覚悟(2)
「なんてこと!」
公園のベンチに座っていたマルーシャが悲痛な声を上げた。すぐ近くの集合住宅にミサイルが命中したのだ。炎に包まれた中層階部分が原形をとどめない姿を晒していた。
「マルーシャ!」
大きな声を発したナターシャは彼女の腕を引っ張った。マルーシャの自宅地下のシェルターへ逃げるためだ。
「急いで!」
振り返り振り返り炎の方へ顔を向けるマルーシャに強く促したが、彼女の足は遅々として進まなかった。
「早く!」
たまらなくなって背中を押すと、やっと我に返ったのか、足が進みだした。2人は駆け足でシェルターへ逃げ込んだ。
そこにはマルーシャの夫と娘が青ざめたような顔で座っていた。それは無理もないことだった。連日のように飛んでくるドローンに加えてミサイルが撃ち込まれたのだ。平静でいられるわけがなかった。それでも彼らはオデーサから逃げ出さない。とどまり続ける覚悟を決めているのだ。だから自分も逃げない。この人たちと共に戦っていく。そう決意を新たにしたが、マルーシャの態度は昨日までと一転して厳しいものに変わった。
「ナターシャ、あなたはモルドバへ帰りなさい」
「えっ、でも、」
「よく聞いて。状況がまったく変わってしまったの。ついこの前までヘルソンが主戦場になると思っていたけど、イラン製のドローンやミサイルがロシアに供与されてから全土が標的になってしまったの。これに北朝鮮のミサイルが加わったら更に酷いことになるかもしれない。そうなるとウクライナにはもう逃げ場がなくなることになる。どこにいてもやられてしまう可能性があるの。だからもっと酷くなる前に逃げて。モルドバへ帰って」
「でも、」
「わかってる。一緒に戦おうとしてくれているのはわかってる。その気持ちは嬉しい。だけどこれ以上危険な目には合わせたくないの。あなたを巻き添えにはしたくないの」
「でも、」
「いや、妻の言うとおりだ。君は本当によくやってくれた。ウクライナのために危険を顧みず身を粉にして尽くしてくれた。本当にありがたく思っている。だが、もう十分だ。これ以上ここに居てはいけない」
「でも、」
「お姉さん、そうして。そしてご主人のいる日本に帰って」
反論する隙を与えないかのように夫に続いて娘からも説得が続いた。それでも、ナターシャの気持ちは変わらなかった。だからすぐさま反論しようとしたが、マルーシャの声にまたも遮られた。しかしその声は一転して穏やかなものに変わっていた。
「私たちはあなたのことを大切な人だと思っているの。ウクライナのためにこんなにまでして尽くしてくれる外国人なんてめったにいない。だから同志と呼んでもいいくらいに思っているの。でも、いつまでもあなたの気持ちに甘えていてはいけないと思うの。もしかしたら全面戦争になるかもしれないこの異常事態にあなたをここにとどめておくわけにはいかないの。わかって、ナターシャ」
両肩を優しく掴まれた。その目には溢れんばかりの愛情が灯っているように見えた。
「ありがとうございます。こんなにまで心配していただいて胸が一杯です。でも聞いてください。わたしはこの地を離れようとは思っていません。あなたたちの許から去るつもりはないのです」
「いいえ、」
「聞いてください。お願いです、最後まで聞いてください。わたしはロシア人です。冷酷なプーチンと同じ血が流れているロシア人です。無差別な殺人を繰り返しているロシア軍と同じ血が流れているロシア人です。忌まわしい独裁者たちの歴史を背負っているロシア人です。そのことに忸怩たる思いでいます。慙愧に堪えないと言っても過言ではありません。できることならこの血を全血交換したいくらいです。でも、ロシア人であることを変えることはできません。残念ながら死ぬまでロシア人なのです。
…………死のうと思いました。この世から姿を消そうと思いました。それがウクライナの人々に詫びる唯一の道だと思ったからです。でも、それは逃げでしかないことに気づきました。忌まわしいロシア人であることに対して真正面から向き合っていないことに気がついたのです。行動しなければならないと思ったのです。だからトルコへ、そしてモルドバへ行き、この地にやってきました。死ぬ気になったらなんでもできると思ったからです。すると一人の女性に出会いました。祖国のために信念を持って行動しているマルーシャと出会ったのです。これは運命だと思いました。この人と共に活動することがわたしの使命だと感じたのです。だからボランティア仲間がモルドバに引き上げた時もこの地に残りました。それが当然だと思ったからです。その気持ちになんの疑いも持ちませんでした。わたしは運命に従います。使命を果たします。ロシア軍を追い出すまでこの地にとどまります。どうかお願いです。わたしをここに居させてください」




