翼の契約、風の行方
「トーゲル、オルクセンの旅はどうだった?」
トーゲルのラピア農試への帰還後も、鉱石や植物のサンプルは途切れることなく運び込まれ、施設内は毎日、発見と分析に追われる活気に満ちていた。
一方で直接は関係のないヴィルヘルムは、朝の仕事を終え、アウローラが勉強する様子を横目に、新しく整えられたトーゲルの部屋でコーヒーを味わっていた。
改築されたトーゲルの部屋は、以前より広く、重厚な木材と石材を用いた堅牢な造りになっていた。気密性の高い扉とガラス窓が設けられ、快適な空間を確保している。室内には整理棚や作業机に加え、小さな会議テーブルと複数の椅子が配置され、落ち着いた打ち合わせが可能だった。また、アウローラのために鋳鉄製ストーブが設置され、冬季でも快適に過ごせるよう配慮されていた。
トーゲルの長期踏査中に改築されたこの部屋は、以前の狭さを反省し、打ち合わせや作業効率を考慮した設計となっていた。帰還後、早速その広さと機能性が活用され、事務方の6匹が平行作業でトーゲルの2ヶ月分の報告を口述筆記した。トーゲルは止まり木というログに掴まりながら、ログ作成を指示したのだった。
「うむ。色々あった。空中踏査以上に、得難い体験が多かった。」
トーゲルは簡潔に答えた。
「ねぇ、ヴィルトシュヴァインに行かなかったって本当?」
「うむ。計画でも優先度は低かった。首都周辺は既に資源探索が進んでいて、新しい発見は期待できないと判断したからだ。それに、石炭の使用量が多い地域だった。オルクセン西部の炭鉱都市では、商館の中ですら息が詰まるほどだ。だから避けた。」
「そうか。ファーレンス夫人に会いそこねたな。面白い雌だったが、夫人も忙しいしな。」
ヴィルヘルムは軽く肩をすくめ、コーヒーを一口飲んで続けた。
「俺も礼服を買ったきり、仕舞い込んでるよ。」
「えー、行ってみたい!連れてってよー!」
アウローラが目を輝かせて頼んだ。
「行って帰るだけで二十日はかかるぞ。俺だってたまにしか行かない。」
ヴィルヘルムは苦笑しながら、カップを置いた。
「トーゲルなら日帰りできるのにー!」
「アウローラ、大鷲族は誰かを乗せたことはない。誰もやろうとしない。危険なのだ。」
トーゲルは冷静に言い聞かせるように答えた。
「そんなの、やってみなきゃわからないじゃない! それとも誰かに聞いたの?」
アウローラは食い下がった。
「アルタリアから聞いたのだ。」
「会ったのか?」
「会ったの?」
ヴィルヘルムとアウローラがほぼ同時に声を上げた。かつて心ない言葉でトーゲルを傷つけたアルタリアと、再び言葉を交わすまでの関係になったことに驚き、二匹は身を乗り出した。
トーゲルは経緯を語った。セレナの懲罰人事によってアルタリアが苦しんでいたこと。二羽の誤解が解けて互いに許し合ったこと。彼女のこれまでの苦労に共感し、深夜まで語り合ったこと。それらを二匹に詳しく説明した。
「へー、仲直りできたんだ。良かったね。」
アウローラは素直に喜んだ。
「うむ。次に会えたら親友になるのだ。」
トーゲルは頷きながら言った。
「・・・」
ヴィルヘルムは腑に落ちない表情を浮かべた。
「トーゲル、いい話だが、なんで親友の約束になるんだ? 本当にそう言ったのか?」
「何かおかしいのか?」
「最後だけ違和感がある。言葉通りに『次は親友に』と言ったのか? 正確に教えてくれ。」
ヴィルヘルムは慎重に確認した。
トーゲルは少し考え込んだが、やがて意を決して話し始めた。
「ヴィルヘルム、アウローラ。これから話すことは、我々少数部族だけに伝わる秘密の伝統だ。特別に信頼して話すが、理由も聞かず、誰にも言わず、秘密を守ってほしい。」
