[第42記]ブローチとティズ
私が家に帰ると母さん、それと知らない男がいた。
「この人が『今日娘の誕生日なら祝ってあげて』っていうから…ケーキもあるのよ。お礼言いなさい」
「ありがとうございます…」
男は私に小さな箱を手渡してきた。テーブルに乗せて開けてみる。…すごく高そうなショートケーキ。
「それと今日から俺、君のお父さんになるんだ。急で申し訳ないけど、仲良くしてくれたら嬉しいな」
男が少しかがんで私の顔を見て言う。
母さんが疲れて眠ると、男と私は2人きりになった。
「俺、ヤコフっていうんだ。よろしくね」
私のベッドに座った男…ヤコフさんは、他愛のない話をいくつもしてきた。社交辞令のように質問をし合うと、彼は隣に座った私の足を舐めるように触ってきた。
「ザヤちゃんさ…発育良いよねぇ。ほんと痩せてるのが勿体ないくらいだよ。お母さんと違って胸も垂れてないし…あっごめん、失礼だったかな。セクハラだよね!あははは」
気持ち悪い男は何度見ても不快だ。
「お母さん寝てるしさ、ラブラブごっこしようよ」
そう言うとヤコフさんは私をベッドに押し倒し、ひとりよがりな行為を始めた。何度も愛の言葉を囁かれ、何度もなにもつけずに身体を使われた。私は抵抗せずに感情を閉じ込め、ただ時が過ぎるのを待った。
そこからもヤコフさんは母さんがいなくなった時を見計らって私と一方的な"戯れ合い"をした。お金をもらう為に朝と昼には知らない男に身体を売り、夜にはヤコフさんと身体を預ける…自分の肉体を酷使するような生活。股から出血する日も少なくなかった。
ある日私は街を歩いているとき、とある物に目が止まった。イルカのブローチだ…そういえば私は昔から海が好きだった…可愛い生き物がたくさん居て…見ていると全てがちっぽけに見えてしまうほどに広い。…それなりに値段は高いけど、キラキラしていてすごく綺麗だった。汚れている私でもこのブローチをつけたなら、少しはマシになれるだろうか。
「え?これしか稼げなかったの?そう…」
母さんは封筒の中身を見ると不機嫌そうにため息をついて、封筒をテーブルに放り投げた。お金を抜いて渡したのは、少し悪いことをしている気分になったけど…そうやってちょっとずつお金を貯め、ついにブローチを買えるほどの金額になった。私は小躍りしながら店に向かった。
「あら〜!似合ってますよ!可愛い!」
店員さんは両手を合わせて笑顔で褒めてくれた。男の人が私を使っているときに言ってくる嘘くさい"可愛い"とは違って、本心の褒め言葉な気がした。
私の胸でブローチが輝く。自然と笑みがこぼれる…通りすがりの子供が私のブローチを指差して言う。
「お姉ちゃんのイルカかわいいー!」
嬉しかった。こんなに汚い私までも綺麗にしてくれる。男も母さんもどこかで疑っていた私が初めて心から信じられるものが…このイルカのブローチだった。
バチンッ!!…痛い。
「なんでこんなものを買ったの!お兄ちゃんの大学のお金に私達の生活費…そんなブローチなんか買ってる暇ないのよ!!なんでわからないの…!」
頬が熱い。ヤコフさんは酒瓶を抱えて床に倒れ込んでいる…それも会社が倒産したとかでヤケになったらしい。彼の吐瀉物の中には、母さんが投げた私のイルカのブローチが転がっていた。
「ヒック…おぉい…ザヤぁ〜!今日も愛しあうぞ〜?ベッド行くぞぉー!来いぃー!」
酔っ払ったヤコフさんは起き上がっておぼつかない足取りで近づいてくると、私の腕を掴んで引っ張る。私はハッとして、怯えながら恐る恐る母さんの顔を伺った。母さんは激怒した表情で…また私を叩いた。
「なに…?アンタ、ヤコフさんとそうゆう関係なわけ…?誘惑したんでしょ!?ほんと気持ち悪い!!」
何度も叩かれて目の前が涙でぼやけてくる。
「たす…けて…」
小さくうずくまって震える。神様はいるかと聞かれたら、私はいると答える。しかしその神様が私を救った方法は、平和的なものではなく…呪いに近いものだった。
ガタガタ…ガチャガチャ…
家中の棚から何かが暴れているような音がする。母さんは私を叩くのをやめて周りを見渡した。
「なに…?地震…?」
ガシャン!ヒュンッ…ザクッ
「い…いやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあぁ!」
母さんの手にナイフが刺さる。私が目を開けると、自分を囲うようにフォークやナイフなどの道具が回り浮いていた。それだけではなく、声も聞こえてきた。
「…何がほしいの?」
「どうしたい?」
「どうしたい…って…あんた達は誰なん…?」
混乱する頭を落ち着けながら聞き返す。
「やだな。今目の前にいるじゃないか。ナイフだよ」
「ぼくはフォーク…で、どうしたいの?」
「この生活を…抜け出したい…」
私は道具達の声が聞こえるようになったらしい。痛みで叫び続ける母さんとヤコフさんに道具達が一斉に刺さる。
リビングは阿鼻叫喚の地獄絵図になり、ヤコフさんは私のブローチを涙と血でドロドロに汚しながら、必死で這いずり私に助けを求めた。
「ティズゥ…助けてくれぇ…俺のこと好きだろぉ…」
母さんは既に死んでいた。ここでこの人を助けられていたなら、まだやり直せただろう。しかし私は…
「…うちをその名前で呼ぶな。」
私は、初めて自分の意志でヤコフの喉元にナイフを突き立て、ゆっくりと立ち上がり下に視線を移す。
イルカのブローチはもはや輝かしさを失い、血と涙にまみれてどす黒い色に変わっていた。




