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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
序章 特別な一日
6/37

宴の支度と少女の目

ラピア農試に現れた大鷲族トーゲルは、他種族との接触がなく、基本的な文明の知識を持たないことが明らかとなる。低地オルク語を教え、彼がオルクセン社会に順応できるよう、ヴィルヘルムは支援を決断。職員たちは彼の異質さに戸惑いつつも、彼が言語を短期間で習得する能力に驚き、応援する雰囲気が広がる。


職員の注目を集める中、ヴィルヘルムはトーゲルを移民管理局に送り届ける前に、農試で生活の基盤を学ばせる方針を宣言。彼自身の過去の難民経験を重ね合わせ、トーゲルが新天地で苦難を乗り越えられるよう準備を進める。一方で、職員全員でトーゲルを迎え入れるための宴の準備が始まり、ラピア農試は活気に包まれていく。

 

「よーし、やることやるぞ!」


 ヴィルヘルムは皆に聞こえるように大きく手を叩き、気持ちを切り替えた。


 彼は次々と指示を出した。


 エレネに低地オルク語の教育を優先するよう指示した。トーゲルは驚異的な速度で言語を習得しており、意思疎通ができるようになれば、誰でも対応できるようになる。そうすれば、エレネも早く解放されるだろうと判断した。

 事務方には、仮戸籍もない難民であるトーゲルの状況説明および一時保護申請を行政機関に行うよう指示。また、経営母体の商会に許可願いや保護費支援の依頼を連絡するように指示した。


 農作業助手に、トーゲルの仮住まいの建設を指示した。建築資材は倉庫内の予備材を使うことにした。場所はヴィルヘルムの住む管理棟裏の勝手口前で、管理棟に部屋を増築する形で接続する予定だ。今日中に完成しない可能性も考慮し、まずは簡単な屋根と風よけの木箱の壁を、管理棟の正面横に組むよう指示した。これで、今日はなんとかしのげるだろう。


 力仕事はオーク族に頼むことになるが、取引として「好きなだけ肉を食え」と伝えた。こういう時は、自分の小さい体が恨めしい。

 ノイカプツェ村から労働力援助の要請を依頼する、村への連絡係を決めた。連絡係には酒やパン、デザート等の購入も許可。とりあえず自分が負担し、商会から許可と保護費が出れば相殺することに決めた。


 残った者たちには、「今日やるべきことだけ済ませ、明日は頑張れ。お前ら、『一日さぼって枯らしちゃいました』なんて許さねぇかんな!」と念を押した。


 ボス鹿の解体は大まかに終わった。細かい分類や肉の処理は宴の準備をしている職員に任せることにした。慣れている連中だから、骨や皮、肉、内臓の処理は問題ない。骨はスープを取った後で化学肥料棟に運び、内臓は心臓、肝臓、腎臓、胃袋以外は堆肥に回す。皮なめしは得意な職員が勝手にやる。鉤爪で大きな穴が開いているが、鹿自体が大きいので、出入りの雑貨商ハインツに売ればそれなりの値段になるはずだ。


「角はどうすっかな・・・」

 トーゲルは誇らしげに飾ったりしないだろうなと、思わず笑みがこぼれた。



 過去、ヴィルヘルムのマイスター就任に際して、職員の中には不満を抱く者が少なからずいた。彼の粗野な話し方や行動は、知性に欠けるとして冷笑の対象とされた。特に高学歴の者たちの間では不適格との声が強まり、経営母体である商会に抗議を試みようとする動きまで見られた。

 しかし、彼はそのような批判を意に介さず、農業技師、研究技師たちと正面から議論を繰り返した。技師を凌駕する学識を持ち、さらに知識が及ばない分野では徹底的に調査し、理解に至るまで妥協しなかった。立場を利用した命令はせず、対話による解決を信条とした。

 地元採用の農業補助、いわゆる農夫たちとも競って作業を行い、ともに汗を流して畑を耕した。その作業を心から楽しむ姿は、周囲に新たな風を吹き込んだ。研究においても型破りな実験を行い、時に失敗して畑を荒廃させることもあったが、決して怯まず挑戦を続けた。

