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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
第三章 勤労の翼
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博士の畑への愛情

 ヴィルヘルム・ヴァルトマン博士は、ファーレンス商会が用意した乗り合い馬車に同乗し、ラピアカプツェ農業大学から首都ヴィルトシュヴァインへと向かっていた。馬車は簡素な設計ながらも密閉型のベルリン型であり、そのおかげで、多くの宿場を経由する10日の長旅も比較的快適に過ごすことができた。


 旅費や宿泊費はすべて商会が負担しており、それは単なる経済的援助を超え、商会がヴィルヘルムにどれほど大きな期待を寄せているかを物語っていた。だが、彼自身は大学の恩師への義理を果たすためにこの旅に出ただけだった。


 ヴィルヘルムは、揺れる馬車の中で窓越しに流れる景色をぼんやりと眺めていた。その顔には不満げな表情が浮かび、時折鼻を鳴らして苛立ちを抑えようとしているようだった。頭の中では、置いてきた畑のことが気にかかっていた。「あの連中にちゃんと面倒を見てもらえるのか・・・」と心配が募る。


 彼の服装は清潔感こそあったが、あまりにも実用的すぎる野良着で、どう見ても面接用とは言えない代物だった。これには理由がある。指導教官であるブレンターノ教授に半ば強引に説得され、慌ただしくカバンに詰め込んだのは、書斎にあった同僚の服――少し古びた学者然とした借り物だった。どうにも自分には馴染まず、気が進まない。「着飾って何かが変わるわけじゃない」と、ヴィルヘルムは心の中で嘆息した。それでも、さすがに野良着のままで大商会のトップに会う非常識さは理解していた。だからこそ、面接の直前には、その借りた上着に着替えるつもりだったが、それまではせめて少しでも自分らしい格好でいたかった。


 馬車には他にも数名の同乗者がいた。オーク族、ドワーフ族、コボルト族と、いずれもファーレンス商会の面接を受ける予定の者たちだ。その中でもひと際目立つのは、きらびやかな刺繍が施された上着を身にまとった中年のオーク族紳士だった。彼はヴィルヘルムを一瞥し、わざとらしい笑みを浮かべながら声をかけてきた。


「君もこれから面接かね?ずいぶんと・・・素朴な装いだな。商会も随分幅広く人材を集めているらしい。」


 その言葉に、他の同乗者たちもくすくすと笑い声を漏らす。ヴィルヘルムは眉をひそめながらも、わざと聞こえないふりをして窓の外へ視線を移した。差別や嘲笑はこれまで幾度となく経験してきたことだ。特に気に留めることもなく、そんなことで動揺して時間を無駄にするほど暇ではない、と冷静に自分に言い聞かせていた。


 馬車が石畳を踏みしめるたびに揺れが激しくなる中、ヴィルヘルムは座席の肘掛けを強く握りしめた。「面接なんてさっさと済ませて帰ってやる」と心に決めつつも、商会が自分にどんな期待をかけているのか、気になってもいた。


 *


 いよいよ首都に入る日、ヴィルヘルムは出発前の宿で面接用に用意された小洒落た服に着替えた。とはいえ、それは借り物で、袖や裾が明らかに丈不足だったが、彼はまったく気にしていなかった。「こういう場では体裁さえ整えれば十分だ」と割り切っていた。


 ヴィルヘルムが馬車の窓から外をぼんやり眺めていると、速度が少し上がり、周囲の景色が変わり始めた。見慣れた農村の風景は徐々に活気ある都市の様相へと移り、石畳の道沿いには赤い屋根の建物が立ち並ぶ。遠くには整然とした建物の列が広がり、首都ヴィルトシュヴァインの近代的な都市の姿が現れた。同乗者たちからは感嘆の声が漏れる。


「見たまえ、これがオルクセン王国の中心だ。壮観だろう?」


 きらびやかな刺繍の上着を着た紳士が自慢げに言う。ヴィルヘルムは特に返事をすることもなく、視線を街の遠くに向けた。はるか彼方には、王宮と思われる巨大な建造物が太陽の光を反射して輝いていた。


 馬車は市街地に入り、石畳を踏む音が響く中、周囲には行き交う人々や荷車が溢れていた。店先からは商人たちの呼び声が聞こえ、活気に満ちた様子が広がっている。馬車が大通りを抜ける間、ヴィルヘルムは忙しなく動き回る魔種族たちの姿に目を止めた。これほど多くの魔種族が集まり、目的を持って行動する光景は、彼にとって久々のものだった。


