慈愛のスープ
ラピア農試に運ばれた大鷲族のトーゲルは、文明社会の基本的な知識を全く持たず、職員たちを困惑させた。彼はこれまで他種族や里の生活を知らず、窓や道具の概念さえ初めて触れる状態であった。ヴィルヘルムとエレオノーネはトーゲルをサポートするため、低地オルク語の指導を開始することを決める。トーゲルの学習能力は高く、記憶力と文脈から新しい語彙を素早く習得する能力に期待が集まった。
一方で、トーゲルの背景が不明瞭なため、ヴィルヘルムは彼の正体や意図について慎重に観察することを決意した。エレオーネは、トーゲルが自身の行動に恥を感じ、誇りを重んじる性格を伝え、彼が悪意のある存在ではないことを示唆した。こうして、トーゲルを新しい生活に適応させるための第一歩が始まるが、ヴィルヘルムは幼い娘アウローラへの影響を懸念し、しばらく接触を避ける方針を立てた。
「やーやーエレオノーレさん、まだいたんですか。お話弾んでます?」
ヴィルヘルムは自然体を装い精一杯の演技をしたが、エレオノーレからは喜劇役者に見えた。
オーク族、コボルト族、ドワーフ族の農試職員が興味本位でトーゲルを見守っていた。一部のコボルト族やドワーフ族は元難民でアールブ語話者だが、トーゲルに現代アールブ語が多少通じたとしても、あえて使うことはしなかった。これは元難民の間で自然発生した、ある種のタブーであった。
エルフィンドはオルクセン王国と隔絶された社会を形成しており、両国の住民はほとんど交流がない。そのため両言語を話せる者は少なく、言葉の壁が大きな障害となっている。特に難民にとっては、体系は似ているものの会話は難しく、オルクセンでは順応促進のための低地オルク語の習得が支援されている。数年で仕事に困らない程度の語学力・基礎学力を習得できるよう、初等教育を含む教育課程も提供されている。
ここで問題となるのは、地元民と元難民との間に存在する言語的な溝だ。地元民は低地オルク語だけで生活できるが、元難民たちはかつての母語である忌むべきアールブ語でも使いたくなる場合がある。アールブ語は使い慣れているため、元難民同士の会話では自然に使える。しかし地元民は理解できないため、目の前で内緒話をしていると取られてしまう。
さらに、元難民にとってアールブ語は迫害の象徴であり、苦しみの再生産を避けたかった。早くオルクセンに馴染むため、地元民に認めてもらうためにタブー視されるようになっていた。
ヴィルヘルムはまた集まりだした野次馬の輪に割って入り、トーゲルの前に立って皆に向き直した。
「みんな手を止めず聞いてくれ。あれから考えたんだがな、トーゲルさんにはこのままラピア農試で我がオルクセンの言葉を学んでもらって、ラピア農試の仲間も知ってもらって、オルクセン文明に慣れてから移民管理局に行ってもらおうと思うんだ。」
ヴィルヘルムは、トーゲルがあまりにも世間知らずであることに懸念を抱いていた。命の危険はないと踏んでいるが、せめて新天地では再び不安な思いをさせたくないと強く思っていた。ヴィルヘルム自身が艱難辛苦を越えてオルクセンにたどり着いた時の不安を、トーゲルには味わわせたくなかった。
職員たちの間に、わずかなざわめきが広がった。鹿の解体作業も手が止まり、皆がヴィルヘルムの言葉に耳を傾けている。
「気持ちはわかる。早く移民管理局に行って戸籍もらったほうがいいよな?俺だってそう思う。だけど、俺たち、どこで登録した?シルヴァン川の先、今は手前だが、そこの移民管理局だろ?移民局は国境沿いにあるもんだ。そしてここから国境まではるか・・・何キロ?」
「にひゃくー」
誰かが声をかけると、思わず笑いが漏れ、空気が一気にほぐれた。
「大正解!お肉進呈!そう、二百キロだ。お前ら、来た道へ追い返してまた『はじめまして』をやらせたいか?古典アールブ語で言わせたいか?違うだろ!」
ヴィルヘルムは手を払う。
「俺たち、ずぶ濡れのボロボロで知らない家のドアを叩いたよなぁ。誰も嫌な顔はしなかった。自分のスープをそのままくれたよなぁ。あの味を忘れたやつはいないだろ?」
