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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
序章 特別な一日
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反転の刃

ヴィルヘルムは、大鷲族トーゲルの適応を支援するため、エレオノーレに低地オルク語の教育を任せ、事務方に仮戸籍の一時申請や支援を指示。仮住まいの建設や村からの労働力調達も手配し、歓迎の準備を進める。トーゲルは驚異的な速度で言語を習得し、職員たちの関心を集めた。


その間、広場では歓迎会の準備が進み、職員たちはトーゲルの経歴や能力に驚きながらも新たな仲間として受け入れる姿勢を見せる。だが、その空気を一変させるように、突然ファーレンス商会の監督セレナ・シュタルクが到着。彼女の抜き打ち訪問が、ラピア農試に緊張をもたらす。

 セレナが馬車を降りる少し前、畑で作物の観察をしていたヴィルヘルムは、すでに聞き慣れた馬車の音に気づいており、鎌を部下に預けて広場へと歩いていた。


 コボルト族ドーベルマン種、セレナ・シュタルクは、メルトメア州に散在する商会の主要施設を横断的に監督する立場にある。商会全体の利益を最大化するために、収益性の高い戦略を実行し、現場の運営を効率的に指揮するとともに、商会本部と現場をつなげる重要な役割を果たしている。彼女の仕事ぶりは効率的で冷徹、部下からの評価は尊敬か嫌悪のどちら側かしかない。嫌悪側からは「刃の計算尺」と揶揄されている。


「よりによって今日かよ。忙しい日だ。」


 そうつぶやきながら、ヴィルヘルムはトーゲルを守る方法を考えていた。

 試験場には多額の費用がかかっており、難民の受け入れは常識に反する型破りな決定だ。そこで、商会への説明と許可申請の手紙を用意させていた。しかし、この手紙はあくまで商会本店宛てのものであり、うまくいけばファーレンス会長の手に渡ることを望んでいた。

「直接、担当監督のセレナに渡せば、非常識だとか不合理だとか言って拒否されるだろう」と予想していたヴィルヘルムは、本店に直接陳情し、情に訴えて先に許可を得ようと考えていた。もし「私を無視して本店に頼むなんて」と言われても、許可さえ取れれば後は押し通せると思っていた。しかし、先にセレナに見つかり不許可になれば、本店に頼み込んでも監督の決定が優先され、不許可のままで終わることは十分に理解していた。


 広場に到着すると、宴の準備をしていた職員たちが整列していた。

「これはシュタルク監督、ご無沙汰しております。突然のご訪問とは恐れ入ります。ご足労いただき感謝いたします。我々職員一同、心より歓迎申し上げます。」

 セレナは冷たい目でヴィルヘルムを睨んだ。

「運営長、同じ挨拶しかできないの?」


 セレナ・シュタルクは、紺青のタイトジャケットに白い絹のブラウスを合わせ、金色のイヤリングと絹のスカーフを身に着けている。黒いローヒールの革靴を履き、実務的な灰色のウール外套を羽織った彼女の服装は、格式を守りつつ過度に華美な装飾を避け、商会監督としての冷徹かつ効率的なイメージを強調していた。


 ヴィルヘルムは少し眉を上げ、皮肉っぽく微笑みながら答える。

「変わらずお美しいシュタルク様には、変わらぬ最上のご挨拶でお迎えいたしております。」


 セレナは不快そうに視線を外すと、言葉を続けた。

「でも、今日はいつもと同じではなさそうね。突然来ている理由、わかってもらえたかしら?」


「ここじゃなんだ。応接室行こうか。」

 ヴィルヘルムはセレナに負けじと表情を固くし、すぐに話を切り替えた。

「誰か、茶を頼む。あと事務方に頼んだ二通の手紙、持ってこさせてくれ。それと、そこの二人をもてなしてやってくれ。」


「もてなしは結構。」

 セレナは手をひらひらと振りながら言う。


「二人には仕事がある。グラウンドバッハ、ストライフ、大丈夫ね?」

「はい、監督。」

 二人は即座に応じると、予定されていた見回りにそれぞれ分かれた。ヴィルヘルムはそれを見届け、セレナと共に歩き出す。


 広場で準備していた職員たちは、互いに顔を見合わせ、どうするべきか迷っていた。


「大丈夫、俺に任せてくれ。作業は続けてくれ。さぁ、行った!」


 職員たちは、この宴が突発的に催され、商会の許可を得ていないことを重々承知していた。「まさかこんな田舎に見に来ないだろう」との緩みと、普段の仕事への自負があったからこそ、このささやかな悪巧みが通じると思っていた。しかし、その結果、抜き打ち査察で明るみになり、困惑していた。

