追跡(1)
「申し訳ありません」
モルドバでナターシャの動きを監視していた若い探偵が青ざめた声を出した。ちょっと目を離した隙にオデーサへ出発していたのだという。
「なんで追いかけなかったんだ」
ミハイルが強い口調で詰め寄ると、「いや、ウクライナにはちょっと……」とこれ以上は自分の仕事ではないというように首を振った。
「情けない」
同僚を一瞥したミハイルが顔を向けて済まなさそうな目で見つめたが、謝られても仕方がなかった。そんなことより、これからどうするかなのだ。
「オデーサに行ったというのは間違いないのですね」
若い探偵は無言で頷いてから、ミハイルを上目遣いで見た。職を失う危険を感じ取ったのかもしれなかった。
「で、オデーサのどこへ行ったのですか?」
「病院だと思います」
主に薬や医療品を運ぶトラックに同乗したので間違いないという。
「それは定期的に運んでいるのですか?」
頷いたが、声は発しなかった。
「次の便はいつ出発するかわかりますか?」
「いえ、そこまでは……」
「なんでそんなことくらいわからないんだ」
ミハイルが胸ぐらを掴むような声を発すると、「いや、はい、その、すみません」と消え入るような声になった。しかし、ミハイルは許さなかった。「早く調べろ!」とケツに蹴りを入れるような声を発したのだ。
「わかりました」
怯えた表情になった若い探偵は慌てて走り出した。
*
車の中で仮眠を取っていた倭生那に情報がもたらされたのは1時間ほどあとのことだった。次の出発は2日後だという。但し、戦況によっては延期されることもあると付け加えられた。
「どうしますか?」
ミハイルが二つの心配を口にした。一つは帰国便の期日が迫っていること。もう一つはお金のことだった。追加料金を含めてかなりの金額になっているのは間違いなかった。更に、ウクライナまで追いかけていくとなると、かなりの割増料金が必要だという。
「いくらかかっても構いません」
マンションを売ってでも妻を探し出すつもりだった。
「わかりました」
ミハイルは運転手に視線を移し、トルコ語で何かを言った。ウクライナ行きを交渉しているような感じだった。しかし、運転手はすぐに首を振った。それは、モルドバより先にはいかないという意思表示のように思えた。
「戦地には行かないと言っています」
ミハイルが残念そうに首を振った。
「わかりました。大丈夫です。妻が同乗したトラックに私も乗せてもらいますから」
心はもう決まっていた。妻の行き先を知っている運転手に連れて行ってもらうのが最適解なのは明白だった。
「そうですか……」
ミハイルが思案するような表情になった。彼にとっての最適解を探しているようだったが、突然車から降りてスマホを耳に当てた。トルコ語なので内容はまったくわからなかったが、なにやら交渉しているような雰囲気だった。
5分ほどして車の中に戻ってきた。
「ビジネスの話です」
そう切り出したミハイルは料金精算を求めてきた。戦地へ行って万が一命を落とすことになったら費用を回収できないからだという。
もっともだった。倭生那は素直に頷いて、小切手を切った。その額は予定していた金額の倍近くになっていたが、値切るわけにはいかなかった。既にモルドバまで足を延ばしているのだ。請求が高額になるのは仕方のないことだった。領収書を受け取った倭生那は別れを告げた。しかし、ミハイルは首を振った。倭生那が出発するまでここに残るという。
「でも」
「ご心配なく。追加の請求はしませんから」
「えっ?」
言っている意味がわからなかった。まさかタダ働きをするとでもいうのだろうか?
「明日から休暇を取ります」
「えっ?」
「仕事とは無関係だということです」
「それって……」
「勘違いしないでください。決してボランティアではありません」
自分自身のための行動なのだという。
「クリミアは昔トルコ領だったことをご存知ですか?」
「いえ」
初耳だった。旧ソ連領であり、崩壊後はウクライナの領土になり、現在ロシアが不法占拠をしていることは知っていたが。
「正確に言うと、オスマン帝国領であり、その属国のクリミア・ハン国が治めていたのですが、どちらにしてもタタール人の血が流れている国だったのです」
タタール人とはトルコ人の子孫がブルガリア人やフィン人、カフカス人などと混血したもので、今では旧ソ連領内のトルコ系住民の総称となっているのだという。
「私の祖先はタタール人で、ルーツはクリミアにあるのです」
そこには親戚が多く住んでいたが、ロシアのクリミア併合による争いの中で命を落としたり、怪我をしたり、避難を余儀なくされたりした者が少なくなかったのだという。
「平和に暮らしていた者が一瞬にして地獄に落とされたのです。なんの罪もない人たちが祖国を追い出されたのです。こんな酷いことってあるでしょうか」
決してロシアを許さないと語気を強めた。
「私は私のためにここに残ります。そして、あなたと共にオデーサに行きます。クリミアを奪われた悲しみを共有する同志を助けなければいけないからです。一人でも多くのウクライナ人を助けなければいけないからです」
きっぱりと言い切ったミハイルの顔には覚悟の二文字が浮かんでいるように見えたが、どこまで信用していいのかわからなかった。それでも、「わかりました」と言って、ミハイルの手を握った。本音はどうであれ、仲間がいるのは心強かったからだ。




