村を救う殺戮
大鷲族のトーゲルは、空中踏査の旅で強風に見舞われ、名も知らぬ村に避難する。自給自足の生活を営む村人たちは困窮しており、彼らの状況に心を痛めたトーゲルは、自らの知識を惜しみなく伝える。リン鉱石や害虫対策の技術を教えたが、村人たちの経験と自負に阻まれる中、トーゲルは科学の力を信じる未来を語る。しかし、自然と共存してきた自分が、科学絶対主義に依存する言葉を紡ぐことに心を裂かれる。彼は村を救う希望を抱きながら、己の信念との葛藤に苦しむのだった。
「トーゲルさん、僭越ですが、こちらを作りました。よろしければお持ちください。」
商館前、冷たい風が吹きすさぶ中、見送りに集まった職員たちを代表して、モニカ館長が一歩前に進み出た。その手には、彼女が一晩を費やして仕上げた引き継ぎ書があった。
その書類は、トーゲルのこれまでの指示を余すところなく書き起こしたものであった。地図の目盛りを事前に記入すること、五匹の事務員で同時に筆記を行うこと、地元の植生に詳しい職員を多く集めること、暖炉は許可するが石炭は厳禁であることなど、ティールヴィルト支店で実施された内容が細かく書き記されていた。トーゲルはこの書類を見せるだけで指示を伝えることができる仕組みとなっていた。また最後には、こう記されていた。「トーゲル様は意見を尊重される方です。良い考えがあれば積極的に述べてください。新たな方法が見つかれば、迷わずこの紙に追記してください。それが、次の支店への最善の引き継ぎとなるでしょう。」
「うむ、素晴らしい書類だ。モニカ館長、心から感謝する。皆の知恵にも感謝している。」
その言葉に見送りの職員たちの表情がほころぶ中、トーゲルは翼を広げた。
こうして彼の空中踏査はさらに効率化され、各支店は最初の戸惑いを越え、洗練された体制で迎えるようになっていった。
全域単独資源踏査の諸問題の多くが解決したことで、トーゲルの空中踏査は順調に進展し、ヴラウヴァルト州やフェルゼンハント州を通り、ロヴァルナに接するオルクセン東端まで到達した。その後、さらに南下し、アスカニアに接するパラストブルク州へと調査を進めた。
ファーレンス商会の商圏や物流網はオルクセン王国全土に広がっており、その都度商会からのバックアップを受けることができた。本部からの通達もあり、各地の商会支店は協力的な姿勢を見せていた。しかし、南に進むにつれて次第に奇異な目で見られるようになり、どこか他人事のような雰囲気が漂い始めた。
南部は地理的に孤立しており、商会本部からの支援が届きにくい地域であることが影響している可能性があった。また、大鷲族がまだ珍しい存在であったことも一因であった。大鷲族はかつてエルフィンドに生息していた魔種族だが、エルフィンドの「害獣駆除」政策により隣国オルクセン王国に亡命した経緯がある。
エルフィンドに近い地域では大鷲族の存在が知られているが、国境から遠く南東部へ行くほど、その認知度は低くなる。噂程度でしか知られていないか、たまにしか見ない縁遠い存在と見なされることが多かった。
トーゲルはまたこれまでとは違うやりにくさを感じていた。
オルクセン南東、パラストブルク州ヘーネンバッハ支店へ向かっていたトーゲルは、途中の丘陵地帯で飛行困難な強風に見舞われた。空を生活圏とする大鷲族は、気象の変化に対して鋭敏な感覚を持っているものの、見知らぬ地形が引き起こす気象変化を的確に読み取れないこともある。そのため、予測が外れることも珍しくない。通常は引き返すか進路を変えることで対応するが、今回は風向きが入り乱れ、そのどちらも叶わなかった。やむを得ず、トーゲルは目についた村に避難することを決断した。
