眼鏡の名前
廊下を少し歩いたところでどちらからともなく立ち止まって、お互いため息を一つ。
「あの……ありがとうございました。その、あの方、いつもしつこく話しかけてこられるので、困っていたのです。本当に助かりました……」
あたしは先手必勝とばかりに眼鏡さんに御礼を言った。とりあえずあたしが本心でフレッドさんにまた来て欲しいとか思ってないことは、伝えておかないといけないからね。それによってもしかしたら、このあとのお小言が減るかも知れないし。
でも、眼鏡さんはどうしてか、あたしの顔をまじまじと見ている。えっなに? 何かついてる?
「……あなたは、あの方がどなたが知らないんですか?」
「……え?」
どなた、って……だって、なんかお金持ちのおうちの息子、とかじゃないの? 確かにグレゴーリオさんもはっきりどこの誰だとかは言わなかったけど、えっなんか有名な人だったりする?
眼鏡さんはあたしの答えを聞くと、暗い鳶色の髪をぐしゃりとかき回して深いため息を吐いた。
レンズ越しに、髪と同じ色をした二つの目が、あたしを値踏みするように見つめている。む、ちょっと嫌な目つきだぞ、眼鏡さん。
「あの方は、この国の第三王子ですよ」
……えっ?
えっ、……えっ、嘘でしょ? 本当に?
本当にあんな、聖女の役目も考えず人の外見しか見てない上に短気で粗暴で高慢ちきなぱっぱらぱーが第三王子なの!? 本当に!?
「フレッド、というのは街に下りる際の仮の名でしょう。あの方は間違いなく、第三王子のフレドリクス殿下です」
「じゃ、じゃあ、本当にあんな馬鹿……っんん! いえ、その! えっと、し、親しみやすい方? が? お、王子様……なのですか……?」
まずい、一瞬思ったことがそのまま口から出ちゃった。
慌ててごまかしてみたけど、ちょっとこれはごまかしきれなかったかも知れない。ああどうしようめちゃくちゃ怒られそう! 今、周りに誰もいなかったからまだ良かったけど、眼鏡さんこういうの厳しそうだからなあ!
なんて思ってたら、眼鏡さんはしばらくきょとんとしたようにあたしを見ていてから、急にそっぽを向いてしまった。それでもって、口元を押さえて震えている。
一瞬怒りをこらえてるのかと思ったけど……違う。これは、笑いをこらえてる方だ!
いやいやいやなんで!? 怒られるよりか良かったけど、なんでそんなに笑ってるのよ!?
「っふふ……くくくっ……お、お前、本当にあの人が王子だって、知らなかったんだな……!」
「そ、そりゃあそうでしょ! 王様とか王妃様ならともかく、第三王子の顔なんて知らなくって当たり前じゃない! 第一王子とかなら知ってる人もいるかもだけど……」
ああダメ、やっちゃった。完全に吊られて素が出ちゃった。
神殿の人たちは基本的にみんな敬語だから、あたしもなんとかお上品な感じのしゃべり方を維持できてたのに、眼鏡さんが一気に砕けた口調で話すから思いっきり吊られてしまった。何これ、誘導尋問? 怖いよう、もしかして今からめっちゃ怒られるんじゃないの?
「ああ、気にするな。お前が無理をして上品な聖女を演じてることには気づいてた。僕の前では、お前の話しやすい方で話せばいい」
「……すみませんね、お芝居が下手くそで」
「いや、上手いものだと思うぞ? 実際、他の神官やあの王子は騙せてるんだし。ただ、相手が悪かったな」
自分の前では下手な芝居なんか通用しない、ってこと? まあ、確かに通用してないんだけど……。
なんて思ってたら、眼鏡さんは自信たっぷりに予想外のことを言ってきた。
「先代のサーシャ様はな、それはもう素晴らしい聖女様だったんだ。お前がどう頑張って演じても、あの方には追いつけやしないよ。僕は、あの方を通じて聖女というもののあり方を学ばせてもらったからな……どうしてもあの方と比べてしまうから、お前の粗が目立つんだ」
め、め、眼鏡さん……!
