嘘
「トルコにはもういません」
いきなりショッキングな言葉に突き刺された。2日前にロシアに向かったのだという。
「実家に帰ったのですか?」
彼女は首を横に振ったが、声は出てこなかった。
「では、どこへ?」
また首を振ったが、今度は微かに声が漏れた。
「プーチン」
「えっ?」
その意味がわからなかった。プーチンに会えるはずなどないからだ。
「どういうことですか」
詰め寄ると、渋々という感じで理由を口にした。
「戦勝記念日にプーチンが何を言うのか、どれほどの規模のパレードが行われるのか、集まった国民の反応はどうなのか、そんなことを自分の目で確認しに行くと言っていました」
それを聞いて嫌な予感がした。プーチンを極端に嫌っている妻が笑みを浮かべてZ旗を振るわけがないからだ。
「他に何か言っていませんでしたか?」
彼女はまた首を振った。しかし、声は続かなかった。一気に嫌な予感が膨らんだ。
「まさか、変なことを考えているのではないでしょうね」
大きく首を振って欲しかったが、彼女は身動き一つしなかった。
「なんで否定してくれないのですか」
身を乗り出して詰め寄ったが、「わからない」と言って彼女は視線を下に向けた。
その時、ミハイルが会話に割り込んできた。トルコ語なので内容はわからなかったが、何かを促しているような口調だった。倭生那はミハイルの顔を見つめたが、彼は目を合わすことなく上着のポケットから何やら取り出した。メモ帳のようだった。それとボールペンを彼女に渡すと、彼女は何やら記入してミハイルに戻した。
「奥さんの携帯番号です」
差し出されたメモには彼女が買い与えた新しいスマホの番号が記されていた。トルコに来てからはこれを使っているらしい。すかさずその番号を打ち込んで発信した。すると呼び出し音が鳴った。でも、すぐに切れた。もう一度かけたが、今度は繋がらなかった。画面には着信拒否が表示されていた。断固として通話を拒否する姿勢のようだ。
それでもガッカリしなかった。少なくとも自分が妻を探していることが伝わったはずだからだ。でも、それで満足するわけにはいかなかった。
「ロシア行きの便をすぐに手配したいので手を貸してください」
しかし、ミハイルは強く首を振った。
「非友好国の国民は入国を厳しく制限されていますので難しいと思います。それに、商社勤務=スパイと見られかねませんので拘束される危険があります」
G7と協調して経済制裁を強める日本への風当たりは強く、今は行かない方が賢明だと諭された。
「でも、」
言いかけた倭生那をミハイルの右手が遮った。
「行ったところで奥さんに会えるわけではありません。そんなことをするよりも彼女に力を貸していただく方が賢明だと思います」
アイラに視線を向けたミハイルがなにやら話し始めた。彼女は瞬きもせず聞いていたが、少しして彼女が二言三言話して頷いたので、なんらかの合意がなされたような感じだった。
「奥さんの説得に協力してくれることになりました」
トルコに戻ってくるように強く呼びかけてくれるらしい。それはありがたい話だったが、彼女の言うことを額面通りに受け取ることはできなかった。つるんでいる可能性があるからだ。しかし、この場でそれを追求しても本音は明かさないだろう。それに、そんなことくらいはミハイルもわかっているはずだ。わかった上で依頼したのだと思うと、今は素直に従う方が得策のような気がした。
「よろしくお願いします」
手を差し出すと、彼女は倭生那の手を握る代わりに頷きを返した。ミハイルに顔を向けると、それでいいというように目配せされた。
*
「妻は本当にロシアへ行ったのでしょうか」
彼女を家に送り届けたあと、ホテルの部屋で倭生那はミハイルと向き合った。
「わかりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
ミニバーから取り出したウイスキーの小瓶を開けながらミハイルが首を揺らした。
「それに、彼女が私たちに協力してくれるとはとても思わないのですが」
ミハイルから返事はなかった。グラスにウイスキーを注いで口に運んだだけだった。その琥珀色の液体を見ていると、無性に飲みたくなった。あの日以来禁酒をしているので体が欲していた。でも、飲み始めたら止まらないことはわかり切っていた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してゴクゴクと飲んだ。
「泳がせておけばいいんです」
なんでもないというような言い方だった。
「そのうちボロが出ます」
明日から別の探偵を張り付けるという。
「この面は割れていますからね」
残りのウイスキーをぐっと煽って、グラスをテーブルに置いた。そして、「では」と言い残して部屋から出て行った。
*
翌日の昼、ミハイルから電話があった。ロシアへは行っていないかもしれないという。予想した通り、彼女の発言は嘘だったようだ。
「では、まだイスタンブールに」
「いえ」
最後まで言わないうちに遮られた。
「トルコから出た可能性があります」
「えっ、どこへですか?」
「わかりません。今それを調べているところです」
盗聴アプリによって会話をチェックしているのだという。
「盗聴って、どうやって」
「それはお答えできませんが、あの日、電話番号を交換した時に潜ませました」
ミハイルがスマホをアイラのに重ねるようにしていたことが頭に蘇った。
「あの時ですか?」
「そうです。あの時です」
「へぇ~」
そうとしか反応できなかった。
「それで私は」
「まだじっとしていてください。一両日中にはなんらかの情報をお渡しできると思いますので」
そこで通話が切れた。倭生那はスマホ画面を見続けるしかなかった。