暴れる風を何とか読み切り、トーゲルは名も知らぬ村に降り立った。地上は上空より穏やかなはずだが、それでもなおよろめくほどの風であった。
時刻はすでに朝をだいぶ過ぎているが、村民の姿は一匹も見当たらず、トーゲルは全身の羽をはためかせながら途方に暮れるばかりだった。
名も知らぬ村は、丘陵地帯の斜面にへばりつくように点在する家々で構成されていた。急な屋根を持つ木造の家々は、強風に耐え抜くためか石造りの基礎で支えられており、その屋根は厚い藁や木材で覆われている。多くの家には補修跡が見られ、長年この過酷な環境に耐え続けていることがうかがえた。村の中心には小さな広場があり、その中央に年代を感じさせる手掘りの井戸がぽつんと立っていた。
家々の窓はしっかりと閉ざされ、雨戸が風に煽られてカタカタと音を立てていた。村の周囲には木々が防風林のように植えられていたが、その多くは風に逆らうように斜めに成長しており、この地域の厳しい自然を物語っている。
村外れの農地では、石を積んだ低い柵で囲われた区画が広がり、地面にへばりつくように育つ根菜類や冬の冷気に耐える麦がわずかに残っていた。農地の一角には石造りの囲いがあり、中には数頭の乳牛が風を避けながら干し草を食んでいた。牛たちは、頑丈な体格と厚い冬毛で冷たい風に耐えつつも、のんびりとした様子で草をかじり続けている。その静かな振る舞いは、村の生活において重要な役割を果たしていることを物語っていた。牛たちは乳や肉だけでなく、堆肥の原料としても重宝されており、この村の農業と暮らしを支える欠かせない資源であることがうかがえた。
農地の近くには大きな農業用の倉庫があり、風で壊れかけた戸が揺れていた。倉庫内には農具や干し草が散乱しており、広さがあるものの、壊れた扉から吹き込む強風で完全な避難場所とは言えなかった。それでも、この村が自然と共存しながら暮らす人々の生活を感じさせた。
トーゲルは開いた扉から村の畑を見渡した。畑は荒れ地と化し、一部は雑草に覆われ、また一部は泥が露出していた。排水溝もなく、雪解け水が浅い窪みを作っているのが一目で分かる。近くの家畜小屋の周囲には糞と藁が積まれているが、それが堆肥化される気配はなく放置されていた。さらに、畑の端には野イノシシが掘り返した跡が広がり、村の困窮ぶりが痛ましいほど明らかだった。
トーゲルはラピア農試で見慣れた整った農地とは明らかに異なるこの光景に違和感を覚えた。そのとき、倉庫の死角から、忍び足で近づく足音が聞こえた。
「待ってくれ。私は強風で避難してきた大鷲族だ。風が止むまでここにいさせてほしい。」
トーゲルは少し声を強めて足音の主に呼びかけた。すると、足音の主が姿を現した。それはクワを構えたオーク族の雄の農夫で、まだ警戒心を解いていない様子で慎重に近づいてきた。
「あんた、噂の大鷲族か?こんなところに何の用だ?」
農夫は距離を取りつつ低い声で問いかけた。トーゲルは冷静に状況を説明した。現在、ファーレンス商会の指揮下でオルクセン全土を巡りながら鉱山や珍しい植物の探索を行っていることを話した。その壮大な計画に、農夫は驚きの表情を浮かべながら話を聞き入った。
農夫は自分たちの状況について語った。この村はツァイゲンホーフの外れにある名もなき小さな村で、住民は15匹。ほぼ自給自足の生活を営み、たまに来る行商人と最低限のやり取りをする程度で、外部からの訪問者はほとんどいないという。農夫は自らをマイヤー・ベルンハルトと名乗り、この村の中核的な人物であることを明かした。今は強風のため、村人たちは皆、家に閉じこもっているのだという。
トーゲルは、マイヤーの言葉から、この村が孤立した環境に置かれ、その背景には厳しい自然条件や経済的困難があることを感じ取った。
「すまないが、肉はあるか?売ってもらいたい。」
