顔ではなく、Tシャツの裾から僅かに覗く腰のラインや、汗で張り付いた布地が浮き彫りにする胸元に向けられていた。


「いえ、これくらい当然です。……あの、先生」

「ん?」

「高橋くん……蒼太の推薦のことなんですけど、大丈夫でしょうか?」


美咲はおずおずと切り出した。作業中ずっと、そのことが気になっていたのだ。


黒川の表情が変わった。にこやかな笑みが消え、困ったような、それでいてどこか芝居がかった深刻な顔つきになる。彼は机の上で両手を組み、大げさにため息をついた。


「それなんだがね……正直、厳しいと言わざるを得ない」

「えっ……? どうしてですか? 蒼太の成績は学年でもトップクラスですし、評定平均だって……」

「数字だけじゃないんだよ、推薦というのは」


黒川は言葉を遮り、立ち上がった。ゆっくりとした足取りで、美咲との距離を詰めていく。


「今年はこの大学の推薦枠、非常に競争率が高い。校長も教頭も、別の生徒……地元の有力者の息子を推そうとしているんだ。高橋のような、後ろ盾のない母子家庭の生徒には、少々風当たりが強くてね」


それは真っ赤な嘘だった。実際には蒼太の成績は群を抜いており、校内選考など形式的なものに過ぎなかった。だが、教育現場の裏事情を知らない美咲に、それを見抜く術はない。


「そんな……蒼太、すごく頑張ってるのに。お母さんのためにって、必死なのに」


美咲の顔から血の気が引いていく。蒼太の努力を誰よりも知っている彼女にとって、それは理不尽すぎる現実だった。


「僕もね、顧問として高橋を推したい気持ちはあるんだ。だが、僕一人の力では、上層部を納得させるのは難しい。……何か、特別な材料がない限りはね」


黒川は美咲の目の前まで歩み寄り、ピタリと足を止めた。香水の匂いと、中年男性特有の脂臭さが混ざった不快な匂いが美咲の鼻を突く。しかし、彼女は逃げなかった。逃げてしまえば、蒼太の未来が閉ざされてしまうような気がしたからだ。


「特別な……材料?」

「そう。僕が情熱を持って、彼を『個人的に』猛プッシュするための理由だよ」


黒川の手が、美咲の肩に置かれた。びくりと体を震わせる美咲。その手はゆっくりと首筋へ、そして頬へと這い上がっていく。


「先生、あの……」

「吉永。君は高橋のために、どこまで尽くせる?」

「え……?」

「彼の実力では、一般入試で国立は博打だ。もし落ちれば、彼は経済的な理由で進学を諦め、高卒で働くことになるかもしれない。彼の夢は潰える。……君のせいでね」


「私の……せい?」


「君がここで僕のお願いを聞いてくれれば、彼は救われるんだから。逆に言えば、君が拒めば、彼は落ちる。つまり、君が彼を落とすことになるんだよ」


詭弁だ。あまりにも卑劣な論理のすり替え。

だが、蒼太を盲目的に愛し、「彼のためになりたい」という強迫観念にも似た思いを抱いていた美咲の心に、その毒は深く突き刺さった。


――私が我慢すれば、蒼太は助かるの?

――私が拒否したら、蒼太の努力は全部無駄になるの?


美咲の瞳が揺れる。黒川はその動揺を見逃さなかった。彼は美咲の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁く。


「これは『愛の証明』だよ、吉永。大人の社会ではね、時には汚れることも必要なんだ。彼には内緒で、君が泥をかぶる。それこそが、究極の献身だと思わないか?」


「きゅうきょくの……けんしん……」


美咲の瞳から、理性の光が消えていく。

彼女の中で、何かが音を立てて歪んだ。


(そうだ。蒼太は何も知らなくていい。綺麗なまま、夢を叶えてくれればいい。そのための汚れ役なら、私が引き受けるべきなんだ。だって私は、蒼太のことが大好きだから)


