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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
第三章 勤労の翼
33/37

交わる風、溶けゆく雪、燃え立つ旗

 首都ヴィルトシュヴァインの南、アスカニアと接するベアグルンド州のシュタインヴァイデ上空。トーゲルは翼を広げ、風に乗りながら眼下の風景を見渡していた。旅が終わりに近づいていることを静かに実感していた。


 彼の視界には、緩やかに連なる丘陵地帯が広がっていた。その合間を流れる川は陽光を受けて輝き、蛇行しながら遠くの森へと消えていく。丘の頂にはいくつかの小さな集落があり、その赤茶色の屋根が青空に映えていた。畑や牧草地が谷間を埋め尽くし、風車がいくつか立ち並ぶ姿も見える。地面を縫うように延びる街道は、石畳の一部を見せながら、集落を繋いで森の中へと続いていた。


 この旅路で彼は、多くの挑戦と学びを重ねてきた。この旅でトーゲルは、数々の挑戦を乗り越えてきた。自然の厳しさに直面しながらも、鉱物や植物の発見に成果を上げてきた。

 一方で、この旅は単なる今日距離踏査ではなく、トーゲル自身の内面を揺さぶるものであった。仲間や同族との衝突が彼の信念に疑問を投げかけ、彼は一時的にすべてを放棄しようとしたこともあった。しかし、ヴィルヘルムたちの支え、そして自分の役割に対する新たな認識が、彼を再び前へと進ませた。


 困難な環境や孤立した村での経験は、彼に科学と自然の共存について新たな視点を与えた。自らの知識が人々を助ける力を持つ一方で、自然の力に依存してきた自分自身の価値観が揺らぐ瞬間もあった。旅を重ねるごとに、彼の心には使命と葛藤が入り混じりながらも、新たな強さと成熟が芽生えていった。


 シュタインヴァイデの穏やかな景色の中で、トーゲルはこれまでの道のりを振り返るように静かに目を閉じた。苦難と喜び、迷いと希望が入り混じったこの旅は、彼自身を大きく変えるものだった。それでも、彼にとって最も大切な使命はまだ果たされていない。深く息を吸い込み、翼を大きく広げると、彼は空高く舞い上がった。


 飛び続ける中、ふと眼下の地形が目に留まった。崩れた崖の斜面に、動く影が見える。トーゲルは目を凝らし、その正体を確かめた。そこには、自分と同じ大鷲族が翼を広げながら何かを探している様子があった。潰された様子も、墜落した様子もなく、むしろ目的を持って行動しているように見えた。


 その光景に心を引かれたトーゲルは高度を下げ、静かに舞い降りた。一体何が起きているのか、確かめるべきだという思いが彼を動かしていた。


「アルタリアか」


 舞い降りる途中で、トーゲルはその大鷲族の姿に気がついた。かつて彼を辛辣に批判し、その内心に深い葛藤を植え付けた雌の大鷲族、アルタリア・アイゼンベルクだった。彼女の言葉はトーゲルに、文明の発展という彼自身にとって苦しくも新しい概念を突きつけた。トーゲルは彼女を恨んではいなかったが、心のどこかでその存在を忘れることはできなかった。


 なぜ今、ここで彼女と再び出会うのだろう。支店間の通信係であるはずの彼女が、こんな場所にいる理由がわからなかった。トーゲルは疑問を抱きつつも、彼女の近くへと静かに降り立った。目の前のアルタリアは、地面に視線を落としながら何かを探しているようだった。その姿は集中しているというより、どこか苛立ちが滲んでいるようにも見えた。