トーゲルは強風の中を飛び続けて体力を消耗しており、空腹を隠せなかった。
「ああ、少しならある。ソーセージでいいか?」
マイヤーは快く応じようとしたが、トーゲルは首を振りながら言った。
「いや、私は加工されたものは食べられない。生肉が必要なのだ。」
マイヤーは少し驚いた様子で考え込んだ。
「なるほど・・・大鷲族の食性というわけか。けどな、今年は不作で、飼料が足りなくってな。豚は早々に潰してしまったんだ。牛は何頭かいるが、乳を取るのに必要だから簡単には売れない。」
トーゲルは状況を理解しつつ、さらに尋ねた。
「では、買いに行くことはできるのか?」
マイヤーは頭を振りながら答えた。
「いや、無理だな。近くの農場でも数日かかるし、あんたも、この強風の中じゃ飛べないだろう?」
村の厳しい現状が、トーゲルに徐々に伝わってきた。彼は、自分が空腹で困っている以上に、この村の人々が食糧確保に苦労している事実に思いを巡らせた。
「うむ、やはり牛を売ってくれ。金は足りると思う。風が収まったら改めて別の牛を買ってはどうだ?」
「そこまで言うなら売るが・・・高いぞ?500ラングはする。」
「うむ、足りる。銀貨しかないので、17枚払おう。いや、解体も頼むので20枚にしよう。それでいいか?」
「お、おお。もちろんそれでいい。だが・・・あんた一人で食い切れるのか?」
「食べきれない。なので、私の数日分を残し、残りは村で分けてくれ。」
マイヤーは目を丸くして驚いた。
「本当か?そりゃありがたい話だ。みんな喜ぶぜ!すぐに取り掛かる。」
そう言うと、マイヤーは駆け出そうとしたが、トーゲルに呼び止められた。
「待て、先に金を渡す。食べてから『持っていなかった』では困るだろう。」
「そ、そうだな。ありがたく受け取るぜ。」
マイヤーはしっかりと銀貨を確認し、満足げに頷いた。肉を村で分けることを考えると、マイヤーの足取りは自然と軽くなっていた。
トーゲルは、久しく感じていなかった農民の素朴さを噛み締めた。これまで、幾度となく街での交渉や取引に関わってきたが、そこにあるのは常に欺きや騙し合いだった。都市部での生活は用心深さを強め、互いに隙を見せまいとする冷淡な関係を育てていた。それゆえ、マイヤーの無防備なほどの素朴さが心に響く一方で、それが危うさでもあると感じずにはいられなかった。
そして、寒風が吹き荒ぶ中、村の倉庫で即席の宴が準備され始めた。
全員がオーク族であった。遠方であるオルクセン南東の地域ではエルフィンド難民は来ないため、元から住んでいるオーク族が多い。トーゲルには手近な丸太を使った止まり木が用意され、彼は倉庫の端で静かにその様子を見守っていた。壊れていた扉は応急修理され、気密性が高まり冷気の侵入を防いでいた。倉庫の中心には石を囲った即席の焚き火が組まれ、上部の換気口から煙が外に逃げるよう工夫されている。
村民たちは持ち寄った野菜を次々と運び込み、雌たちがそれらを手際よく下ごしらえしていた。その横では、雄たちが牛の解体を手際よく進めている。解体された肉の香りが漂う中、彼らは興奮を抑えきれない様子でトーゲルに確認を求めてきた。
「この皮はどうします?もらってもいいのか?」
「足も必要なら取っておくが、どう処理しておく?」
それぞれの問いに、トーゲルは落ち着いた口調で応じた。
「数日分の肉以外はみんなで分けてくれ。」
その言葉が響くたびに、倉庫内には歓声が湧き上がった。村人たちは目の前の肉を宝石でも見るかのように扱い、次々に顔を輝かせていた。その様子に、トーゲルは驚きと共に、彼らにとって肉がどれほど貴重なものかを改めて実感した。