誤った自己犠牲。陶酔にも似た悲劇のヒロイン願望。

美咲は震える手で、自分のスカートの裾を握りしめた。


「……本当に、蒼太を推薦してくれますか?」

「約束しよう。僕の権限にかけて、必ず合格させる」

「……分かりました。私が……彼の未来を守ります」


美咲は力なく首を縦に振った。

その瞬間、黒川の顔が醜悪な喜悦に歪む。彼はもう教師の顔などしていなかった。ただの欲情した雄の顔だった。


「いい子だ。さあ、こっちへ来なさい。個人指導の時間だ」


黒川は美咲の腕を引き、執務机の陰にあるソファへと押し倒した。

冷たい革の感触が背中に広がる。美咲は天井を見上げたまま、視界が涙で滲むのを感じていた。


「先生……」

「声を出してはいけないよ。誰かに聞かれたら、高橋の推薦が取り消しになるかもしれないからね」


黒川の手が、美咲のブラウスのボタンに掛かる。

一つ、また一つと外されていく。肌寒さと共に、絶対的な絶望感が肌を這う。

抵抗はしなかった。抵抗してはいけないと思い込んでいた。

これは不倫じゃない。浮気でもない。

これは人助けだ。蒼太のための、尊い犠牲だ。

そう自分に言い聞かせなければ、心が壊れてしまいそうだったから。


「愛してるよ、蒼太……」


美咲は目を閉じ、これから始まる地獄を「愛」という名の虚構で塗り固めた。

重なり合う影。衣擦れの音。そして、部屋の空気が粘着質な熱を帯びていく。

机の上に置かれたボイスレコーダーの赤いランプが、誰にも気づかれることなく、静かに点滅していることも知らずに。


いや、違う。

机の上にはまだ何もない。

あるのは、美咲が置き忘れたスマホと、黒川が外した腕時計だけだ。

真実が暴かれるのは、まだ少し先の話。


***


時刻は午後九時を回っていた。

校門の近くにある街灯の下で、俺は単語帳をめくりながら美咲を待っていた。「先帰ってて」と言われたが、やはり心配で戻ってきてしまったのだ。


校舎の方から、足音が聞こえる。

暗闇の中から現れた美咲は、少し足取りが重そうに見えた。


「美咲!」


声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、驚いたように顔を上げた。街灯に照らされたその顔は、どこか青白く、髪も少し乱れているように見える。


「蒼太……? どうして、帰ってなかったの?」

「やっぱり心配でさ。……大丈夫か? 随分遅かったんだな」


俺が近づくと、美咲は一瞬だけ後ずさりした。まるで、俺に触れられることを恐れるかのように。


「う、うん。資料整理、思ったより大変で。……ごめんね、待たせちゃって」


彼女の声は掠れていた。それに、いつもなら飛びついてくるはずの美咲が、妙によそよそしい。

ふと、風に乗って甘ったるいような、鼻につく匂いが漂ってきた気がした。何の匂いだろうか。整髪料のような、あるいはもっと生々しい何かのような。


「美咲、なんか雰囲気違わないか? 具合でも悪いのか?」


俺が顔を覗き込むと、美咲は不自然なほど明るい笑顔を作った。


「ううん! 全然! それより聞いてよ蒼太! 黒川先生がね、蒼太の推薦のこと、しっかり見てくれるって! 『彼なら大丈夫だ』って言ってくれたよ!」

「え? ……ああ、そうか。それは良かったけど」


さっきまでの不安げな様子とは打って変わって、興奮気味にまくし立てる美咲。その瞳は潤んでいるが、どこか焦点が合っていないような危うさがあった。


「良かったね、蒼太。本当に良かった。……私の努力、無駄じゃなかったんだ」


最後の一言は、とても小さく、聞き取れないほどの声量だった。


「え?」

「ううん、なんでもない! さあ、帰ろ? お腹すいちゃった」


美咲は俺の腕に腕を絡ませてきた。

その感触にドキリとしながらも、俺は違和感を拭えなかった。

彼女の腕から伝わる体温が、いつもより冷たい気がしたのだ。

そして、彼女のブラウスのボタンが一つ、掛け違えられていることに、俺はこの時まだ気づいていなかった。


「……ああ、帰ろう」


俺たちは並んで夜道を歩き出す。

隣を歩く最愛の彼女が、たった今、俺のためにその身を汚し、取り返しのつかない沼に足を踏み入れたことなど知る由もなく。

俺はただ、推薦への希望が見えたことを純粋に喜ぼうとしていた。


隣で美咲が、時折、痛みに耐えるように微かに顔をしかめていることにも気づかずに。

彼女の献身という名の裏切りは、もう始まっている。

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