やっぱり眼鏡さんは、お姉ちゃんをちゃんと見てくれてたんだね……!
「……あなたは、お姉ちゃんのこと、聖女として認めてくれてるのね」
「当たり前だろ? あの方以上に聖女らしい聖女なんて、きっといやしないよ。我が身も省みず他者を助けようとする高潔な精神も、誰に対しても平等に優しくあろうとする公正な姿勢も……平穏を貴び安寧を愛する我らが女神イルエレ様が依代とされるのなら、ああいう方を選ぶだろうさ。……なんだ、お前もそう思ってるのか?」
「うん! あたしの理想はお姉ちゃんだもん!」
「……」
眼鏡さんはどこか複雑そうな顔であたしを見た。
そうか、一応お姉ちゃんは神託を受けて大神官様に会いに行ったことになってるけど、眼鏡さんはあたしがお姉ちゃんを追い出したと捉えてたのか。ああうん、そりゃそうだよね。こんなのタイミングが良すぎるもん。
「あの……実はね。いろいろ事情があって、詳しいことは言えないんだけど……、あたしは、お姉ちゃんを追い出したかったわけじゃないの。ただ、お姉ちゃんの具合があんまり良くないからって、あたしが代わりに聖女にならなきゃいけなくなって……」
計画のことは誰にも話さないという約束になっている。いくら口止めしても、人の口に戸は立てられない。だとすれば、知っている人数を極力絞った方が安全だ。
グレゴーリオさんの言い分はもっともで、だからあたしは眼鏡さんにも曖昧な状況説明しかできなかった。本当はそれだってしちゃいけなかったのかも知れないけど……でも、お姉ちゃんを尊重してくれている眼鏡さんに、お姉ちゃんを追い出した妹として見られるのはちょっと辛かったから、ぼかして説明することにしたのだ。
眼鏡さんは、あたしのふわっとした説明でも一応は納得してくれたらしい。
「……サーシャ様の体調が優れないという噂は、神殿長からも聞いていた。確かに、自室にこもる時間が増えているとは思っていたが……サーシャ様の具合は、そんなに悪いのか?」
「あたしも、詳しくは知らないの。でも、今は安心できるところで療養してる、って聞いてる。だから……えっと、あたしのことは嫌いで良いんだけど、お姉ちゃんの為なので、聖女としてのあたしには、協力して欲しい。ダメかな?」
「別に構わないし、良いも悪いも、お前に対してこれといった感情は抱いていないから心配するな。お前がサーシャ様を追い落としたわけじゃないなら、敵対する理由はないし……サーシャ様のためなら協力もしよう」
ああ、よかったぁ。
万が一眼鏡さんが「この秘密をばらされたくなかったら」とか言い出す人だったら、どうしようかと思っちゃった。
「よかった、ありがとう! えっと、念の為に自己紹介するね。あたし、アリスティア。お姉ちゃんはあたしのこと、アリスって呼んでたよ」
「……テオだ。どうとでも好きに呼んでくれていい。お前に協力はするが、一つだけ注意して欲しいことがある」
テオは眼鏡をくいと持ち上げると、暗い鳶色の目だけで周囲をうかがいながら言った。
「あまり僕と一緒にいるところを誰かに見られないようにしてくれ。他の神官の前で名前も呼ぶなよ、僕も呼ばないから。人前では、あくまでも、今まで通り一介の神官と聖女としての距離感を貫いてくれ」
さっきからテオがずっと周囲を警戒してたのは、誰にもこの状態を見られないためだったのか。
まあ、なんとなく、どうしてそうなのかの予想はつくけど。
「お前は知らないかもしれないが、お前の世話役になりたいって神官が腐るほどいてな……だから今は持ち回りでやってるんだが、誰かがお前に気に入られたなんて話になったら、大変なことになるんだよ」