「アルタリア、久しぶりだ。何か探し物か?」

 トーゲルの呼びかけに、アルタリアは一瞬動きを止めた。しかし彼女は振り向くことなく、無言で地面を探り続けた。彼は不可解に感じた。こんな商会もないような場所で


「何か落としたのか?手伝おう。何を見つければいい?」

 トーゲルが続けると、アルタリアは小さく羽ばたいて少し先へ移動し、また地面を探り始めた。その様子は、明らかにトーゲルを無視している。


「どうした?嘴か何か痛むのか?なら魔術通信でーーー」


「いい加減無視されてるって気づきなさいよ。なんで私の気持ちに気づかないの?そんな鈍感だから、こんなことになっちゃうんじゃない!」

 突然、アルタリアが振り返り鋭く言い放った。


「なぜだ?前はあれほど話しかけてきたではないか。」

 トーゲルは動揺しながら問い返す。


「いちいち言わないとわからないの?」


「うむ、わからない。教えてくれ。」

 真面目に返すトーゲルに、アルタリアは呆れたようにため息をついた。


「あなたのおかげで、こんなところに飛ばされたのよ。わかった?」

 その言葉に、トーゲルは思わず首を傾げた。


「飛んできたのではないのか?」


「頭にくるわね。あなた、天才なの?それとも馬鹿なの?どっち!」

 彼女の声には怒りがはっきりと現れていた。



 アルタリアは険しい表情を浮かべながら、事の経緯を語り始めた。トーゲルと前回言葉を交わした後、通常の配達業務に復帰したが、各地を経由する中で上司のセレナに呼び出されたという。セレナは「トーゲルを惑わせた」と一方的に断じ、彼女に責任を押し付けた。弁明も許されず、鉱石探しという過酷な任務を命じられた。アルタリアには、納得する暇すら与えられなかった。鉱物採取に関する訓練も知識も持たないまま、彼女は数個の鉱物見本を渡され、「袋を満たすまで戻るな」と命じられた。それ以来、彼女は山岳地帯で孤独な作業を続けている。この任務は、セレナがトーゲルの報告を偏った形で解釈し、問題の原因をアルタリアに押し付けた結果だと言った。



「これも全部、あなたがセレナに余計なことを吹き込んだせいだって言ってるのよ!どうして私ばっかりこんな目に合うの?」

 トーゲルを睨むアルタリアの瞳には怒りが宿っていた。その視線には、ただの怒り以上に、耐え難い屈辱の色が見え隠れしていた。


 トーゲルは言葉を失った。快活な印象だったアルタリアが、こんな辛酸を嘗めているとは想像もしていなかった。


「わからない。なぜセレナは私と会ったことを知っているのだ?私はヴィルヘルムに『雌の大鷲族と話した』としか言っていないが。」


 アルタリアは呆れたように首を垂れ、疲れた声で言った。

「あのねぇ、商会の雌の大鷲族は三羽しかいないのよ?あなたとその時会った大鷲族が誰だか、すぐ予想がつくでしょうよ。」


「なるほど。だがやはり、セレナには言っていない。」


「疲れるわね・・・。そのヴィルヘルムって、ラピア農試の職員でしょ?上司に報告しないはずないでしょう。」


「そう言えば、ヴィルヘルムはセレナに報告すると言っていた。そうか、私はお前に何かしたかったわけではないが、結果的に傷つけてしまったのだな。」

 トーゲルは深く息を吐き、真摯に言葉を続けた。

「すまない。」


 アルタリアはトーゲルの謝罪を聞き、一瞬視線を外してから、再び彼を見つめた。彼女はまだ苛立ちを隠しきれないが、怒りよりも戸惑いが混じり始めていた。

「・・・別に謝られたって、私がここで苦労してることに変わりはないわ。」

 彼女はそう言い捨てると、視線を地面に戻し、再び何かを探し始めた。


 トーゲルは彼女の姿を見て、胸の奥に鈍い痛みを感じた。自分の発言や行動が原因で、彼女がこんな状況に追いやられたという事実を思い知らされていた。だが同時に、彼には彼女をこの困難から救う方法が思いつかなかった。