 ヴィルヘルムはそれを押し通し、職員たちを叱咤しながら、管理棟兼住居へと歩き出した。セレナもそれについて行く。

「エレネ、いつものヤツだ。大丈夫だから、そのままトーゲル頼む。」

 食事も取らずに教え続けていたエレオノーレと、初めて見る馬車に驚いたトーゲルは、ヴィルヘルムとセレナが近づくのを見ていた。

 セレナは異質なものを見つめ、ヴィルヘルムに問いかける。

「あの汚い大鷲族は?」


「全部説明する。とりあえず、中へ。」

 そう言うと、二人は管理棟に入って行った。



「アウラ悪いが、続きは自分の部屋で頼む。」



 アウローラは接客を兼ねる居間で勉強していた。オルクセン王国で近年義務教育制度が始まったものの、学校は都市部しかなく、都市から離れた小さな村には存在しない。義務教育が必要な家庭においては国から教材が送られ、自主学習を行うのがほとんどだった。アウローラもその一人だが、幸いなことに、夜は夫婦二人の教師がついているため、困ることはなかった。ちなみにアウローラ本人は幸いとは思っていない。



「さて、かけてくれ。」


 ヴィルヘルムはそう言いながら座ると、セレナも慣れた所作で対面に座った。


 ヴィルヘルムは、上流階級に位置し、高い教育を受け、要職にも就いている。しかし、階級的な振る舞いを嫌い、他人に対して粗雑に接することが多い。特に、敬意を払わない相手には、それを露骨に示すこともあった。一方で、セレナも高い地位にあり、そのことに誇りを持っていたが、ヴィルヘルムとの考え方の違いが何度もぶつかり合い、お互いにそれを確認し合うばかりだった。そのため、今さらセレナが文句を言うことはなかった。


「さて、今日はいつもと違うお話を聞けそう。楽しみだわ。今回も納得してあげられるといいんだけど。」


 嫌味を言うセレナを無視して、ヴィルヘルムは経緯を語り始めた。難民であるトーゲルが珍しい古典アールブ語の母語話者であること、彼が怪我をしてしばらく動けないこと、ラピア農試がトーゲルにボス鹿退治の借りがあること、職員の娯楽が少ない環境で刺激を求めていること、そして職員の中に元難民が多く、同情心が強いこと――それらを筋道を立てて冷静に話した。


 一度もうなずかず、相槌も打たずに、黙って聞いていたセレナが口を開いた。

「色々と気になるところがあるけど…宴のお金はどうしたの?あと建材。いくら運営長でも商会の許可を取らずに私的に流用するのは背任行為よ。」

 ヴィルヘルムは冷静に答えた。

「そろそろ持ってくるが…たぶんこれだ。」


 ドアのノックが響くと、事務員がティーセットを持って入ってきた。ティーポットからは紅茶の香りが漂い、磁器のティーカップには細やかな金箔の装飾が施されている。

 事務員は二通の封がされていない手紙をヴィルヘルムに手渡すと、ティーセットをテーブルに慎重に配置した。


「こっちだな、見てくれ。出す予定だった手紙だ。」


 ヴィルヘルムは手早く手紙の一通を選び、セレナに手渡す。セレナは紅茶が注がれる様子に目を向けることもなく、即座に手紙を開いて内容を読み始めた。


 事務員はポットから湯気の立つ紅茶をゆっくりとカップに注ぎ、カップソーサーを軽く整えると、一礼して静かに部屋を後にした。


「読んだ通りだ。報告と、費用の伺い。宴は私的なものだが、福利厚生と言えなくもない。定期的に商会の金でやってんだからな。今回はボス鹿を始末できたし、可哀想な難民も助ける目処がついた。元難民の仲間たちも嬉しくて盛り上がってる。いつも仕事頑張ってるから、たまにはお祝いしても母なる豊穣だって許してくれる。結果出してんだろ?旨い肉たらふく食って、明日からまた頑張れるってもんだ。」


 セレナは手紙を置いて、冷静に返答する。

「それはあなたの理屈よね。この手紙が商会に届いたとして、許可が出なかったらどうするつもりなの?」


 ヴィルヘルムもひるまない。

「まず金の許可だが、出ないなら俺の自腹だ。実際、俺の金で買いに行かせてる。建材だって試験場に支払うさ。眠っていた材料だから、補充すれば誰も困らない。難民のほうだが、あんたの手であの疲れて飛べない『汚い大鷲族』とやらをおっぽり出すのか?さぞ会長は喜ぶだろうな。どれだけ褒められたか、後で教えてくれ。それとも俺が直接会長に聞いたほうが良いか?」