 やがて彼の成果と姿勢は、かつて彼を軽視していた学術層にすら認められるようになった。ヴィルヘルムは、自らの行動で信頼と尊敬を勝ち取り、批判の声は自然と消えていった。

 エルフィンドでの差別と暴力を嫌と言うほど味わったヴィルヘルムにとって、一時の侮蔑や蔑視はそよ風も同然であった。



「そうだ、肝心なことを忘れてた」


 ヴィルヘルムはそう呟くと、村に行く者に、大鷲族を診られる医者を連れてくるよう手配した。

 トーゲルは未だ止まり木から一歩も動いていない。彼は医者の存在を知らないから、医者を求めるはずがない。怪我や病気はじっと休んで治していたのだろう。状況把握のために医者が必要だった。それに、どうせ手続き過程で診断書が必要になるだろう。一匹暮らしで性病もないだろうが、ついでに書かせようと考えた。


「あの嘴に虫歯はないだろうな」


 ほくそ笑むヴィルヘルムであった。



「パパー、おはよー。今日ってお祭りの日だっけ?」


挿絵(By みてみん)


 外の騒ぎが気になり、アウローラは毛並みも整えずに部屋から出てきた。


 アウローラ・ヴァルトマンは、コボルト族ボーダーコリー種の8歳の少女で、服装は薄い緑の木綿のシャツ、ベージュの膝丈のプリーツスカート、薄茶色の革靴、白いエプロンを身に着けている。長命で子供が少ない魔種族の中では非常に珍しい存在で、年齢のわりに成熟した面もあるが純真さを残し、ラピア農試の職員たちに愛され、大切にされている。



 アウローラはコーギー種の母エレオノーレから産まれたボーダーコリー種である。コボルト族では異種間で子供を作っても、雑種が生まれることはない。コボルト族の遺伝形質には「選択的表示因子(Selective Display Factor, SDF)」という特殊な遺伝子が存在し、これにより異なる種間でも純血の特徴を保持することができる。この因子は、交配時に親の遺伝情報を選択的に調整し、異種間でも純血形質が支配的に発現するように働く。

 選択的表示因子は、交配した個体の遺伝子情報を解析し、最も適応する遺伝的特徴を強調する。これにより、例えばコーギー種とボーダーコリー種が交配しても、基本的にはボーダーコリー種としての遺伝的特徴が支配的に現れる。これは、環境への適応を重視した遺伝子選択の結果であり、コボルト族が進化の過程で特有の遺伝子修飾を持つようになったためである。

 この遺伝的特性は、親子が同じ血液型でもクローンではないように、遺伝的に同じ特徴を持ちながらも、個体ごとに多様性や異なる適応が生まれることを意味する。遺伝子が環境や条件に応じて微細に修正されるため、同じ遺伝的基盤でも表現型に違いが現れるのである。