二匹が深く頷くのを確認し、トーゲルは静かに語り出した。
トーゲルの故郷には、『契りの名』を授かる神聖な儀式があった。巣立ちを控えた者は誇りを刻む名を授かり、それを明かすのは心を通わせた親友か、命を分かち合うつがいのみ。秘密を分かち合うことで築かれる絆は、部族にとって魂を結ぶ約束の証だった。
「――そして『次に会えたら、契の名を交換しない?』『うむ、わかった』『約束よ』と交わして別れたのだ。」
トーゲルは言葉をそのまま再現した。
ヴィルヘルムは軽く息をつき、困惑した表情を見せた。
「そうか、ありがとう。やっぱりな。だがこれは・・・。俺もこの分野は得意じゃないが、何かおかしい。」
ヴィルヘルムは言葉を選びながら続けた。
「トーゲル、これは慎重に取り扱うべき重要な事案だ。この件については、関連分野に精通した学識者の見解を仰ぐ必要がある。知見を借りることで、象徴的意味について、より正確な判断ができるはずだ。秘密は必ず守らせる。呼んでもいいか?」
「うむ。私はヴィルヘルムを信頼している。」
トーゲルは静かに頷いた。
*
「トーゲル、それは『つがいになりましょう』という意味よ。」
エレオノーレは迷いなく言い切った。
「なにっ! バカな!」
トーゲルは驚きのあまり声を荒げた。
「プロポーズだったの?」
アウローラが驚いたように目を見開いた。
「やっぱりそうだったか。」
ヴィルヘルムは腕を組みながら冷静にうなずいた。
エレオノーレは視線を落ち着かせたまま、さらに言葉を継いだ。
「私の推測だけど――」
アルタリアは弱ったところをトーゲルに助けられたことで、彼に信頼と安堵を抱くようになったのね。傷つけた過去を責めず、素直に受け入れたトーゲルの寛容さと誠実さが、心を開くきっかけになったのだと思うわ。嘘や駆け引きのないまっすぐな姿勢は、彼女にとって頼れる存在として映ったのでしょう。
それに、彼女自身も迷いを抱えていたのかもしれない。過去の失敗や孤独を乗り越える中で、トーゲルの強さと優しさに惹かれながらも、自分の気持ちに確信が持てなかった。だからこそ、彼女は「契りの名」を交換するという大鷲族の重要な儀式を持ち出したのよ。
アルタリアは、はっきりとした告白ではなく曖昧で慎重な表現を選んだの。それはトーゲルの反応次第で関係を深める余地を残しつつ、拒絶されたときの傷を最小限に抑えるためだったと思う。彼女は賭けに出たのよ。トーゲルが気づけば関係は進展するし、気づかなくても友人のまま関係を続けられると考えたのね。
つまり、アルタリアにとって「契りの名」は希望と不安が入り混じった告白だったの。自分の未来をあなたに委ねるための精一杯の表現だったのよ。
「なんということだ。まったく気づいていなかった。」
トーゲルは困惑を隠せず、視線を落とした。胸の奥に冷たい波のような動揺が押し寄せ、思考はまとまらなかった。
「えーと、『親友』でもいいけど、本当は『結婚』がいいってこと?」
「しまった、余計なこと吹き込んだか。トーゲル自身が気づかなきゃいけないことだろ。」
ヴィルヘルムは頭をかきながら、複雑な表情を浮かべた。
「あら、いいじゃない。私は応援するわよ。」
エレオノーレは優しく微笑んだ。その声は落ち着いていたが、どこか楽しげでもあった。
しかし、トーゲルの表情は硬いままだった。
トーゲルは無表情を保ったまま、内心で激しく動揺していた。胸の奥に押し寄せる困惑と焦燥が冷たい波のように押し寄せ、頭の中で何度も言葉を反芻した。理性は必死に事態を整理しようとしていたが、理解が追いつかず、思考は空回りしていた。
「ヴィルヘルム、エレオノーレ、なぜ二匹は結婚した?理由を教えてくれ。」