 やがて、馬車が高い門の前で止まった。門には精巧な鉄細工が施されており、中央には「ファーレンス商会」の紋章が掲げられている。その奥には威圧感すら覚える巨大な建物が聳え立っていた。白い石造りの壁には金色の装飾が施され、大きな窓ガラスが太陽の光を受けてきらめいている。屋根にはいくつもの塔がそびえ、建物全体が権威と富の象徴であることを雄弁に物語っていた。


「さあ、ここが目的地だ。」


 紳士が満足げに告げると、同乗者たちは一斉に馬車から降り始めた。ヴィルヘルムもカバンを手に取り、ゆっくりと馬車を降りた。彼の目にまず飛び込んできたのは、建物そのものではなく、整然と手入れされた中庭の庭園だった。そこに植えられた草木は生気に満ち、葉の色艶や茎の張り、そのどれもが完璧で、思わず立ち止まるほどだった。


「行くぞ。遅れを取ると、印象が悪くなる。」


 紳士が急かすように歩き出すのを横目に、ヴィルヘルムは一歩ずつ足を運んだ。噴水が水を弾けさせながら陽光を反射して輝いている。庭園を横切りながら、彼はこれがただの商会ではなく、まるで王侯貴族の宮殿のような場所であることを改めて実感した。

 正面の大扉の前に立つと、案内役と思われる使用人が恭しく頭を下げて扉を開けた。扉の向こうには、大理石の床が光を受けて滑らかに輝き、天井には壮麗なシャンデリアが吊るされていた。まるで別世界に足を踏み入れたような感覚に、ヴィルヘルムは思わず吹き出すのを堪えた。

 案内役に続いて長い廊下を進むと、ヴィルヘルムは広々とした待合室に通された。天井が高く、大きな窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。部屋の中央には重厚な木製テーブルがいくつも並び、その周りではスーツを着た多様な魔種族の紳士たちが書類を確認したり、小声で議論を交わしていた。

 ヴィルヘルムは部屋の隅に腰を下ろし、そんな様子をじっと観察していた。

 部屋の一角では、コボルト族の秘書らしき雌がリストを手に順番に名前を呼び上げている。呼ばれた者たちは背筋を伸ばして自信ありげに執務室へ向かうが、戻ってくるときの様子はさまざまだった。肩を落とす者、悩んだまま歩く者、静かな歩みながらも有頂天を隠せない者もいた。

 その光景は市場での買い手と売り手の価格交渉を思い起こさせ、彼は内心で苦笑する。「結局、商会も同じか。豪華な衣装で肉を買ってやがる。」


 順番待ちは続き、ヴィルヘルムは軽くため息をつきながら、中身のないカバンに目を落とした。借り物の衣服を着た自分がこの場に馴染むとは到底思えなかったが、周囲を観察するうちに、次第にその状況が面白く思えてきた。

 やがて、秘書の声がヴィルヘルムの名前を呼んだ。部屋のざわめきが一瞬静まり、数人の視線が彼に向けられる。ヴィルヘルムはゆっくりと立ち上がり、「さて、さっさと終わらせて帰るか」と心の中でつぶやきながら、カバンを持ち直して一歩を踏み出した。


 案内役に続いてヴィルヘルムが執務室の扉をくぐると、先ほどの待合室をさらに上回る空間が広がっていた。天井は高く、大きな窓から光が差し込む。壁には模様が彫られた木製のパネルが施され、天井からはクリスタルのシャンデリアが光を反射して輝いている。床には深紅の絨毯が敷かれ、中央に置かれたデスクは精巧な細工が施されたマホガニー製だった。机の上には幾何学模様のデスクマットが敷かれ、書類が整然と並べられている。

 そのデスクの向こうには、イザベラ・ファーレンスが立っていた。薄紫色の絹やサテンのドレスを身にまとい、ウエストを締めたエンパイアラインがシルエットを引き立てている。ドレスには刺繍が施され、同系色のリボンがアクセントとなっていた。頭には小花飾りをあしらったベルベットの帽子をつけ、耳元ではゴールドのイヤリングが揺れている。


 イザベラの背後には大理石の暖炉があり、その両脇には本棚が整然と並んでいる。革張りの書籍が詰まったその本棚は、この部屋の主の知性を物語っていた。

 執務机の正面には、来客用として椅子がひとつだけ配置されていた。木製のフレームには細やかな彫刻が施され、座面には緋色の布が張られている。ヴィルヘルムは椅子を一瞥し、無造作に腰を下ろした。