村人たちは肉を分け終わると、次に脂肪や骨の処理に取り掛かり始めた。大柄なオークの雄たちが、脂肪の塊を慎重に切り取り、別の木製の容器に集めている。若い雌たちはそれを手早く溶かしてラードを作る準備を始めた。倉庫の一角に設置された小さな鍋に火が入れられると、脂肪の塊が次々と鍋の中で溶けていく。
「これは・・・蝋燭にするのか?」
トーゲルが興味深そうに尋ねると、近くにいたマイヤーが答えた。
「蝋燭にもなるが、主には肉の保存や調理に使うんだ。脂肪で覆って密封すれば、肉が空気に触れず、冬の間でも腐りにくくなる。」
さらにラードの一部は、大きな陶器の壺に注がれ始めた。マイヤーは笑いながら説明を続けた。
「これは調理用だ。パンを焼く時や揚げ物にも使う。こいつがないと冬を越すのは難しいからな。」
一方、骨を集める作業も進んでいた。オークたちは骨を大きな容器に放り込みながら、「スープの出汁を取るのに使う」と口々に話していた。その説明にトーゲルは頷きつつも、少し考え込んだ。
「骨を砕いて農地に撒かないのか?」
そう言うと、そばで働いていた年配の雌が驚いた顔をして振り返った。
「なぜ?そんなことは聞いたこともないよ。」
「骨には土を肥やす力がある。」
トーゲルが静かにそう伝えると、雌はいぶかしげにトーゲルを見つめた。
「変なこと言うね。麦が骨を食べるわけないよ。」
そう言うと、雌は骨の処理を続けた。
さらに、腸の処理が始まると、トーゲルの驚きは頂点に達した。若い雄が手際よく腸を洗い、伸ばしながら内側を掃除している。さらには細かい肉片を容器に入れ始めた。それは解体の過程で余った、筋が多い部分や細切れになった屑肉だった。乾燥ハーブと岩塩を混ぜて肉を練り、腸に詰め始めた。見慣れない作業にトーゲルは目を丸くする。
「それは・・・何を作っている?」
「ソーセージさ。」
マイヤーが笑って答えた。
「保存が利くし、味もいい。冬の間に食べる分をまとめて作っておくんだ。」
トーゲルは腸に詰められる肉を興味深そうに見つめた。腸の薄い膜が光を透かし、詰められた肉が鮮やかに見える。その光景に、彼は瞠目した。
オークたちは牛の頭も大鍋に入れ、ゼラチンを抽出しスープを作っていた。舌は柔らかく煮込むために取り分けられ、脳はすりつぶしてスープやパテに加工される。ほほ肉や顎の筋はスープの具材や保存用の煮凝りに利用され、骨も砕いて旨味を引き出すために煮込まれた。頭部の全てが合理的に使われ、無駄は一切なかった。
オークたちの手際と知恵に感心する一方で、トーゲルは改めて自分の狩猟生活との違いを感じた。ラピア農試でも、ここまで丁寧に使われていなかった。せいぜいが皮と骨。頭は捨てられ、ほとんどの内臓は肥料にしただけだった。村人たちは自然から得られるものすべてを無駄なく使い、生き抜く術を持っていた。
トーゲルが村の多様な加工技術に驚いている間、子どもたちもまた彼に興味津々だった。この村には二匹の子どもがいた。マティアスとアルノルト、どちらもオーク族の雄だ。長命種で子どもができにくい魔種族にとって、二匹がいることは非常に珍しいことであり、村にとっての宝のような存在だった。
小さな村で育った二匹は痩せてはいたが、その無邪気さは失われておらず、トーゲルの姿に目を輝かせながら彼の周りを楽しそうに飛び回っていた。
「羽を触っちゃダメ!」
親にそう叱られるのもお構いなしに、彼らはトーゲルの大きな翼に触れようと手を伸ばしては、また怒られるを繰り返していた。
「どこから来たの?他にも魔種族はいるの?ベッドで寝るの?」
二匹からの質問は止むことなく、突拍子もないものから些細な疑問まで、尽きることがなかった。トーゲルはそんな子どもたちに誠実に答え、彼らの好奇心に一つひとつ付き合った。
