言語の壁、文化の溝
ヴィルヘルムが居間で考えを巡らせていると、エレオノーレが脱力した様子で入ってきた。
「はぁー疲れたー」
エレオノーレは背中を丸めて歩きながら、まるで力が抜けたようにテーブルに突っ伏し、椅子に腰を落ち着けた。
ヴィルヘルムはまだセレナの変貌について考えていた。数秒後、ようやくエレオノーレに声をかける。
「二匹ともとんでもねぇ集中力だな、そこで休んどけ。食うだろ?」
ヴィルヘルムは残しておいたエレオノーレの食事とライ麦パンが載ったトレーをテーブルに置き、彼女の前に並べ始めた。
エレオノーレは言葉に反応するように顔を上げ、疲れた表情を見せながらスパークリングウォーターを一気に飲み干す。
「ふー。生き返った」
そのままグラスをテーブルに戻し、冷えたローストポークをナイフとフォークで慎重に切り分け、さっそく味わった。
「で、トーゲルはどうなった?」
ヴィルヘルムが続けて声をかけると、エレオノーレは『ちょっと待って』と手で合図し、ローストポークを飲み込んだ。
「うん、肉はバウアーに頼んでおいた。さっきの鹿肉出すって」
ヴィルヘルムは少し頷きながら、スパークリングウォーターの瓶を手に取り、二杯目を空いたカップに注ぐ。
「そうか、で、言葉の方は?」
エレオノーレは少し乱暴にタルトを口に運びながら答えた。この際マナーは二の次のようだ。
「それが信じられないの。もうかなり理解して話せる。間違いも恐れないからどんどん上達して、文字もマスターしたから、最後の方は私がページをめくるだけになってた。」
ヴィルヘルムは軽く驚くも、やや呆れた。
「すげぇな。俺が低地オルク語どんだけ苦しんだと思ってんだ。隣の席の子供に聞いてたんだぞ」
「そういう、面子にこだわらない魔種族が伸びるの。あなたは立派よ」
エレオノーレは小さくちぎったパンを口に放り込み、目の前のスパークリングウォーターを手に取った。
ヴィルヘルムは再び真剣な表情で質問を続けた。
「じゃあもう低地オルク語で会話できるのか」
「そうねぇ。もう足がかりはできたんじゃないかな。あとは日常会話で上達すると思う。間違えても笑っちゃダメよ。優しく教えてあげて」
「それでどうだ。いつまでもアウラを部屋に閉じ込めてくわけにはいかねぇぞ。アイツの性格なんかわかったか?」
エレオノーレは少し口をゆっくりと動かしながら、考え込んだ。鴨肉をフォークで突き刺しながら、しばらく沈黙が続く。
都市でもようやく流行りだしたフォークだが、彼女は当たり前のように使いこなしていた。
「それがねー。何か違うっていうか、素直過ぎるっていうか」
彼女は考えをまとめ始めた。
「バカ正直なのね。古典アールブ語話者って小難しい言い回しとか暗喩とか比喩とか、韻を踏むのが雅とされているんだけど、そういう表現一切しないの。」
エレオノーレはローストポークを切りながら、あきれたように眉をひそめた。
「まだ語彙が足りないんだろ。俺も言葉に詰まって何度アールブ語が出かかったか」
「最初は私もそう思ったんだけど、二言語の単語や熟語の対応はほとんどできてるのよ。なのに率直過ぎるというか」
「どんな風に?」
エレオノーレは考え込んだようにローストポークを口に運び、ゆっくりと噛んで飲み込んでから続けた。
「腹が減ったとか、食べ物が入って・・・違う、そういうんじゃなくて・・・」
エレオノーレは食べる手を止め、少し困ったように言葉を探していたが、糸口を掴んだようだった。
「たぶんだけど、社交辞令の意味がわかっていない」
「こんにちは、とか?」
「おはよう、さようなら、ありがとう、どういたしまして。そういう言葉は覚えてるの。でも本質的にわかっていないんじゃないかな」
「白エルフから『ありがとう』なんて言われたことないぜ。古典アールブ語にない単語じゃないのか?」
ヴィルヘルムは皮肉を言ったが、あながち冗談でもなかった。
「あるから驚いてるのよ。感謝の言葉の種類なんて細分化したら二四種類もあるのよ。時代によっては詩の内容の三割が、謝辞に分類できたという研究もあったわ」
「へぇ今度・・・いやなんでもない。ともかく、知ってるのに使わないってことか。誇り高いから感謝しなかったとか」
ヴィルヘルムは言い淀んだ。彼女の古典アールブ語に対するトラウマは相当なものだと理解していた。だが彼女は言語理論に関しては触れられる様子に安堵していた。
『誇り高いから使わない』自分でも浅はかな推論だが、とりあえず試してみるのがヴィルヘルムのスタイルだ。彼は闇も進めば明るくなると信じている。
エレオノーレはただ肉を噛み締めながら、しばらくの間言葉を選んでいた。
「ヴィル、言語隔離どころじゃない。文化隔離のせいで常識がかなり違うみたいよ。覚悟しといて」
エレオノーレはヴィルヘルムに言い聞かせる。
「なぁに、『言葉は藪を祓う』って言うだろ。二匹で肉食いながら話し合うさ。なんつってもトーゲルの衣食住は商会持ちだ。いや服は自前か」
ヴィルヘルムが小さく笑いながら言うと、エレオノーレはパンをちぎる手を止め、驚いた顔を見せた。
「なんですって?」
エレオノーレは珍しく咀嚼中に口を開き、慌てて手で塞いだ。その動作にヴィルヘルムは少しだけ笑いを浮かべた。
「セレナの馬車、もう出たか。アイツ、最初は『汚い大鷲族』呼ばわりしてたのに、急に態度変えてさ。『トーゲルと仲良くしてあげて。お金は商会持ちよ』だってよ。」
おどけるヴィルヘルムを他所に、エレオノーレはスパークリングウォーターで飲み下し、呆然とした表情で再び言った。
「うそ、信じられない」
「俺も信じられない。でも本当なんだ。気にしなくていいってさ」
「何を企んでるの?」
ヴィルヘルムは少しだけ重い表情をする。
「まだ答えは出ない。だがこれでトーゲルは自立できる。とりあえず、乗っかるしかないんだよ。申し出断ったらまた最初に逆戻りだ」
本来は好機であるはずのトーゲルの未来、ヴィルヘルムは青空であるはずの先に、厚い雲の気配を感じていた。
やがて夕暮れの宴になっても、その気配はヴィルヘルムの心に残り続けていた。