「あー……」
うん、やっぱりそういうことなのね。あたしの外見とか聖女って肩書きが好きな人たちが、あたしの「特別」の座を巡って争っていると。
計画のことがばれるといけないから、誰に対しても同じように距離を取ってきたけど……あたしの振るまい方としては、それで正解だったわけか。
悪いけど、あたしの特別はもうずっとお姉ちゃん以外ありえませんからね。どこで争っても勝手だけど、ぽっと出の人たちが入り込めるなんて思わないで欲しいわ。
「そういうわけだから、これからも距離感は保ってくれよ。……よろしくな、アリス」
「うん、よろしくね、テオ!」
「声がでかい、気をつけろと言っただろう」
抑えた声ですかさず飛んできた注意に、あたしはゴメンと小さな声で謝った。
もう次の礼拝の時間も近いから自室にいた方が良いだろうと、テオが茶器を引き取ってくれたから、素直に自室へ向かう。
本当は、踊り出したいくらいに嬉しい気分だったけど。
(お姉ちゃん! ねえ、ちゃんと、お姉ちゃんを見てくれてる人がいたよ! お姉ちゃんが頑張ってきたことを、わかってくれる人がいたよ! あたしだけじゃなく、お姉ちゃんのこと、素晴らしい聖女だって思ってくれてる人がいたよ! いたんだよ!)
あたしがお姉ちゃんのことを褒めても「アリスは優しいのね」なんて言われてばっかりだったけど、ほら見てよ! 第三者目線ってヤツでもやっぱりお姉ちゃんはすごいの! 頑張ってるの! わかる人にはわかるの! ね!
ああもう、今すぐお姉ちゃんと話したいのに! 遠くの人と話せるような魔法とかが使えたら良いのに!
そんなことを考えながら部屋の扉を開けて閉めて、あたしはふと思った。
「……手紙だ」
そうだよ。手紙を書けばいいんじゃない?
あたしはまだ当分お姉ちゃんのそばに行けないし、遠くの人と話せる魔法も使えないけど、手紙くらいならグレゴーリオさんに届けてもらえるかも!
そうと決まれば善は急げだ。お姉ちゃん宛なら本当は便せんや封筒にも凝りたいところだけど、今回ばかりは急な話だから仕方がない。
(えーと、便せん、便せん、どこにしまったんだっけかな……)
あたしはお姉ちゃんも使っていたという机の引き出しを片っ端から開けていく。
以前お姉ちゃんに手紙を書いていたときに使っていた便せんと封筒は、この部屋に住むことになった最初の日、この机の中にしまってからそのままなのだ。
だってあたしには、お姉ちゃん以外に手紙を出したい相手なんていなかったから。
「あれ? このへんに入れたと思ったんだけどな……ん?」
何の気なしに開けた二段目の引き出しが、ガツンと大きな音を立てた。
そんなに全力で引いたつもりはなかったんだけど、と思いながら引き出しの中をよくよく見て、あたしはふと違和感に気づく。
(なんか……浅い?)
浅い、って表現があってるのかどうかわからないけど、本当ならもっと引き出せるはずのそれが、何かに引っかかって出てこない、という感じだった。奥行きが足りない、っていうか……。
上下にある他の引き出しを開けてみるけど、やっぱり二段目だけが半端な長さだ。最初にお姉ちゃんの忘れ物がないか確かめたときは、少し開けて空なのを確認しただけだったから、こんなの全然気づかなかった。
不思議に思って何度か出し入れを繰り返しているうちに、パキンと音がして引き出しがさらに出てきた。
どこか壊しちゃったかなと一瞬焦ったけど、どうもそういうわけじゃなかったみたい。
「……え、なにこれ……」
一番奥だと思っていた板の先に、まだ空間がある。