 セレナは崇拝するイザベラ・ファーレンスを利用されたと感じ、ヴィルヘルムを睨んだ。

「『オルクセン国民は難民を救助し次第、速やかかつ安全に当局へ引き継ぐことを義務とする』。布告、知ってるわよね?」


「知ってるから安全になるまで保護しようってんだ。もう一通、読んでくれ。」

 そう言って、セレナに移民管理局宛の手紙を差し出すと、セレナは手紙を乱暴に受け取り、読み始めた。


「移民局へ、経緯の報告と申し出だ。自力で飛べないほど健康に問題があるので、安全になるまで保護しますってな。魔種族同士、仲良くやろうぜ。」

 ヴィルヘルムは整然と、最後は挑発的に言い放った。


「勝手に職員を休ませてるわね。今日は仕事の日よ」

「それこそ農業運営長たる俺の裁量だ。もちろん葉っぱ一枚枯らさせないし、みんな明日から喜んで残業するさ。畑は俺の速さ知ってるだろ?休日使えばあっという間だ。ま、今までも休んだことはないけどな。残業代はいい、礼も結構だ。」

 ヴィルヘルムはそう言うとお茶に口をつけた。


 セレナは手紙をヴィルヘルムに差し出すと、彼は紅茶を飲みながら受け取ってポケットにねじ込んだ。


 彼女は一度深く息を吸い、話した。

「まぁ、これまでの筋は一応通っているみたいね・・・。でも、最初の手紙、私宛じゃないのはなぜ?」

 セレナは隙を見つけた好機と睨み、ヴィルヘルムを見つめた。


 ヴィルヘルムは考えを巡らせながらゆっくりカップを置いた。

「・・・話が早いと思っただけさ。会長は元難民だ。理解してくださる。オルクセン生まれにはわからんだろうが、同じシルヴァン川の水を飲んだ仲間だ。強い絆があるんだよ。」

 ヴィルヘルムは自分の理屈の苦しさを自覚し、背もたれに寄りかかって虚勢を張った。


 セレナはその無理な論理を見逃さなかった。が、しかし、何かを感じ取って深く考え始める。

 ヴィルヘルムはこの展開を予測していた。しかし、セレナは自分の直属の監督だ。手順を踏まなかった行為自体が自分の過ちであり、正当化など最初からできなかった。そもそも、最初から正当性などなかったのだ。

 セレナの次の一手から本番になる。もし謝罪を要求されれば、ヴィルヘルムは謝罪することで事態は収束させるだろう。しかし、もしセレナが面子を理由に保護を拒絶すれば、ヴィルヘルムには手立てがなくなる。「苦しい言い訳をせず、最初から謝罪して事態を収拾すべきだったか・・・」と、ヴィルヘルムは今さら後悔の念に駆られる。しかし、セレナはこれまで願望や妥協を受け入れたことがなく、論理と取引でしか物事を進めてこなかった。


 セレナは熟慮の末、決断を下した。


「・・・そうかもね」


「えっ?」

 ヴィルヘルムは予想の真逆の答えに驚き、つい口に出てしまった。


「姑息な真似をして私の頭を越えたのは許せない。でも、そこまでしてあなたが身を挺して難民を守る優しい気持ち、痛いほどわかるわ。商会の誇りよ。よくやったわね」


「ど、どういたしまして・・・」

 ヴィルヘルムは体を縮め、すっかり小さくなった。


「私の裁量で予算はつけるから、宴も含めて費用は全て試験場持ちにしなさい。自分のお金を出すことはないわ。」


「・・・」


 彼は予想外な展開に声も出なかった。セレナは無視して話を進める。

「それと、今後の食事も試験場から・・・生肉だったわね。畜産部で潰せる家畜はいるでしょ?そこから賄って、足りなければ好きなだけ買いなさい」


「お、おう・・・」

 ヴィルヘルムはセレナの急な変化に困惑した。


「でも、飛べるようになったら早く移民管理局に行かせてね。住まいは仮宿舎じゃなくて、ここでいいから、彼にそう申請させて。あなたが身元引受け人でいいわね?」


 思わぬ展開に、考える暇もなく食いついてしまった。ヴィルヘルムにとっても理想的な決着、いや、理想以上だった。

「そりゃあもう、恩に着るぜ。でも、なんでだ?」


「何が?」


 セレナはすまし顔で返事をし、まるでヴィルヘルムの意に介していないかのようだった。


「なぜ急にあんたが、商会がアイツを保護して、住まわせるんだ?俺はてっきり…」


「おっぽり出す?私のこと、わかってないのね。会長を尊敬している私が、そんな残酷なことできるわけないでしょう。会長の悲しむ顔を見たくないの。それに、崇高な国民の義務よ」