「手伝わせてくれ。」

 しばらくの沈黙の後、トーゲルは静かに口を開いた。


「は?」

 アルタリアは顔を上げて、驚いたようにトーゲルを見た。


「お前の袋を満たすのを手伝う。その方が早く終わる。」

 トーゲルは真剣な顔で続けた。


 アルタリアはしばらく考え込むようにトーゲルを見ていたが、やがて小さくため息をついた。

「・・・好きにすれば。でも許されると思わないでよね」

 彼女は短くそう言うと、再び地面に目を向けた。その声にはまだ刺々しさが残っていたが、完全に拒絶しているわけでもなかった。


「うむ、当然だ。」


 トーゲルが勢いよく飛び立つと、アルタリアも不承不承ながらその後に続いた。二羽は山の崩落現場を上空から観察し、トーゲルが地形や地層に目を留めるたび、次々と降り立ち、アルタリアに鉱物について説明した。


「これは褐炭だ。湿地帯や地層の浅層部に生成されることが多い。特徴としては、比重が小さく、粗粒的で不均一な表面質感である点が挙げられる。この触感を記憶しておけば、異なる鉱石種との識別が容易となる。」


「あの白色の部分は石灰岩だ。鉱床そのものではないが、地層解析の指標となる重要な存在だ。特に、このような層の存在は、周辺に鉱物資源が埋蔵されている可能性を示唆する要因となる。」


 トーゲルは空からも説明をした。

「山岳地帯では鉱物種が多様化しやすい。採取効率を高めるには外観や触感だけでなく、周囲の地層との連関性を総合的に観察することが求められる。これが基盤的な採取技術の初歩となる。」


 アルタリアは、トーゲルの説明を全て理解したわけではなかった。しかし、彼の真剣な態度と、自分に何かを伝えようとする真摯な姿勢は、次第に理解し始めていた。


 その視線の変化に気づいたトーゲルは、彼女の反応に少し戸惑いを覚えた。

「どうしたアルタリア、すまん、説明が難しすぎたか。もっと平易な言い方にしよう。」


 アルタリアはまた呆れ、今度は少し和らいだ表情を浮かべた。

「そうね。簡単な説明がいいかな。あなたのことは理解しにくい」


 トーゲルはその言葉に少し安堵しつつ、改めて彼女に向き直った。


「ねぇ、少しお腹が減らない?そこのシカの群れなんてどう?」

 アルタリアが何気なく言うと、トーゲルはうなずいた。


「うむ。私が狩ろう。岩場で待っていてくれ。」

 そう言うと、トーゲルは翼を広げて風を捉え、一気にシカの方向へ急降下した。その動きはかつてのトーゲルのように、迷いのないものだった。


 アルタリアが少し広めの岩場に腰を下ろし、羽を毛繕いしていると、トーゲルが中程度のシカを掴んで戻ってきた。


「このくらいがいいだろう。一緒に食べよう。」

 トーゲルが軽く息をつきながら言う。


「あら、どうして?」

 アルタリアはトーゲルの発言に心を引かれた。距離を縮めようとする提案ではないかと期待したが、単純なトーゲルがそんな気の利いたことを言うとも思えず、半ば自分を納得させるように問い返した。


「分け合った方が全部食べきれていい。」

 トーゲルは素っ気なく答える。彼の言葉に裏はなく、時として純粋な子供の様でもあった。


 その一言に、アルタリアは小さく笑みを浮かべた。

「そうね。あなたは変わらないのね。」

 良くも悪くもトーゲルらしい、と彼女は微笑ましく思った。少し期待していた自分が恥ずかしくなるほど、彼は駆け引きとは無縁なのだ。頑固なまでに伝統を守るトーゲルに、諦めと同時にどこか安堵を感じた。