 イザベラは椅子に深く腰掛けたまま、机に軽く両手を置き、視線をヴィルヘルムに向けた。その眼差しには観察するような鋭さがありつつも、相手を受け入れようとする柔らかさを感じさせた。



「ヴァルトマン博士、まずはお越しいただいたことに感謝いたします。お話を伺うのを楽しみにしておりました。」

 イザベラの声は執務室の広い空間に心地よく響き渡った。その一方で、彼女の態度からは、これまでに多くの来訪者と商談を重ねてきた経験が感じられた。


 ヴィルヘルムはしばらく彼女の言葉を受け止め、考えを巡らせていた。この場における彼女の強さは、豪華な装飾や広々とした空間ではなく、その洗練された態度と的確な言葉にこそあると感じた。

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。私のような者をお招きいただいた理由を伺えるのを楽しみにしておりました。」

 ヴィルヘルムは用意していた返事を落ち着いた声で伝えた。イザベラは軽くうなずきながら、ヴィルヘルムを調査した報告書を手に取り、視線を戻した。

 イザベラは微笑を浮かべつつ、静かに本題を切り出した。


 彼女が語る内容は、ファーレンス商会が現在ラピアカプツェ州都近郊の広大な麦畑を買い上げ、そこにガラス製温室や研究設備を多数建設しているという計画だった。その目的は、高付加価値作物や医薬品に用いられる高機能薬草を主力とした実験農場を設立することであり、その責任者として初代農業運営長にヴィルヘルムを任命したいというものであった。


 ヴィルヘルムは苦笑しながら、椅子に深く座り直した。

「大学の近くで何かしてるとは思ってたが、あんたが仕切ってたわけか。おっと、失礼。つい地が出ちまった。」


 イザベラは軽く首を傾げながら、優雅に微笑む。

「そのままで結構ですわ。率直な方だと伺っています。」


 ヴィルヘルムは肩をすくめ、手を机の縁に置いた。

「じゃあ遠慮なく言わせてもらうよ。正直、俺が呼ばれた意味がまるで分からん。俺は金持ち相手の珍品より、腹がふくれる食い物のほうが性に合ってる。畑が専門の俺が温室なんて分かるわけがない。それに、大学での俺の評判、知ってるんだろ?その報告書の8割は悪口じゃないのか?」


 彼女は小さな笑い声を漏らしながら、わずかに首を振った。

「大げさですわ。そうですわね、7割といったところでしょうか。」


「意外と人望あったんだな。」


 彼女は、ヴィルヘルムの皮肉めいた言葉にも動じることなく、微笑を保ちながら話を続けた。

「現在、我が国はグロワールとの戦争状態にあります。このような状況では、国からの助成を得るために食糧増産を掲げることが必須条件です。そのため、新農場では高付加価値作物の研究を進めていきますが、同時に食糧増産も計画に含まれております。ヴィルヘルム博士、あなたなら、この新農場で存分にその腕を振るうことができると確信しております。」


 ヴィルヘルムは一瞬黙り込み、視線を机上の書類に落とした。そして、ほんのわずかな間を置いてから、低い声で言葉を返した。

「なるほど。つまりあんたに必要なのは、俺という建前だな。俺が責任者になれば、国も『畑が主力』と信じ込んで支援するだろう。感心するよ、うまいアイデアだ。俺が気づくまではな。」

 その言葉には、皮肉とともにわずかな怒りを含んでいた。ヴィルヘルムはイザベラをまっすぐに見据えつつ、口元に薄く笑みを浮かべた。


「いい読みですね、ヴァルトマン博士、お見事です。お呼びした甲斐がありました。」

 彼女は軽くうなずき、目の前の書類を手に取った。


 ヴィルヘルムが椅子から腰を浮かせかけた瞬間、彼女は微笑みを崩さぬまま、

「ですが、私はそこまで浅はかな雌ではありませんよ。」

 静かにそう言い放った。


 その一言にヴィルヘルムは戸惑い、再び椅子に深く腰を下ろした。彼女の真意を探るように、その顔をじっと見つめる。しかし、彼女の表情は余裕そのもので、冷静な眼差しを返してくるばかりだった。


「博士、先程の7割ですが、それらはすべてあなたの実績への嫉妬に過ぎません。」

 彼女は書類を軽く指で叩きながら続けた。

「学位があるのに泥にまみれ、下品な物言いをしながらも成果を出す。私はそれらを好評価と読み取りました。着飾らないあなたを、みな心のどこかで羨ましがっているのです。」