 なお、この遺伝的特性が明らかにされるのは百年後のことで、『モードルの法則』の再発見を待たなければならない。



「おー、おはよう。すごいぞ、今日は大切なお客様を迎えるお祝いと、宿敵を倒した祝勝会を一緒にやるんだ。」

 ヴィルヘルムが嬉しそうに語りながら、少しかがんでアウローラの顔を覗き込む。アウローラは意味がわかっていない様子で首をかしげ、彼の顔をじっと見つめた。

「宿敵?」

 アウローラの問いに、ヴィルヘルムが誇らしげに広場のテーブルに並べられた肉の塊を指さす。彼は腕を大きく振り、塊を強調するように言葉を続けた。

「あれみろ。解体してもでかいだろ」

「え、もしかして」

 アウローラが驚いたように目を見開きながら、広場の遠くを指差す。


「そう、ついにボス鹿を倒してくれたんだよ。あのトーゲルさんがな!」

 そう言いながら、ヴィルヘルムはエレオノーレが教育中のトーゲルを紹介した。トーゲルは真剣に学習に集中しながらも、視線だけをアウローラに向けて一瞬彼女を見た。

 エレオノーレはアウローラに気づき、笑顔で小さく手を振った。


「あの大鷲族さんが倒したの?みんな諦めたのに」


「ま、色々あって、エルフィンドから逃げてたついでに殺してくれたんだ。英雄様だな」


「へぇーすごい!お話してきていい?」

 アウローラは興奮してトーゲルの方に歩き出すが、ヴィルヘルムが慌てた様子で手を振って静止させた。

「あー・・・それは事情があってまだだ。俺がいいというまで近づくなよ。まだ来たばかりで状況がわかってないんだ」


「えーつまんないー」

 アウローラは不満そうに口を尖らせ、足を踏み鳴らしながらその場に立ち尽くす。

「それに、低地オルク語がわからない」


「ほんと?そんな大鷲族いるんだ」


「いたんだよ。とにかく約束だ。いいな」


「はーい」


「とにかく今日は歓迎会だ、楽しみにしとけ。俺は仕事に行くからな。それと――」


「勉強しとけ、でしょ?」

 アウローラがヴィルヘルムの言葉を遮ると、ヴィルヘルムは微笑んでから、仕事場へ歩き始めた。



 アウローラはその後、広場の片隅でトーゲルの方をじっと見つめながら、少し退屈そうにしている。手を腰に当て、何度か足元を見ながら周囲を見渡す。

 トーゲルが学習を続ける姿に目を細め、しばらくその場に立っていた。


 アウローラはヴィルヘルムを見送り、あたりを見渡す。

 数匹の職員が倉庫からテーブルを運び、広場で次々並べていく。


 管理棟の壁際では、エレオノーレがトーゲルに低地オルク語を教え続けていた。

 卓越した記憶力を持つトーゲルには、基礎をじっくり繰り返すよりも、膨大な単語や例文を次々と提示する方が効率的だとエレオノーレは判断した。

 彼女は低地オルク語の辞書と、自身が専攻した古典アールブ語の知識を活用し、基礎的な例文を大量に用意した。まず、辞書から基本的な単語や簡単な文型を拾い出し、それぞれ低地オルク語と古典アールブ語の対応関係を示しながら教え込んだ。それを繰り返すことで、単語や基本構文の基礎を固めた。

 次に、アウローラの教科書から低地オルク語の例文を翻訳し、それらを対にしてトーゲルに提示する。「これを低地オルク語でどう言う?」と問いかけ、正確に答えられれば次の例文へ進む。誤りがあればその場で修正し、次の例文で再度確認する。また、逆に低地オルク語から古典アールブ語への訳出を課題に加え、双方向の練習を徹底した。

 こうした学習を通じて、トーゲルは単語や構文の対応だけでなく、規則性を自然と見出す能力を発揮し始めた。膨大な量の例文をまるで飲み込むように吸収し、エレオノーレが提示していない未学習の文でも即座に答えられるようになっていった。


 しかもトーゲルは、学習の途中に「向かい合わずに背を向けて教えてくれ」と頼んできた。エレオノーレは戸惑い、これは大鷲族特有の風習なのかと一瞬納得しかけたが、トーゲルの視線が机の辞書や教科書に向いていることに気づいた。彼は発音の対応だけではなく、文字そのものを見たいのだと察したエレオノーレは、感心しながら辞書や教科書を指でなぞり、単語を発音するように教え方を変えた。


 エレオノーレは、指で文字をなぞりながら発音する自分の姿が、かつてアウローラに絵本を読み聞かせていた頃の記憶と重なり、不思議な感慨に包まれた。



 アウローラはその光景をじっと見つめていたが、エレオノーレとトーゲルが集中している様子に次第に飽きてしまい、声をかけることなく家へと入っていった。


 あれほど大きかった鹿は、すでに分別作業が終わり、各部位が木製の台車やトレーに乗せられ、地下保存庫や堆肥処理場へと運ばれていった。夕方に振る舞われる料理として使われるまでには、まだ少し時間がかかる。