 トーゲルはその言葉に少し押し黙り、やや間を置いてから口を開いた。

「いや、私は変わった。」

 社会に溶け込むため、そして他者を助けるために、何度も伝統を破り、自身が変化してきたことを顧みた。


 アルタリアは少し怪訝そうな顔で彼を見た。

「なにかあったの?」

 トーゲルの、後悔と迷いを秘めた目が気になった彼女は、知らなかった彼の一面に惹かれ、もっと知りたいという気持ちが湧き上がった。


 トーゲルは目の前の獲物をついばむことなく、少し視線を落として語り始めた。これまでに経験した数々の出来事を。


 狩りができなくなったこと、山に畏怖を覚えたこと、街で詐欺に遭い心を痛めたこと。商会の発展に協力する中で直面した、決断や犠牲。そして貧しい村を救うための殺戮や嘘、扇動、科学の礼賛。それらすべてを彼は隠すことなく語った。不本意であったことも多かったが、それでも旅を通じて国中を回り、多くの魔種族と出会い、数え切れないほどの教訓を得た。


 トーゲルの声は、冬の枯れ葉を踏みしめるような物憂げな響きを帯びていた。まるで吐露や贖罪のようであり、懺悔にも似た言葉だった。


「そう・・・。悪いことしちゃったのね。ごめんなさい」

 アルタリアの声は小さく、ためらいがちに響いた。かつて憧れを抱いた相手に対し一方的に失望し、怒りをぶつけた自分の未熟さに、いまさらながら胸が締めつけられた。


 トーゲルは首を軽く振り、静かな声で語りかけた。

「アルタリア、お前は何も悪くない。いずれ、自分自身が気づくことだったのだ。お前がかつてそうだったように。私は保守的に過ぎた。お前は、この世界で生き抜く術を私に教えてくれたのだ。」

 冷え切ったシカの前で、彼は語った。その言葉には、自らの過ちを受け入れ、少しずつ変わろうとしている覚悟が感じられた。


 アルタリアはトーゲルをじっと見つめながら、言葉を探すように口を開いたが、すぐには何も言えなかった。彼の落ち着いた表情にはかつての彼女が知るトーゲルとは異なる何かが宿っていた。


「お前は故郷からここに来て、伝承や伝統を捨てるほどの苦労をしてきたのだな。」

 トーゲルの声は穏やかだったが、その言葉には彼女への敬意が込められていた。


「そうね。全部捨てたってわけじゃないけど、大体は置いてきたわ。でも、大切なものはまた取り戻すつもりよ。」

 アルタリアは少し遠くを見るような目をした。

「セレナを真似しようとしたのが失敗だったわね。あんな雌だとは思わなかった。あなたと会ったその日に左遷だなんて、事情も聞かずに――ひどくない?」

 亡命後、初等教育を終えたばかの彼女は右も左もわからなかった。そこに大鷲族という特性だけを買われてファーレンス商会に引き抜かれる。才能にあふれた者たちに囲まれ、圧倒されながらも、自分の居場所を作ろうと努力した。そして目標に選んだのがセレナだった。