トーゲルからのこれまでで最も説明しにくい質問に、ヴィルヘルムとエレオノーレは言葉を失った。
ヴィルヘルムとエレオノーレは、トーゲルの問いに対して表面的な説明に留めた。特に、娘のアウローラの前では踏み込んだ話は避けるべきだと判断したためもある。また、「結婚」と「つがい」には似て非なるニュアンスが含まれており、単純に比較できるものではないことを指摘した。最終的に二人は、トーゲル自身が経験や考えを深めながら答えを見つけるべきだという結論に落ち着いた。
そして、エレオノーレは仕事に戻った。トーゲルの長期踏査で集められた植物サンプルの整理に追われ、助手たちを指導する責任もあった。彼女はトーゲルの春の訪れに後ろ髪を引かれつつも、現実的な役割を優先せざるを得なかった。
「俺も仕事に戻るわ。トーゲル、よく考えることだな。」
ヴィルヘルムはそう言い残し、部屋を後にした。
アウローラは勢いよく言った。
「トーゲル、アルタリアと結婚しちゃえばいいじゃない!」
だが、そう口にした瞬間、胸の奥がざわついた。もし本当にトーゲルが結婚したら――。
彼はここを離れ、アルタリアと新しい生活を始めるかもしれない。今のように一緒に過ごす時間は減り、話す機会もなくなるかもしれない。
大好きなトーゲルを奪われるような気がしたアウローラは不安を隠すように笑ったが、心の中では、自分の言葉を取り消したくなる衝動を必死で抑えていた。
「アウローラ、大丈夫だ。」
トーゲルは静かにたしなめた。
「アウローラの考えはわかる。私も同じだ。例えどこに行ってもお前たちとともにある。」
アウローラは少し安心したように頷いたが、トーゲル自身はまだ答えを出せずにいた。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「お久しぶり、トーゲルさん。またお話いいかしら?」
セレナ・シュタルクが冷ややかな声で現れた。彼女はいつもの深いネイビーのタイトジャケットをまとい、鋭い視線を向けていた。
「セレナ?」
アウローラは驚いて身を引いた。セレナの登場はいつも空気を硬くする。
「おちびちゃん、いい子だからお部屋でお勉強してなさい。」
「アウラ、部屋に行ってろ。これから嫌な話になる。」
ヴィルヘルムはアウローラを促しながら、セレナを見据えた。
「まだ何も話してないのに酷い言われようね。持ってきたのはトーゲルさんへの吉報よ。」
セレナは遮るように続けた。
アウローラは不満げに口をとがらせたが、仕方なく部屋を出ていった。
ヴィルヘルムとセレナは席につくと、彼女は準備していた言葉を切り出した。
「商会は、トーゲルさんの素晴らしい活躍を高く評価しています。これまでのオルクセン全土の調査結果は詳細に分析され、その成果は他国に百年の差をつけるほどのものです。これにより、全土で一斉に開発が進むことになるでしょう。そして、その計画を一手に担うのは、我がファーレンス商会です。」
セレナの言葉は凱旋の角笛のように高らかに響いたが、ヴィルヘルムはわかっていて水を差した。
「百年差は無理だ。初期投資、高度人材と労働力の確保、インフラの整備、需要。せいぜい十年がいいとこだ。」
セレナは表情ひとつ変えずに問い返した。
「農業運営長、我が国が十年先んじる重要性をわかっていますか?」
「ああ、わかるさ。」ヴィルヘルムは肩をすくめた。
「供給過多で資源が値崩れする。必要以上に掘っても大して儲からん。」
「科学者のくせに保守的ですね。攻めてこそ好機は訪れるのですよ。……まぁいいでしょう。本題に移りましょう。」
「助かった。暇な講義は寝ることにしてたからな。」
セレナはわずかに眉をひそめたが、すぐに気を取り直したように言葉を続けた。
