実夢
ナターシャは夢を見ていた。クレムリンを見渡せるモスクワ川の畔で夫と共に寛いでいる夢だった。
大事な記念日の今日は温かく、最高気温が20度を超えるとの予報が出ていた。それに、街は静かだった。独裁者の演説も軍事パレードもなく、Z旗を振る国民もいなかった。ロシアが解体された日、祝日から『対ドイツ戦勝記念日』はなくなり、代わりに『平和の日』が制定されたからだ。
先ほど夫と歩いた公園ではライラックとリンゴの花が見ごろを迎えていた。それは紫と白が織り成す花のページェントと呼べるものだった。更に、木々の下はまるで絨毯を敷き詰めたようにタンポポの黄色い花がびっしりと覆っていた。
穏やかな春だった。そして、穏やかな時の流れだった。かつて国民が一度も経験したことのない平和で自由な日々が続いていた。言論統制は過去のものとなり、国営放送はなくなった。プロパガンダという言葉は人々の記憶から消え去った。もう独裁者はいないのだ。二大政党が鎬を削る民主主義国家に生まれ変わったのだ。権力を恐れる必要がなくなった国民の心は解放され、酒で憂さを晴らす人はほとんどいなくなった。
経済を牛耳っていたオリガルヒは霧散し、富の偏在が消えた。新たな産業が生まれ、海外からの投資が増え、経済は活況を呈していた。平均賃金は上がり、国民の生活は豊かになった。移動が活発になり、観光地は人であふれ、店はどこも賑わっていた。世界各国の言語が飛び交い、知らない者同士がすぐに仲良くなった。しかめっ面をしている人は減り、笑みを湛える人が増えた。悪夢は過ぎ去ったのだ。
そんな大きな変化に思いを巡らせていると、突然、川面から吹く風が髪を揺らせた。その毛先が夫の頬を撫で、ライラックの甘い香りが辺りに漂った。たまらなくなったように夫がナターシャの肩を抱くと、ナターシャは頭を夫の肩に乗せた。すると、夫が髪を優しく撫でて、顔を髪に埋めた。ナターシャは再びこうして一緒にいられる幸せを噛みしめた。
しばらくして顔を上げた夫がナターシャのお腹に手を当てると、その上にナターシャが手を重ねた。2人の手の下には新たな命が宿っていた。
「元気に生まれてきてね」
ナターシャが優しく囁いた。
「パパだよ」
お腹に顔を近づけた倭生那がその子の名を呼んだ。
「ミール」
それは、ロシア語で『平和』を意味する言葉だった。
完