一方で、大人たちもトーゲルに関心を抱いていた。彼の出身地や普段の仕事について尋ねるうちに、次第に彼を「鉱物学者」「植物学者」、さらには「農業学者」として認識するようになった。実際にはトーゲル自身が特に学問的な教育を受けたわけではなかったが、空中踏査とラピア農試の仕事で培った知識は、オークたちにとって十分に専門家に見えたのだ。
子どもたちの無邪気な質問と、大人たちの尊敬の眼差しに囲まれ、トーゲルはどこか懐かしさを感じながら村の人々と交流を深めていった。
こうして、少し遅めの豪勢な昼食の準備が進んでいった。大人たちは久しぶりのご馳走に期待を膨らませ、子どもたちは倉庫内を走り回りながら手伝いとも遊びともつかない動きを見せていた。大鍋では煮込んだスープがぐつぐつと音を立て、焼きたての肉の香ばしい匂いが漂い始めていた。野菜を切る音や火のはぜる音が響き、倉庫内には次第に活気が満ちていく。オークたちはお互いに役割を分担しながら手際よく作業を進め、久々の宴の準備に心を弾ませていた。
「さぁ、あんたには最高の生肉だ。自分で買ったんだから遠慮せずに食ってくれ。」
マイヤーは豪快に笑いながら、血の滴る新鮮なロース肉をトーゲルの前に差し出した。
「うむ。みなも遠慮せず食べてくれ。世話になった礼だ。」
トーゲルの何気ない言葉が、そのまま乾杯の挨拶となった。村人たちは思い思いのコップを掲げ、声を合わせて笑いながら飲み物を口に運んだ。その瞬間、倉庫の中には和やかな雰囲気が広がり、自然と食事が始まった。
トーゲルは自分の肉を軽くついばむと、いつも食べている肉の味だと確認した。その様子を見ていたマイヤーが笑いながら声をかけた。
「これを毎日食べてるのか?あんた相当の金持ちなんだな。」
トーゲルはわけがわからず首をかしげたが、マイヤーは続けた。
「その肉だけで、上流階級様は500ラングも払って食うらしいぜ。」
「なにっ!それだけで牛一頭分ではないか。」
マイヤーは肩をすくめて笑った。
「だよなぁ。でも実際、俺の2年の稼ぎより高い金を払ってくれるんだ。ありがたい話さ。金はこっちに来ないけどな」
その言葉にトーゲルは愕然とした。目の前のオークたちが、これほど貧しい生活をしているとは思いもしなかった。少し考えた後、トーゲルは慎重に尋ねた。
「なぜここに住み続けるのだ?街に行けば、もっといい仕事があるだろう。」
マイヤーは少しの間考え込んだ後、答えた。
「ここには俺の家族も土地もある。確かに生活は楽じゃないが、街に行ったところで俺がやれる仕事なんて限られてるさ。」
彼は外を見やりながら、どこか懐かしげに続けた。
「それに、この土地を捨てたら、俺の居場所なんてどこにもなくなる気がするんだ。」
トーゲルはそれ以上話さなかった。自分の居場所——それは彼にとっても同じことだった。ラピア農試こそが自分の居場所であり、帰るべき場所だと感じていた。地の果てとも言えるこの村に舞い降りた彼は、静かにヴィルヘルムやアウローラ、仲間たちのことを思い浮かべた。共に過ごした日々、支え合った時間。トーゲルにとって何物にも代えがたい場所であった。
吹き続ける風のため外での作業もままならず、閉じこもりがちだった村人たちは久々に顔を合わせ、話に花を咲かせていた。こうして全員が一堂に会するのは久しぶりのことだったようだ。トーゲルもその輪に加わり、戦争や街の暮らし、難民について次々に質問を受けた。この村でも何人かが徴兵され、貴重な働き手を失ったという。
話題は次第に不作の話に移り、オークたちは深い溜息を漏らした。数年続く不作の影響で、村はやっと自給自足を維持している状態であり、現金が使われること自体が珍しく、ほとんどが物々交換で成り立っているという。ある年配のオークが苦笑いを浮かべながら言った。