「トーゲルさん、あなたは商会の歴史に名を刻む偉業を成し遂げました。その成果は単なる農業試験場の枠を超え、商会全体に計り知れない恩恵をもたらしています。あなたの働きは、この国の未来を形作る礎となるでしょう。」
ヴィルヘルムは椅子に背を預け、冷ややかに口を挟んだ。
「トーゲル、気をつけろ。前置きが長いほど悪い話だ。」
セレナは表情を崩さなかった。
「そこで、トーゲルさんにはラピア農試から抜けて商会本店の直轄とし、これからは本部の意向で更に活躍してもらいます。報酬は今の10倍です。首都ヴィルトシュヴァインで一級の邸宅を用意しました。地位と身分に相応しい秘書と執事も手配済みです。」
「セレナ、まだ懲りてないのか? トーゲルは金に興味はないし、地位や身分が大嫌いなんだよ。あと石炭もな。ばい煙まみれの首都なんか行くもんか。トーゲルの好きなものは自然だ。自給自足できるヤツを銀貨で埋めて、喜ばれると思ってんのか?」
ヴィルヘルムの言葉には苛立ちが滲んでいたが、セレナは微笑を崩さなかった。
「いいえ、きっとトーゲルさんはご納得いただけると思います。トーゲルさんも落ち着いて考えてみてください。その間、農業運営長に施設を案内してもらいましょう。」
「セレナ。悪いが私は――」
「返事はあとで。すぐ戻ってまいりますので、よくお考えになって。さぁ農業運営長、案内してください。」
「お前、何考えてんだ。」
「通常業務を見回りたいだけです。それもお断りを?」
セレナは平然と切り返した。ヴィルヘルムは面倒くさそうにため息をつき、渋々立ち上がる。
「わかったよ。ついて来い。」
ヴィルヘルムはセレナとともに部屋を出た。残されたトーゲルは一羽、セレナの提案を反芻した。
ヴィルヘルムは、一般の見学者向けに整備された案内コースを定型文のようにセレナへ説明した。セレナも表情を崩さず、それに合わせて淡々と歩を進めた。しかし、その金色の瞳は絶えず何かを探るように動き、思考を巡らせているのが見て取れた。
二人の間に交わされる言葉は少なく、緊張感だけが漂っていた。
「これで満足か?」ヴィルヘルムは溜息交じりに問いかけた。
「ええ、終わりました。」セレナは短く返したが、それ以上は何も言わなかった。
形式だけの見回りに意味はないと互いに理解していたが、セレナはこの時間を必要としているかのようだった。
ヴィルヘルムは足を止め、セレナを振り返った。
「で、俺に何をさせたいんだ?トーゲルを説得しろってか?」
セレナは一瞬、口を開きかけたが、すぐに閉じて細く笑みを浮かべた。
「安心してください。あなたには何も期待しておりません。彼を信じているだけです。」
ヴィルヘルムは不機嫌そうに眉をひそめ、それ以上追及するのを諦めて歩き出した。
二人がトーゲルの部屋に戻ると、それぞれ席についた。
セレナは硬い表情のトーゲルに向き直り、問いかけた。
「それで、決意は決まりました?」
セレナは余裕の笑みを浮かべながら言った。
「わかった。ここを辞めて本部で働く。」
トーゲルは無機質な声で答えた。
「何だって?トーゲル、どうした?何があった?セレナ、お前また何かやったろう。」
ヴィルヘルムは椅子を引く音を響かせ、立ち上がった。
「私はずっとあなたと居ました。失礼なことを言わないでください。」
セレナは冷静に言い返したが、その声にはどこか硬さがあった。
ヴィルヘルムはトーゲルの顔を見つめた。
「本気で言ってるのか?トーゲル。」
しかし、トーゲルは視線を落としたまま答えなかった。部屋には沈黙が降りた。
「パパ!これ読んで!トーゲル、言うこと聞いちゃダメ!」
