追跡(3)
「私が運転していきます」
ミハイルだった。既に車を手配しているという。
「でも、」
その提案に乗りたいのはやまやまだったが、彼を巻き添えにするわけにはいかなかった。一時は仲間が増えることに心強さを感じたが、よくよく考えてみればミハイルが言っていることがどうにも腑に落ちなかった。妻を探しに行くという明確な目的がある自分と違って彼にはそれがないのだ。祖先の恨みを果たすためにウクライナ人を助けるとは言っているが、それが本音だとはどうしても思えなかった。憐憫の情という気がして仕方がなかった。
それに、オデーサへ向かう道にはどんな危険が待ち構えているかわからない。空爆が最も怖かったが、戦車が待ち伏せしているかもしれないし、地雷が埋められているかもしれない。何があるかわからないのだ。しかし、何度断っても彼は強固に出発すると言い張った。
「待っていても危険が増すばかりです。行くなら早い方がいい」
確信を持った言い方だった。なんらかの情報を得ているのだろうか? ロシア軍の総攻撃が近いという噂を聞いたことがあるが、それが現実になろうとしているのかもしれなかった。
「土地勘はあるのですか?」
即座に彼は首を振った。頼れるのはナビだけだと言って何故か口角を上げた。しかし、すぐに厳しい表情になった。
「今を逃せば奥さんに会えるチャンスは二度とやってこないかもしれないですよ」
それは最も心配していることだった。見つけられないだけならいいが、永遠の別れになる可能性があるのだ。それでも、これだけは確認しておかなければならない。
「私と一緒に死んでもいいのですか?」
すると即座に首を振って、強い口調で返してきた。
「死ぬ気はない。奥さんをモルドバに連れ帰る」
ウクライナ人のために体を張っている妻を助けるのが自分の使命だと言い切った。
「でも、ロシア人ですよ」
「それは違います。奥さんはプーチンと同じロシア人ではありません。優しい心を持った人間です」
それを聞いてグッと来た。彼の本音がどこにあるのかはわからないが、妻に対する気持ちは嘘ではないように思えた。それに、ここまで言ってくれるのだから、これ以上彼の好意を無にすることは失礼なような気がしてきた。それでも安易な言葉を口にするのは憚られた。彼の手を握るだけにしたが、強く握り返されると不意に琴線が触れ合ったような気がした。すると、同志という言葉が頭に浮かんできた。
*
ボランティア団体のリーダーから強硬に止められた倭生那とミハイルだったが、彼らの目を盗んで深夜にモルドバを出発した。
「夜が明ける前に着かなければなりません」
ミハイルはアクセルを踏み込み続けていた。明るくなると肉眼で発見されやすく、危険だからだ。
「どこに潜んでいるかもわからないですからね」
そう言われると、闇の中からいきなり砲火を浴びせられるような気がして生きた心地がしなくなった。
「まあ、心配したところでどうなるものでもありませんが」
運を信じるしかないと言って、更にアクセルを踏み込んだ。
「そんなに飛ばして大丈夫ですか?」
闇を切り裂くようなスピードに思わずシートベルトを握り締めた。
「この時間に走っている車はいませんから心配は無用です」
夜の運転に慣れているのか、まったく気にしていないようだった。
「ところで、」
話題を変えようとしたが思いとどまった。運転から気を逸らすのが得策だとは思わなかったからだ。
「なんです?」
「いえ、なんでもありません」
それっきり沈黙を闇が包み込んだ。