「ましてや銀貨なんてな。豊作だったあの年以来、見たこともないよ。」
その言葉に他のオーク族たちも頷き合い、やり場のない現状への嘆きが倉庫の中に静かに広がっていた。
トーゲルは、ラピア農試の整然とした畑と比べ、この村の荒れた農地の現状がどうしても気になっていた。だが、オーク族たちの苦しい生活や、数年続く不作の話を聞くうちに、どこか言葉を飲み込んでしまった。いくら知識があったとしても、この状況を短期間で変えることは容易ではない。それに、これまでのやり方を守ってきたという誇りが、彼らの言葉の端々や慎重な態度に表れていた。骨粉の存在すら知らない彼らに、一体何を示せるというのだろうか。トーゲルは考え込んだ。自分にはまだ果たすべき道半ばの仕事があり、この村に留まることはできない。風が止んだらここを去る身として、何かを証明することも、彼らを説得することもできないままだった。
トーゲルは、奇しくも二度目の「不時着した地での宴」を経験した。日没と共に宴は静かに終わりを迎え、オークは一匹ずつ倉庫を後にし、そのまま解散していった。最後まで残った一匹が、気を利かせて焚き火に薪を焚べると、トーゲルに軽く会釈をして立ち去った。倉庫には炎の明かりだけが揺れ、トーゲルは静けさに包まれながら、再び一羽きりになった。
「なんとかできないのか。」
トーゲルは、手の代わりにはならない翼を恨めしそうに見つめた後、なんとなく倉庫の中を見渡した。倉庫には、村人たちが置いていった道具や食材の名残が散らばっていた。壁際には、塩漬けされて干された牛の皮が広げられていて、その隣には出汁を取るために煮込まれた牛の骨が雑然と積まれている。骨は表面が白く乾き、脂分が抜けて軽くなった様子だった。さらに端には白い石が積まれ、使い古された農具が立てかけられている。焚き火の明かりがそれらを薄暗く照らし、揺れる影が倉庫内の静寂を際立たせていた。
「あれはなんだ?」
トーゲルは何か思い当たり、薄暗い倉庫の中を、焚き火の火を慎重に避けながら歩み、壁際に積まれた白い石に近づいた。ひとつを嘴でつかみ、焚き火のそばに放り投げると、炎に照らされた石の表面が浮かび上がる。その石は粗い質感と独特の光沢を持ち、トーゲルの胸にある確信を生み出した。
彼は目を見開き、石をじっと見つめながら静かに言葉を漏らした。
「これなら村を救える。」
トーゲルはこの時、村の窮状を打破する方法を見つけたのだ。いつもの無表情の中で興奮が渦巻き、夜になってもなかなか寝付くことができなかった。
翌朝、トーゲルは倉庫から出ることができなかった。翼では扉を開けることができず、大鷲族の特性に慣れていない村人たちに、その不便さを説明し忘れていたのだ。これまでトーゲルは、彼の特性を理解してくれる人々に囲まれていたことを改めて実感しつつ、誰かが来るのを待ち望んでいた。もっとも、彼が外に出たいわけではなかった。ただ、話をしたかったのだ。
やがて、マイヤーが少し乾いた肉を持って倉庫に現れた。
「おはよう。一番涼しいのが外だからすっかり乾いちまったが、中身は大丈夫だろうよ。」
相変わらず豪快に笑いながら、肉をトーゲルの前に置いた。だが、トーゲルはそれどころではなかった。夜通し考えた末に得た大発見を、今すぐ伝えずにはいられなかったのだ。彼はマイヤーに村人全員を集めてほしいと頼んだ。マイヤーは一瞬戸惑ったが、肉の恩人であるトーゲルの頼みを断ることはできず、家々を回って村人たちを呼び集め始めた。
トーゲルは待っている間、急いで乾いた肉を啄むと、昨日拾い上げた石を手近な止まり木の横に置いた。やがて、マイヤーに呼ばれた村人たちが訝しげな表情を浮かべながら集まり始めた。トーゲルは、その様子に焦りを感じつつも、ついに口を開いた。