アウローラが勢いよく扉を開け、走り書きをヴィルヘルムに押しつけた。
セレナはこれまでの余裕を失い、その瞳に驚きと焦りを滲ませた。
「これは・・・お前はどこまで下衆なんだ。魔術通信で脅してやがったな!」
ヴィルヘルムは紙を握りしめ、低くうなった。
ヴィルヘルムに案内されている間、セレナはトーゲルと魔術通信で話を続けていた。それは、トーゲルが移籍を断ればヴィルヘルムを商会の保護から外し、徴兵の対象にするという、説得という名の脅迫だった。
ラピア農試の職員は魔術通信が使えなかった。適性がないゆえに学業でのし上がった人材で構成されていた。しかし、セレナの誤算は、職員ではないアウローラにその才能があったことだった。
アウローラは二匹の魔術通信を聞き取り、その内容を漏らさず書き留めていたのだ。
セレナは鋭い目でアウローラを睨んだが、アウローラは父の背後に隠れて怯まず続けた。
「セレナずるいよ!こんなやり方、絶対におかしいよ!」
「でかしたぞアウラ。セレナ、今度という今度は呆れ果てて何も言えんぜ。」
ヴィルヘルムは怒りを抑えた声で言い放った。
セレナは口を開きかけたが、すぐに唇を閉じた。部屋の空気は張り詰め、誰も次の言葉を発せられなかった。
「まあ、知られてしまっても話は変わらないわ。本店かヴィルヘルムか、選びなさい。」
セレナは再び冷たい視線を戻した。
「ヴィルヘルム、私は戦場を見た。生き物の尊厳を奪い合っている惨状だった。私はヴィルヘルムをそこに送りたくない。私が本店に行けば済むことなのだ。」
トーゲルは静かに言った。その声には、旅の終わりに目撃した恐ろしい光景の余韻がまだ残っていた。焼け焦げた土地と崩れ落ちる命。彼はその現実を思い返し、理性を保つように言葉を選んだ。
「トーゲル、心配すんな。俺は高度人材ってヤツさ。国もわざわざ俺を選ばないし、商会だって手放したくないはずだ。ラピア農試は商会の誇りだ――俺がそれを築いたんだからな。」
ヴィルヘルムは、あえて自分らしくない言葉を選んだ。彼は身分社会を嫌い、尊大にならないよう常に振る舞っていたが、今はあえて強気な姿勢を示す必要があると感じていた。
「どうせセレナの独走だ。ファーレンス夫人がこんな無茶を見逃すわけがねぇ。」
ヴィルヘルムは睨みつけながら言い放った。その視線は鋭く、釘を刺すようだった。しかしセレナは微笑むでもなく、まるで刃を受け流すかのように静かに佇んでいた。
「そう思うのなら好きになさい。」
セレナは椅子にゆったり腰を下ろし、冷淡に言い放った。
空気が張り詰める中、ヴィルヘルムはセレナを睨みつけ、トーゲルはアウローラを守るように視線を向けた。
事態は決着を見ないまま、緊張が室内に深く沈んでいた。
やがて、トーゲルが口を開いた。
「わかった。私は今後を決めた。」
セレナとヴィルヘルムが身を乗り出す中、トーゲルは静かに続けた。
「私はここを辞めて山で過ごす。」
「ふ、ふざけないでよ!」
セレナは机を叩き、立ち上がった。しかし、その声には苛立ちと焦りが入り混じっていた。
トーゲルはそんな彼女を見つめず、ヴィルヘルムに向き直った。
「ヴィルヘルム、私の給料は預かっておいてくれ。自由に使ってくれてもかまわない。我々は家族だ。そうだろう?」
ヴィルヘルムは短く笑った。
「ああ、比喩的で、そして絶対的な家族だ。」
「トーゲル、なんで行っちゃうの!」
アウローラは今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「これでいいんだ。」
ヴィルヘルムはアウローラの肩に手を置いた。
「トーゲルはここにいれば、俺たちに迷惑がかかると考えたんだ。だけどな、彼だって本当はここで暮らしたいと思っている。それでも決断したんだよ。」