 ヴィルヘルムは言葉を返さず、考え込むように視線を落とした。

 ーー俺は魔種族を見る目がないな。こいつは、ファーレンス夫人は自身が悪趣味なほど着飾っているのに、相手にそれを求めていない。いや、着飾ることすら武器にしているのか。これほど周到に相手を欺くとは・・・エルフィンド難民と聞いていたが、一気に上り詰めた手腕は伊達じゃない、か。


 彼は短く息をついてから視線を上げた。

「念のために聞くが、俺がエルフィンド難民だからって、同郷のよしみで雇うわけじゃないよな? その辺も調べてあるんだろ?」


 彼女は一瞬目を細め、静かに答えた。

「そうですね。『はい』でもあり、『いいえ』でもあります。」


「つまり?」


「その背景も含めて、あなたが適任だと判断しました。」


 彼女の声は淡々としていたが、その響きには迷いがなかった。

「字も読めなかったあなたは単身で亡命し、初等教育から今の地位にまでたどり着いた。それは生半可なことではありません。その胆力を買っています。」


 ヴィルヘルムは短い間を置き、ふっと笑みを浮かべた。

「それはこちらのセリフですよ。」

 思わず敬語が出てしまったが、彼に後悔はなかった。


 ーー完全に見誤っていた。俺をお飾りにするつもりはなかったのか。本気で使いこなそうとしている・・・恐ろしい雌だ。彼女はドレスを着て、今でも泥の中で戦い続けているんだな。

「この話、謹んでお受けします。」

 ヴィルヘルムはそう言うと、座ったまま深々と礼をした。その姿には、これまでの皮肉めいた態度とは異なる真摯さが込められていた。


 イザベラは微笑を浮かべながら頷いた。

「話が早くて助かります。詳細は秘書に伝えておりますので、どうぞお聞きになってください。」


「わかりました。」

 ヴィルヘルムは椅子から立ち上がりかけたが、ふと何かに気づいたように、再び腰を下ろして口を開いた。

「いくつか条件・・・いや、お願いがあります。よろしいでしょうか。」


 イザベラは軽く目を細め、興味深げに彼を見つめた。

「なんでしょう?」


「私の妻も参加させたい。妻は二年草が専門で、身贔屓を割り引いても十分有能です。」


 イザベラはすぐに微笑みを深めた。

「存じておりますわ。当然、移籍していただけるものと考えておりました。お子さまと一緒に越していらっしゃって。」


 ーーこの雌には叶わないな。どこまで先を読んでいるんだか。

 ヴィルヘルムは小さく息をつき、もう一つのお願いを口にした。

「あと、支度金をいくらかお願いしたい。」


 イザベラは少し驚いた表情を見せたが、すぐに快く応じた。

「それは予想外ですわね。もちろんご用意しますけれど、お引越しの費用は商会が負担しますわよ?」


 ヴィルヘルムは首を横に振り、苦笑を浮かべた。

「いや、あなたと次に会う時までに、失礼のない服を揃えておきたい。」


 イザベラはクスリと笑い声を漏らした。

「そうですか。今も素敵ですけれど、わかりましたわ。」


 ヴィルヘルムは一礼しながら席を立ちかけたが、再び足を止めた。

「最後にもうひとつ、この本部のことですがーー」


 イザベラは首をかしげた。

「あら、装飾に興味がないと聞いていましたのに。」


「いえ、ここの庭師と話しがしたいんです。いい庭で驚きました。最高の人材を揃えてらっしゃる。」


 イザベラはその言葉に再び笑みを浮かべた。

「今も一匹増えましたわ。」


 ヴィルヘルムはその切り返しに一瞬たじろぎながらも、軽く頭を下げた。

「努力します。ご無礼失礼しました。」


 イザベラは微笑を保ったまま、ヴィルヘルムを見送った。


 かくして、ヴィルヘルムはファーレンス商会ラピアカプツェ農業技術試験場の初代農業運営長として、その責務を受け入れることとなった。州都近郊のラピア農試は、単なる作物の栽培地ではなく、彼にとって新たな挑戦の場であり、未知の領域への第一歩となる。


 イザベラ・ファーレンスのもとを後にしたヴィルヘルムは、背筋を伸ばし、軽く息をついて外の光を見上げた。これから待ち受けるのは、畑だけではなく、責任者という未開の地。そして、その向こうに広がる商会組織だった。



「さて、どんな畑にしてやるか。耕してやるから待ってろよ。」


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