「みんな、この石はどこから集めたのだ?どこで見つけた?」
彼の問いに、オークたちは少し驚きながらも、口々に答え始めた。
「畑を耕すたびに出てくる厄介者だよ。」
「邪魔だから、いつも離れたところに捨ててるんだ。」
その答えを聞いた瞬間、トーゲルの中で確信が固まった。彼は止まり木から翼を広げ、自信をもって言葉を紡いだ。
「聞いてくれ、これはただの石ではない。『リン鉱石』と言うものだ。この石を砕いて細かく挽き、畑に撒けば、麦の収穫量を大きく増やすことができる。」
村人たちは一瞬ぽかんとトーゲルを見つめていたが、次第に顔を見合わせ、一匹が吹き出すように笑い始めた。それをきっかけに、周囲は笑いの渦に包まれた。
「慌てて何を言うかと思えば、捨てた石をまた畑に戻せ?」
「石が栄養になる?そんな馬鹿な話があるか!」
村人たちは口々に嘲笑まじりの言葉を投げかけた。
「畑は学者のおもちゃじゃねぇぞ。」
「肥料ってのは糞とか灰だろう。石を撒いて何が変わるんだよ。」
笑いながら話す声には、長年の経験からくる自負が垣間見えた。しかし、その自負が間違いであることを知るトーゲルは、笑いを浴びながらも落ち着いた態度を崩さなかった。
「信じて欲しい。本当なのだ。」
トーゲルは翼を広げて身振りを交えながら、説得を試みた。
その時、昨日話した年配の雌が口を開いた。
「あんたには感謝してるさ。でもね、昨日も骨を土に混ぜろって言ってたろ。どんなまじないか知らないが、畑を何だと思ってるんだい?骨なんかが一体どう役に立つっていうのさ?」
トーゲルは言葉を詰まらせた。
「それは、統計的優位性というものだ。因果関係は解明されていないが、骨を施肥した土壌では、収量が顕著に増加する傾向が観測されている。」
「『統計的優位性』?難しい言葉を使ったって、結局は分からないってことだろう。」
村人たちは失笑を漏らし、マイヤーも肩をすくめながらトーゲルに言った。
「気持ちはありがたいが、正直な話、その羽だ。あんたは畑の一つも耕したことがないだろう。本当は金持ちの道楽で、農業学者は嘘なんじゃないか?」
「違う。私はーーー」
トーゲルは言いかけて止まった。目の前には、不安げな目でじっと見つめる子どもたちの姿があった。元気そうではあるが、痩せている体が彼の目に焼きついた。この村を飢えから救わなければ――その思いが胸中に湧き上がり、彼の言葉となった。
「違う。私はラピアカプツェ農業技術試験場の農業学者であり、専門は害獣対策だ。それを証明してみせる。扉を開けてくれ。」
その迫力に気圧された村人たちは、笑いを収め、誰かが倉庫の扉を押し開けた。外では、昨日よりもやや弱まったものの、依然として強風が吹き荒れていた。
トーゲルは翼を広げ、一陣の風をものともせず飛び立った。空高く舞い上がると、風に流されそうになる体をねじ伏せ、鋭い目で畑を荒らすイノシシたちを捉えた。
彼は追い風を使って猛スピードで急降下し、手近なイノシシの首を足蹴で折った。断末魔すらあげる間もなく命を絶たれた獲物を横目に、トーゲルはさらに離れた場所にいる別のイノシシに鈎爪を突き立て、嘴でその首を折った。気付いて逃げ出したイノシシたちを追いかけ、掴み上げた一匹を空中で放し、墜落させた。イノシシは大地に叩きつけられた衝撃で絶叫し、やがて息絶えた。
彼は自らの非情な行動に、涙を流した。胸の痛みに耐えながら、強風の中をがむしゃらに羽ばたき、倉庫に戻った。
オークたちは歓声を上げて迎えた。トーゲルは顔を振り、涙をこっそりと払い落とした。オークたちは彼の内心には気づかないまま、感謝の言葉を口々に述べた。
トーゲルは自責の念を振り払うように、力強く言葉を発した。