野次馬に指を指した。
「我が王の臣民は等しく俺たちを迎え入れてくれたんだ。我が王は『恩は目の前に返せ』とおっしゃった。」
ヴィルヘルムは胸を張り腰に手を当て、もう一方で遠い空を指さした。
「お前ら、目の前に誰がいる?我が王から受けた恩を返すチャンスが来たんだよ。俺たちオルクセン王国臣民が、ドアを開けるチャンスが来たんだよ。」
大きく手を広げ、全体を見渡すように語る。
「だいじょうぶ。彼は俺より物覚えが早い。あっという間に話せるようになるし、オルクセンにも馴染んでくれる。なぁ?」
ヴィルヘルムは素早く振り向き、トーゲルに手を差し伸べた。
「はい」
表情を変えず放ったトーゲルの低地オルク語に、職員たちは動揺した。彼の言葉は不自然で、発音も不明瞭だった。しかし、その発声は話を理解して的確に答えたと思える言葉だった。
エレオーネから聞かされていたが、これほど早いとは予想外だった。
「え、今の話、わかったの?」
ヴィルヘルムは戸惑い、思わず問いかけてしまった。聞かずにはいられなかった。
「すこし、はい」
無表情のまま、再びオルク語を口にした。
歓声が上がった。驚きと喜びが入り混じったその声は、まるで広場全体に波紋のように広がっていった。職員は破顔し、同時に彼らの目を輝かせていた。誰かが手を叩き、また誰かが軽く笑い声を上げる。皆が感嘆し、祝福した。
トーゲルは時折瞬きしながら、器用に首だけ回して皆の様子を見つめていた。無表情なままで。
騒ぎを聞いて居ても立っても居られないラピア農試職員が次々と集まってきた。
農業技師、研究技師、農業助手、事務、農作業助手、農業補助、みんなが集まってしまった。
設備はいいが農作業と研究ばかり、娯楽に飢えていたので仕方がない。ヴィルヘルムは諦めた。
「まったくお前ら仕事どうした・・・まだ朝だぞ」
夜明けに降ってきたボロキレの難民が、急速に回復していく様子を見て、ヴィルヘルムの胸には抑えきれない感情が湧き上がった。
その姿に、自分自身のエルフィンドからの脱出行が重なる。
異端の罰を全身に受け、悲鳴が枯れても打ち据えられた。最後の力で這って逃げ、湿った穴蔵に身を潜めた。見知らぬ野山を南へ進んだ。魔種族が食わない物を食い、何度も嘔吐しながら、南へまっすぐ進み続けた。
シルヴァン川で流れに足を取られ、命からがら石にしがみつき、流れが弱くなるのをひたすら待った。そして、ようやく岸に辿り着いた。
ヴィルヘルムは、あの温かいスープの味を生涯忘れないだろう。頬張りきれないほどの温もり、労り、そして慈愛。想いの大きさが喉を熱く通り抜けたとき、ヴィルヘルムは涙をこぼした。
今、その忘れ難い味を、ボロキレのような姿で現れたトーゲルに、分け与えたかった。だが・・・
「こっちが味わってどうすんだ・・・ちくしょう」
ヴィルヘルムはそう呟いた後、声を張り上げた。
「お前ら、やること済ませてさっさと来い!手空きから宴の準備始めるぞ!」
巨大なボス鹿は一晩で消えることが決定した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回はヴィルヘルムの情熱と職員たちの団結、そしてトーゲルの驚異的な順応力を描いた章になりました。軽い会話をベースにしつつも、背景にある異文化交流や難民の受け入れといった重いテーマを織り交ぜることで、物語に深みを持たせるよう意識しました。
正直、もっと軽く読める章にしたかったのですが、映画「未来世紀ブラジル」や「ソフィーの選択」など重い映画の影響を受けているせいか、つい重厚な空気感に寄ってしまいます……すみません。でも、この重さも含めて楽しんでいただけたら嬉しいです!
トーゲルがオルクセンに馴染んでいく過程や、ヴィルヘルムたちとの関係性がどう深まっていくのかは、今後も丁寧に描いていく予定です。次回は宴のシーンを交えつつ、少しコミカルな場面も増やして、物語にさらに広がりを持たせられたらと思っています。
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