 時計塔は昼の鐘を鳴らしたが、エレオノーレは例文を読み上げ続けていた。トーゲルはそれに合わせて応答する。管理棟に集まった技師たちは、彼女の集中している様子を気遣い、声をかけることなく昼食を取った。


 管理棟内には広いミーティングルームがあり、ここで技師たちは集まり、会議や情報交換などを行う。昼食や夕食もこの部屋で一緒に食べることが決まっており、食事は専門職の手によって準備されたものが提供される。食事の時間は、ただの栄養補給の場にとどまらず、技師たちの談話の場でもあり、重要な意思疎通の時間となっている。このようにして、ラピア農試全体の情報が共有され、個々の専門分野の進展や課題が整理されていく。


挿絵(By みてみん)


 今日は、ジューシーなローストポークが香ばしい香りと共に、春野菜をふんだんに使ったタルトと共に並べられていた。アスパラガスとサヤエンドウのソテーが色鮮やかに盛り付けられ、ジャガイモの冷製サラダが爽やかな風味を引き立てていた。飲み物には、地元産リンゴとミントで作られたスパークリングウォーターが注がれ、デザートにはハチミツとラズベリーのムースが軽やかに添えられている。


挿絵(By みてみん)


 農業助手、作業助手、補助などの実務を担う職員は別棟の食堂で喫し、ポークとシンプルな野菜の煮込みと、サワークラウトとライ麦パンが添えられていた。飲み物は水割りビール、デザートにはリンゴと蜂蜜のコンポートが置かれていた。上級職より劣るが、それでも階級にしては贅沢な食事で、ラピア農試就労の人気は高かった。

 なお敷地が広いため、職員が集合することが難しい場合もあった。移動の多い農場の環境においては、携帯食としてパンと肉やチーズを詰めた簡単な食事や、干し肉、パイなどを携帯して食べることもあった。


 今日の会議室や食堂での話題は、トーゲルと宴についてであった。


 やがて、彼らは食事を終え、再び仕事に戻っていく。

 こうしてラピア農試の日常が戻りかけた頃、今日の予定にはなかった蹄の音、石畳を走る車輪の音が次第にラピア農試の敷地に響き渡る。

 男女のドワーフの御者と助手が座る御者台に乗った馬車が、ラピア農試の正門をくぐり、迷うことなく試験場内へと進んでいく。深緑色の二頭立てランドー型馬車は、熟練の捌きで広場の中央に入ると、静かに止まった。助手の女が素早く降り、馬車の上司を迎える。その中から一目でその地位の高さがわかる洗練された雌が姿を現した。


 ファーレンス商会メルトメア州担当、「刃の計算尺」と囁かれるセレナ・シュタルク監督が、抜き打ちで訪れたのだ。


あとがき


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


今回はヴィルヘルムを中心に、職員たちがトーゲルを迎え入れる準備を進める様子を描きました。仕事の合間に交わされるやり取りや指示のひとつひとつに、それぞれの役割や性格を織り込みながら、ラピア農試の日常風景を丁寧に表現したつもりです。


設定好きの悪癖が炸裂し、コボルト族の遺伝的特性やトーゲルの学習過程について、つい屁理屈をこねてしまいました。私にとって原作は「聖典」であり、その教えを尊重しつつも自分なりの解釈を交えながら世界観を広げていくのが楽しくて、つい筆が進んでしまいます。


また、トーゲルの言語習得については最近話題のAI学習をイメージしながら構成しました。昔の「人工無能」とは違い、現在のAIは膨大なデータを学習し、驚くほど柔軟に対応しますよね。本作文章はAIを使っていませんが、仕事のメール返信はAIまかせでかなり楽になりました。


さて、次回はついにセレナ・シュタルク監督が登場します。ヴィルヘルムとは犬猿の仲(?)ですが、果たして彼女はトーゲルの存在をどう受け止めるのか……。いよいよ物語は大きく動き出します!


感想や「いいね」をいただけると、次回執筆への励みになります。特に今回は設定やキャラクター同士の関係性を掘り下げたので、印象に残ったシーンやキャラクターについてぜひ教えてください!コメントもお待ちしています!

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