「これを真似しろとは言わない。私は空から害獣の行動を研究し、生態を熟知している。その知識を伝えたい。害虫対策や他の分野についても、最新技術を共有している。それを教えよう。」
その言葉に、村人たちは一瞬驚いた表情を見せたが、次第に静かに耳を傾け始めた。
こうして、トーゲルはこれまで学び、蓄えてきた知識を一つずつ村人たちに伝え始めた。害獣の侵入を防ぐためのニンニク、ヘンルーダ、ニラなどを植えること。作物との混植、タバコの煮汁による殺虫、排水を良くする溝の掘り方、そして輪栽式農法——トーゲルは自分が知る限りのことを惜しみなく話し、村人たちに希望を託した。特に水はけの悪さによる根腐れの現象を的確に言い当てたことで、トーゲルへの信頼が一気に高まった。
皆が真剣に聞き入っていた。字が書ける者は、手元のありあわせの紙や板を使い、必死に書き留めていた。
「これらの方法には、最新の研究成果も含まれており、まだ広く知られていないものも多い。だが、ここで伝えたのは、実際に経験上成功した実績のあるものばかりだ。皆もこれまで、自分たちの経験を頼りに農業を続けてきたのだろう。我々の経験も信じてほしい。まずは一区画だけでも試してみてくれないか。」
トーゲルは足元の石をじっと見つめ、静かに言葉を続けた。
「特に、このリン鉱石だ。」
視線を村人たちに戻し、さらに語った。
「これこそ、鉱物学者でもある私がオルクセン全土を回って探し求めていたものであり、国もその価値を認めて探索している石だ。だが、私はこれを報告しない。これはあなたたちのものだ。適切に使えば麦穂は垂れ、金色の波は風によそぎ、大地を果てまで覆い尽くす。どうか慎重に、うまく活用してほしい。」
その言葉に、オークたちは互いに顔を見合わせ、そして石を見つめ直し、真剣な表情で深く頷いた。
トーゲルの胸には、重苦しい痛みが広がっていた。殺戮行為をした自責の念、嘘を重ねて村人を欺く現実。それらが心を締めつけていた。そして――
「リン鉱石の効果はまだ完全に解き明かされていない。だが、科学の力は必ずやその全貌を暴き出す。我々はもはや自然に身を任せる弱い存在ではない。自然を制御し、操り、未来を自らの手で築く時が来るのだ!科学こそが万物の謎を解き明かし、この大地に新たな繁栄をもたらすであろう!」
トーゲルの言葉が終わると、村民は一瞬顔を見合わせたが、次の瞬間、誰かが立ち上がった。その動きに呼応するように、他の者たちも次々に立ち上がり、重く垂れていた肩が上がり、背筋が伸びていった。若者たちは歓声を上げて拳を握り合い、年配者たちは石を見つめながら深く頷いた。拍手の音が次々に響き、輪が広がる中、子供たちは笑顔を浮かべながらトーゲルを見上げていた。その場の空気は一気に熱気に満ち、活気で溢れていった。
トーゲルは、自らの言葉が引き起こした光景を前に、胸の奥で心が軋むのを感じた。山や森を敬い、共に生きることを信じていた自分が、嘘を補強するためにこんな言葉を口にしてしまった。純朴な彼らを煽ってしまった――その事実に身が裂けるような思いを感じた。
そして、トーゲルは確かに聞いた。自分の心が裂ける音を。
彼は再び、心の中で涙した。
この章もあと2話で最後になります。そして物語全体も終焉に向かいます。
当時は科学の可能性を信じられ、科学が世界を帰ると思われていました。もちろん変わりますが、大きなツケが伴うことを知らない時代。
今でもリン鉱石は将来的な供給リスクが高い資源であり、海中に拡散したリンの回収は技術的・経済的に困難です。枯渇や供給制限が発生した場合、農業への影響が懸念されています。
みなさんの評価だけがモチベーションです。書き溜めも尽きかけていますががんばって完成させますので、応援お願いします。