「当日なのか?」

 トーゲルは意外そうに眉をひそめた。アルタリアも予想外の彼を見つめる。

「私がヴィルヘルムに話したのは、その翌日だ。」


「どういうこと?じゃあ、セレナは証拠もなしに決めつけて私を飛ばしたわけ?」

 アルタリアは驚いたように問い返した。


「どうもそうらしい。」

 トーゲルの返答は短く淡々としていたが、その内容には重みがあった。


 一瞬の静寂の後、アルタリアは突然声を上げて笑い始めた。その笑い声は山間に響き渡り、やがて静かに収まると、彼女は息をつきながら言った。

「もう、ほんと馬鹿みたいよね。セレナも、私も。」


 トーゲルはアルタリアの笑いを静かに見守った。

「お前は一羽でよく耐えてきた。ここにいるだけでも、十分すごいことだ。」


 アルタリアは翼をすくめて笑ったが、その目には少しだけ涙が浮かんでいた。

「そう?自分ではそう思えないけどね。たまに、もう全部投げ出しちゃおうかなって思うこともあるわ。」


「だが踏みとどまっている。それだけで価値がある。」

 トーゲルはアルタリアを見つめながら呟いた。


 アルタリアは彼の言葉に少しだけ考え込むような表情を見せた。

「まったく・・・無神経なあなたから言われるとはね。私も落ちたものだわ」

 やがて小さく息をつき、笑った。


「なにっ?無神経なのか?」

 トーゲルはシンプルに答えると、アルタリアはまた笑った。


「なんでもないわ」

 アルタリアは軽口で流すしかなかった。



 夕日が徐々に沈むにつれ、冬の日差しが崖の踊り場を斜めに照らしていた冷たい黄金色の輝きは、次第に柔らかな橙色へと移り変わった。影はさらに長く伸び、やがて谷間の奥深くに溶け込むように消えていった。空は濃い紫色を帯びはじめ、遠くの山々の稜線がくっきりと浮かび上がる中、静寂が一層深まっていった。


 星がちらほらと顔を出し、やがて夜の帳がゆっくりと崖の上を覆っていく。冷たい空気が満ちる中、トーゲルとアルタリアは崖の一角に寄り添うように翼をたたみ、共に止まり木で休んだ。二羽は何も言葉を交わすことなく、ただ友人のような信頼と静けさの中で共に眠った。


 頭上には無数の星々が輝き、遠くで風が木々を揺らす音だけが聞こえる。トーゲルとアルタリアはそれぞれの思いを抱えながらも、互いの存在に安心感を覚えているかのように眠りについた。夜の闇はすべてを包み込み、二羽の安らぎを守るようにその場を静かに覆っていた。


 *


「ーーそれでね、『全部終わりましたよ』って報告したら、ヤギは放牧してた家畜だったの。すごく怒られたわ。」


 山からの日の出を迎えた後、アルタリアとトーゲルは冬の澄んだ青空を飛びながら雑談を交わしていた。二羽の飛行は風に乗るように滑らかで、時折翼が触れそうになるほど自然に並んでいた。

 眼下には、薄く雪化粧をまとった丘陵地帯が広がり、凍りついた川が蛇行しながら陽光を反射して輝いている。遠くには青白い山々が霞むように連なり、冷たい風が二羽の羽を優しく撫でていた。


 雑談の内容は他愛もないもので、互いに見た景色や過去の経験談を語り合っていた。その言葉のやり取りに特別な深さはなかったが、自然と気持ちが通じ合う心地よさを共有していた。


「家畜のヤギもいるのか。知らなかった。」

 トーゲルがぽつりと言うと、アルタリアが少し得意げにうなずいた。


「でしょ?言われなきゃわからないのに。それじゃ、あなたの番よ。まだあるんでしょ?」


「うむ。これはどうだ。挨拶のやり方がわからず色々試したが、笑われてしまった。あれは失敗だった。」


「そうなの?なんて言ったのか気になる。」


 トーゲルは一拍おいてから、少し真剣な表情で話し始めた。

「ヴィルヘルムが来た時にこう言ったのだ。」


『へぃヴィルじゃないか!俺だよトーゲルだ!元気してたか?今度一緒に狩りでも行こうぜ!』


「・・・と挨拶した。それを聞いた二匹が大笑いしてーーー」


 突然、トーゲルは気がついた。先程まで隣で飛んでいたアルタリアの姿がない。慌てて周囲を見回し、下方を見下ろすと、アルタリアが羽を動かすことなく急速に高度を下げているのが目に入った。


「アルタリア!」


 トーゲルは声を上げ、すぐさま彼女の後を追った。冷たい空気を切り裂くように激しく羽ばたき、一気に高度を落としていく。墜落の理由も分からぬまま、彼の心には焦りが広がっていた。

