気概(5)
「ウクライナの復興支援は社会的意義とビジネスチャンスの両方を兼ね備えています」
出社初日、休暇中にウクライナへ行った経緯を報告したあと、昨晩必死になって考えたプランを上司にぶつけた。ナターシャの気持ちはまだよく理解できていなかったが、ウクライナのために体を張って動いているのは間違いないし、戦争中の現地に行っているという厳然とした事実が背中を押していた。
「オデーサの港が封鎖されて穀物の輸出が止まっています。その結果、アフリカや中東の多くの国が食料危機に直面しようとしています。これを放置すると大変なことになります」
ナターシャが活動しているオデーサの港と街を思い浮かべながら説得を続けたが、上司から色よい返事は返ってこなかった。
「黒海を封鎖されている以上、我々には何もできない。それに、陸上で輸送しようとしてもウクライナと周辺国ではレールの幅が違うからスムーズにはいかない。積み替えという大変な労力を強いられることになる。そのコストを考えると商売にはならない」
事実だった。大手商社といえど一民間企業が携わるには壁が高すぎるのだ。それでも、ここで諦めるわけにはいかない。なんとしても口説き落とさなければならない。
「戦後復興を睨んだ時、今はコストが合わなくても先行投資しておけば必ずあとで回収ができます。他の企業の腰が引けている今こそチャンスと捉えるべきではないでしょうか。それに」
「もういい」
最後まで聞いてもらえなかった。
「商売においてリスクを軽視する考えは論外だ。先行投資といえば聞こえがいいが、戦時下という不確定要素がある以上、不良債権になる可能性は非常に高い。大事なのは投資回収モデルにおいて確率の高いリターンを得ることだ。君が言うような無謀なチャレンジではない」
バッサリと切り捨てられた。残念ながら二の句が継げなかった。反論できるだけの緻密な計画はまだ立案できていないのだ。そんな状態でこれ以上粘ったら次はないだろう。不甲斐ない自分が嫌になって落ち込んだが、「ご指摘いただき、ありがとうございました」と殊勝さを声に表して上司の元を辞した。
*
会社から帰った倭生那はベッドに横になり、スマホでウクライナに関するニュースを見ていた。戦況は一進一退のようで、膠着状態が続いていた。そんな中、気になるニュースがあった。『支援疲れ』というタイトルだった。西側諸国は武器の提供を続けているが、それでもウクライナ側は必要数の十分の一しか届いていないと不満を漏らしており、どこまで支援を続けなければならないのかという、うんざりしたような空気が漂い始めているのだという。
その上、ロシアに対する経済制裁が自国に跳ね返ってきて、あらゆるものの価格を押し上げていることが政府批判を助長していた。そのせいで、多少の妥協をしても戦争を終わらせた方がいいという意見が増えてきているようなのだ。
もちろんウクライナはその考えに反発している。「妥協するなんてとんでもない」「今までの犠牲を無にすることはできない」「自国の領土はすべて取り返さなければならない」と声高に訴えているのだ。
それは当然のように思えた。しかし、時の首脳たちによる勝手な幕引きが行われてきたヨーロッパの歴史を考えると、ロシアに宥和的な妥結を探る動きが大きくなる可能性は否定できなかった。
それに、ロシア国内の静けさが気になった。反プーチン、反戦争の動きがまったく認められないのだ。徹底したプロパガンダと取り締まりによって国民の不満が抑え込まれているのは理解しているが、それにしても静かすぎる。常に強い指導者を求める国民性があるとしても異常としか思えなかった。
誰も声を上げないのだろうか?
そう思いながらスクロールしていくと、気になる記事に行き当たった。ロシア人が投稿したメッセージがロシア国内で静かな反響を呼んでいるのだという。媒体はテレグラムで、言語はロシア語、投稿者は女性だという。ハンドルネームは『オデッサのロシア人』
見た瞬間、心臓が止まりそうになった。どうしてかわからないが、ナターシャを感じたのだ。それは直感でしかなかったが、外れているはずはないという思いに支配された。すぐにアクセスしてメッセージを読んだ。
すべてを読み終わった時、直観は確信に変わった。間違いなかった。ナターシャの言葉そのものだった。
読み返す度に涙が出てきた。気づいてあげられなかったことを悔いた。プーチンと同じロシア人であることの辛い思いを慮ってあげられなかった自分を責めた。ロシア人というだけで酷いことを言われていたのかもしれないし、意地悪をされていたのかもしれないと思うと、可哀そうで仕方なかった。なんにも言わなかったからわからなかったが、心の中が張り裂けそうになっていたのかもしれないのだ。
何やってたんだ、
たまらなくなって己を詰ったが、今となってはどうしようもなかった。悔やんでも時間を取り戻すことはできない。スマホを閉じて立ち上がり、机の引き出しを開けてメモを取り出した。『探さないでください』と書かれたメモだった。苦渋の中で書かれたであろうメモだった。今になってやっとわかったが、死を厭わない強い意志が込められたメモだった。覚悟を決めてこの家を出て行ったのは間違いなかった。
どれほど辛かったか……、
目を瞑ると、鍵を閉めて背中を向けた彼女の姿が浮かんできた。
その右手には一枚の切符が握られていた。
日本発プーチン行き。
片道切符だった。
ナターシャ……、
呟きが涙に濡れて床に落ちた。しかし、その中に妻の顔はなかった。