アウローラは涙をこらえながら、トーゲルを見つめた。
「そんなのやだ・・・。」
トーゲルは、アウローラの言葉を静かに受け止めた。
「アウローラ、永遠の別れではない。いつでも来られるし、獲物だって狩りに来る。住む場所が変わるだけなのだ。」
「そ・・・そんな勝手を許すわけないでしょう! 商会を抜けたら、この敷地に入らせるわけないわ。二度と来られないわよ! それでもいいの!」
セレナは苛立ちを隠さずに言い放った。
トーゲルは落ち着いた声で応じた。
「そうか。ならば門の外で待とう。アウローラ、悪いがそこまで来てくれ。」
「いや、俺の責任でゲストは歓迎するぜ。他の客と同じようにな。」
ヴィルヘルムは腕を組みながら言った。
セレナはその言葉に鋭く反応した。
「ヴィルヘルム、あなたにそんな権限はないわ。商会の規定を甘く見ないで!」
「権限はあるぜ。俺がファーレンス夫人の信任を受けて、農業運営長として許可を出す。何が問題だ?」
ヴィルヘルムは冷ややかに笑い、堂々と言い放った。
「トーゲルは徴兵されるわよ!」
セレナの声が震えた。
「大鷲族は戦場でどんどん墜ちている。軍隊はもっと欲しがるでしょうね! 商会の後ろ盾を失った田舎者は特に!」
彼女の余裕は完全に崩れ、言葉には焦りが滲んでいた。セレナ自身の進退がかかっているのは明らかだった。
トーゲルはそんな二人のやり取りをじっと見守っていたが、静かに口を開いた。
「セレナ、諦めてくれ。何を言おうと私の辞意は変わらない。」
彼の声は揺るぎなく、まるで山に吹く風のように冷たく澄んでいた。
アウローラは涙をこらえながら、トーゲルの翼を掴んだ。
「絶対、また来てよね・・・絶対だよ!」
トーゲルは優しくうなずき、彼女の手をもう一方の翼でそっと包んだ。
「約束する。住処が見つかったら手紙を・・・なんとか書いてみる。」
アウローラは涙を浮かべつつも、少しだけ笑みを見せた。
「ヴィルヘルム、すまないが今から発つ。別れの挨拶は以前済ませた。二度する必要はないだろう。エレオノーレによろしく伝えてくれ。」
トーゲルは淡々と告げると、止まり木から降り立った。
ヴィルヘルムは驚いたが、すぐに納得したように肩をすくめた。
「しゃあないか。落ち着いたら教えてくれ。」
彼はわかっていた。これ以上セレナに好きなように言わせれば、どんな苛烈なことを言い出し、あるいは実行するか計り知れなかったのだ。
「さぁ、行け。今ならまだ誰にも邪魔されずに済む。」
ヴィルヘルムはドアを開け、トーゲルの背を押すように見送った。
セレナはそれを遮ろうと立ち上がったが、ヴィルヘルムの視線に押しとどめられた。
「セレナ、もう終わりだ。」
ヴィルヘルムの声には、いつになく鋭い力が込められていた。
「待って!行かないで!話を聞いて!」
皮肉にも、この中で最もトーゲルを想っていたのはセレナであった。彼女は自身の立身出世と商会のため、そして国の未来のために、トーゲルの才能を必要不可欠なものと考えていた。しかし、その思いは焦燥と責務に歪められ、彼を自由ではなく役割に縛りつけるものとなっていた。
セレナは手を伸ばしたが、その指先はトーゲルに届くことなく空を切った。
トーゲルは翼を広げ、風を切って飛び立った。舞い上がった塵と葉が渦を描き、彼の去った道筋を静かに示していた。
這いつくばるセレナをよそに、ヴィルヘルムとアウローラは沈黙のまま、その背を見送った。風は彼らの間をすり抜け、残された者たちの境界をかき乱していった。
だが、風はすぐに舞い戻ることになるのであった。戦の火種が灰に埋もれることはない――硝煙に誘われて。