 彼女は落ち続けていたが、トーゲルが鈎爪で掴もうと体勢を整えた瞬間、アルタリアは羽ばたいて姿勢を直し、何事もなかったかのように水平飛行へ戻った。トーゲルは一瞬息を呑み、安堵しながら彼女の横へ並んだ。


「無事か、アルタリア。どうしたのだ。」

 トーゲルが問いかけると、アルタリアは翼を震わせながら涙を浮かべて笑っていた。


「あー、笑い死ぬかと思ったわ。」

 声を震わせながらも、彼女の表情には満面の笑みが浮かんでいる。


「トーゲル、酷いわよ。私を殺す気?」

 笑顔のまま、わざとらしく睨みつけるアルタリアに、トーゲルは困惑したように首を傾げた。


「何が起こったのだ?本当に大丈夫か?」

 トーゲルの真剣な声に、アルタリアはますます笑いをこらえられない様子で、翼を軽く動かしながら耐えていた。


 アルタリアは片方の翼で軽く風を切りながら、ようやく笑いを落ち着けた様子で答えた。

「ふぅ、大丈夫よ、何も問題ないわ。ただ、あんな挨拶を思い出したら・・・あなたらしいわ。」


 トーゲルは真剣な顔で少し間を置いてからぽつりと言った。

「挑戦し過ぎて私らしくなかったのは学習した。あれは親しい間柄での用法だ。」


 その返答に、アルタリアは再び吹き出しそうになりながらも、どうにか笑いを堪えていた。

「そうね、親しい間柄になったらまた使ってみて。」


 二羽の間に一瞬の沈黙が訪れたが、冷たい風に乗って進む中、アルタリアが軽く息をついて言った。

「でも、ありがとうね、トーゲル。さっきは本気で助けに来ようとしてくれたでしょう?それ、少し嬉しかったわ。」


 トーゲルはちらりと彼女を見てから、少しだけ視線を逸らしながら答えた。

「当然だ。同族の窮地を助けるのは伝統だ。」


「伝統だけ?」

 アルタリアが少し笑みを浮かべながら問いかけると、トーゲルは一瞬考え込んだ後、真面目に答えた。


「親しい間柄だから、には該当しないか。アルタリアと会った回数は、まだ二回だ。」


「そっか。また今度会えたら、親しい間柄になれる?」

 彼女の問いに、トーゲルは少しだけ首をかしげて答えた。

「おそらくそうだ。」


 アルタリアはその言葉に満足したように小さく頷き、ふいに言った。

「じゃあ・・・もう石がいっぱいだから、そろそろ支店に戻るわね。」


「うむ。またどこかで会おう。」

 トーゲルの素っ気ないようで誠実な言葉に、アルタリアは少しだけ笑みを浮かべた。


「そうね。次に会えたら、契の名を交換しない?」

 アルタリアは極めてさり気なく告げた。しかし、その言葉には特別な意味が隠されていた。大鷲族の中でも、特に契の名を持つ部族では、それを交換するのは親友として認めた相手か、つがいを申し込む時だけだった。


「うむ。わかった。」

 トーゲルは即答した。

 そんな彼を見て、アルタリアはくすくすと笑い声を漏らした。その笑みにはどこか楽しげな色が含まれていた。


「約束よーーー」

 アルタリアはそう言うと、軽やかに翼を翻し、進路を変えた。彼女の姿は徐々に小さくなり、やがて青空に溶け込むように消えていった。


 トーゲルはその後ろ姿が見えなくなるまで、じっと目で追い続けた。冷たい風が彼の羽を撫で、谷間の木々は雪化粧のまま静かに輝いている。昇り始めた冬の太陽が、川面と丘陵地を淡い銀色に染め上げていた。


 *



 トーゲルの旅は終盤に差し掛かり、西南のランゲンフェルト州からアルビニーに接するハウプトシュタット州へと空中踏査を続けていた。旅路が西の国境に近づくにつれ、訪れる場所で戦争の影響を目の当たりにするようになった。