 ヴィルヘルムは、セレナの行動が自分の予想とは全く合致しないことに戸惑いを覚えた。しかし、彼にとって望んでいた以上の展開を断る理由などどこにもなかった。


「そ、そうか。良かった。わかってもらえて嬉しいよ・・・」


 ヴィルヘルムはセレナの心変わりに納得できずにいたが、言い聞かせるように自分を納得させた。


「宴で職員も気分転換できるし、明日からまた頑張れるわね?」


「おう、二倍働けるぜ。俺は三倍やるさ」


「じゃあ、技師から報告受けてから帰るから。あなたからはもうないわね?」


「ああ、大丈夫だ。それと監督」


 セレナは久しぶりに肩書で呼ばれ、少し戸惑った。

「何かしら?」


 ヴィルヘルムは席を立ち、深々と頭を下げる。

「今回は監督を飛び越えて報告しようとして、大変失礼なことをした。どうか許してほしい」


 セレナは今更何をと思ったが、それでも悪い気はしなかった。初めてガサツなヴィルヘルムに勝った気がした。しかも、また大勝利を収める目算がある。

「ま、謝罪は預かっておくわ。ひとつ貸しよ。でもいつまでも甘く見ないことね」

 そう勝利宣言をしてから悠然と立ち、

「お見送りはいいわ」とドアを開け、ふと立ち止まった。


「トーゲル・ホルンバッハだったわよね?お友達の名前」

 セレナがドアノブを掴んだまま背を向けて話しかける。


「そ・・・うだが?」


 またも予想を裏切る問いかけだった。

 セレナはその姿勢のまま振り向き、知り合ってから今日まで見たことがなかった笑顔を見せ、優しく言った。

「農業運営長として、家族だけでなく、試験場全体でホルンバッハさんと親しくなってね。同じ川の水を飲んだ者同士、きっとできるわ。お金の心配はご無用、気にせずお使いなさい。」

 セレナはそう言い放ち、ドアを閉めて立ち去った。


「あ・・・ああ、わかった」


 今日はなんという特別な日だ・・・ヴィルヘルムは困惑した。

 愛想笑いすら全くしない『刃の計算尺』が笑う姿を、初めて目の当たりにした日。おそらく、イザベラ会長に続いて、二人目の目撃者になった日だった。

 ヴィルヘルムはセレナが飲まなかった冷めたカップを見ながら呟いた。


「一体、何が起こったんだ・・・」


 完全にセレナのペースに巻き込まれ、乗せられている自分を自覚していた。あのセレナが自分と同じ考えを持つはずがない、と確信していた。


「・・・しまった。なんてこった、言いそびれた・・・」


 セレナの言葉に気づいたがすでに彼女は去っており、指摘し損ねたことを悔やんだ。


「トーゲルは川の水飲んでねぇよ」


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


今回はセレナとヴィルヘルムの緊張感あるやり取りを中心に描きました。立場や性格の違いからくる衝突と、それぞれの視点や信念を通して、組織運営や現場判断のリアリティを感じていただければ嬉しいです。


ヴィルヘルムは現場主義で泥臭く動くタイプ、一方のセレナは冷静で合理的な判断を重んじるタイプ。方法は違えど、どちらも責任感と誇りを持って動いている姿を意識して描きました。この対比が物語に奥行きをもたせる要素になればと思っています。


物語はここからトーゲルの再起と成長、そしてラピア農試の変化をさらに掘り下げていきます。次回は宴の準備やアウローラとの交流を通じて、少し温かく穏やかな雰囲気を描く予定です。重厚なテーマと日常の明るさを交互に織り交ぜながら、物語にリズムをつけていきますので、引き続き楽しんでいただけると幸いです。


感想や「いいね」をいただけると執筆の大きな励みになります! 特に、今回のやり取りやキャラクターの心情についてのご意見をいただけると、今後の展開にも反映していけるので、ぜひコメントをお寄せください。

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