 国境近くの商館。これら支店は兵站業務が優先され、事務員を半日拘束するだけで不満の声が漏れていた。物資が客室や倉庫に溢れ返り、宿泊施設も不足していたため、トーゲルは商館の屋根にある止まり木で夜を過ごすこともあった。商館内部も、戦時が直面する厳しい状況が浮き彫りになっていた。


 オルクセン国境付近、トーゲルは戦火が激しいとされる川沿いの湿地帯へ向かった。泥に埋もれるようにグロワール、キャメロット、オルクセンの兵士たちが命を落としていた。各地で黒煙が立ち昇り、焼け焦げた村や荒れ果てた田畑が散在している。かつて賑わいを見せていた街道には、兵士たちの行軍の跡が刻まれていた。川沿いには砲台が整然と並び、兵士たちが忙しなく動き回る姿があった。遠くでは、旗を掲げた部隊が丘を越えて進軍し、点在する野営地や補給拠点が目に入った。


 トーゲルは空を飛びながら、微かに伝わる魔術通信の波動を感じ取った。大鷲族たちが空中で敵の動きを監視し、その情報を地上部隊へ送っていることがわかった。それは単なる飛行ではなく、戦場の一部として果たす重大な役割だった。彼らの行動は、地上の兵士たちが戦いを続けるために欠かせない目となっていた。


 徴兵された者もいれば、志願して任務に就いた者もいただろう。背景は違えど、その目的は同じだった。広範囲を見渡し、敵の動向を正確に把握し、それを地上へ伝える。その任務には常に危険が伴い、敵からの攻撃を受ける可能性もあった。それでも彼らは飛び続けていた。彼らの背後には国を守るという使命があり、下には命を賭けて戦う地上の兵士たちがいた。自由に飛ぶはずの空が、生き延びるための戦場へと変わった彼らの姿は、大鷲族が戦争に巻き込まれた現実を如実に映し出していた。


 トーゲルは、同じ大鷲族でありながら異なる道を選んだ自分との違いを静かに考えた。いや、自分は商会の保護下にあり、選んですらいない。その庇護に守られているだけではないのか――そう自問した。彼は「私とは関係ない」と割り切ることはできなかった。目の前に広がる戦争の過酷な現実が、それを許さなかった。同じ空を飛びながら、異なるものを背負った彼らを見届けながら、トーゲルは風に身を任せて再び飛び続けた。


 数日後、彼は雪に覆われた森を見下ろしながら飛んていた。その先に倒木のそばに座り込む兵士を見つけた。彼の装備は泥にまみれ、外套は裂けていた。孤立しているように見えた兵士の姿に引き寄せられるように、トーゲルは高度を下げた。慎重に距離を取りながら様子を観察すると、兵士は微動だにせず、頭を垂れたままだった。降り立って初めて、彼の肌が青白く凍りついていることに気づいた。その姿勢は疲れ果てて座り込んだまま、永遠の眠りについたようだった。トーゲルは胸に鈍い痛みを覚えながら、その場を離れた。倒木に何か刻まれているのが見えたが、読むことはしなかった。静かに翼を広げ、再び空へと舞い上がった。空高く舞い上がりながら、トーゲルは森に取り残された兵士の姿を振り返った。雪が降り続く中、戦争の痕跡が広がる地上が彼の視界に映り込む。それでも、あの兵士は争いから解放され、静かな安らぎの中にいるように見えた。



 トーゲルは地平線の向こうにいる仲間たちを思い浮かべながら、大きく翼を広げ、ラピアカプツェの方向へと向かった。




 オルクセン全域単独資源踏査は、戦乱の前に何もできぬまま、その役目を終えた。


正月休みはインフルエンザで寝込んでいました。ストックが減っているうえに、追いつかれそうです。


健康は大事ですね。


いつもいいねをありがとうございます。応援だけが原動力です

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