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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
序章 特別な一日
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言語的隔離

ラピア農試の畑を荒らしていた巨大なボス鹿が、大鷲族トーゲルの奮闘によりついに討伐される。だが、力尽きた彼は古典アールブ語で助けを求め、職員たちは驚愕する。その言葉は高度な教育を受けた者が使うものだった。トーゲルの衝撃的な背景に困惑しながらも、ヴィルヘルムたちは彼を救助し、新たな始まりの予感を感じていた。

 職員たちは荷車に乗ったトーゲルを運んでいた。車輪が草地を抜け、麦畑の近くまで来ると、道はやがて石畳に変わった。荷車の速度は上がったが、小刻みな振動がトーゲルを驚かせた。トーゲルは目を見開いて周囲を見回すが、技師たちは何事もなかったかのように押し続けた。


 荷車に乗った補助のコボルトは、トーゲルをしっかりと支えていた。やがて、騒ぎを聞きつけた他の職員たちも次々と集まり、彼らの支援を受けて荷車はさらに進んだ。大鷲族のトーゲルも徐々に体力を回復し、振動の中でも周囲を見渡す余裕を取り戻していった。


挿絵(By みてみん)


 ラピアカプツェ農業技術試験場は、メルトメア州中央部に位置する私設の農業研究施設である。約250ヘクタールの敷地を有し、ファーレンス商会の支援を受けて設立された。麦や麻の改良、アンゼリカ草やフェルナリウムなどの薬草や希少種バロメッツ羊の飼育、化学肥料の研究などが行われ、農業分野で高い評価を得ている。温室や時計塔、福利厚生設備も整い、効率的な運営体制を築いている。地域の発展を支える中核機関として高く評価されている。



 やがて荷車は広場前の管理棟にゆっくりとたどり着いた。石畳の道を最後のひと押しで駆け抜けた職員たちは大きく息をついた。建物の中央には大きなアーチ型の扉があり、その前には広場が広がっていた。


 広場にはすでに数名の職員が集まり、雑談を交わしながら荷車の到着を待っていた。石畳の振動が収まり、荷車が完全に停止すると、視線はトーゲルに向けられた。荷車の上で大鷲族の彼は、羽を震わせるようにして警戒心を隠さなかった。


 ちょうどそのタイミングで、力自慢のオーク技師たちが二匹で短く太い丸太を運んできた。丸太にはすでに大鷲族の爪痕が刻まれており、ゲスト用の止まり木として使われていた。二匹のオークは荷車の後ろに静かに置き、周囲の野次馬に紛れ込んだ。


 ヴィルヘルムがトーゲルに声をかけた。

「とりあえず到着だ。立てるか?」


 トーゲルが一瞬戸惑うと、すかさずエレオノーレが優しく話しかけた。

「汝は安らぎの場所へ運ばれし。立ち上がることはできるか?」


 トーゲルは体を捩じり羽ばたいて起きようとしたが、全身の疲労がそれを妨げた。


「みんな、手を貸してくれ。ふわふわの英雄を立たせてやろう。身が小さいから羽に気をつけて。腕全体で支えてやれ」


 ヴィルヘルムが皆に声をかけ、エレオノーレは流暢な古典アールブ語でトーゲルを落ち着かせた。


「これより汝の身を支え、立ちしめん。心配するな、安堵せよ」


 魔種族同士が肩をぶつけるほどに集まり、数十の腕がトーゲルを持ち上げ、掛け声をかけながら止まり木に降ろした。トーゲルは力を振り絞り、止まり木に爪を食い込ませると、ふらつきながらもなんとか立つことができた。


 彼の姿は飢えと戦いの過酷さを物語っていた。本来の美しい羽は艶を失い、乱れたまま泥や血にまみれていた。草や小枝が絡まり、鋭い爪も汚れていた。呼吸は浅く、胸がぎこちなく上下を繰り返し、痩せた身体は疲労で震えていた。死線を越えてきたことがひしひしと伝わってきた。


 気配りの行き届いた雌の職員が井戸から水を汲み、手桶をトーゲルの前にそっと置いた。大鷲族には腕がないため、容器を引き寄せたり移動させたりすることはできない。慣れていない魔種族は桶を横に置いたり、近すぎたりするが、ここで働く職員たちは違った。トーゲルは姿勢を崩さず、ゆっくりと水を飲んだ。


「さて、ラピア農試の英雄様は勝利の肉を召し上がるかな?おい、エレ…ネは通訳か。」

 ヴィルヘルムは管理棟外の地下階段に向かい、

「エレネ、事情を聞いておいてくれ。」と言って地下室へ降りて行った。


 ヴィルヘルムは石造りの地下貯蔵庫に入り、大きな観音扉の木箱を開けた。箱の内側には断熱用の麻布が敷かれ、冷却効果を高める刻印魔術の金属板が数枚取り付けられていた。効率よく冷却された内部には、わずかな白い霧が立ち込めていた。彼は吊るされた肉の一部に目をやり、大きな包丁を手に取った。刃を丁寧に当てながら肉を切り分けた。


「さぁ、最高級のバロメッツだ。大奮発だな。」

 独り言のように、片手ではあまりにも大きな塊を慎重に木のトレーに乗せた。重みで一瞬トレーが軋む音を立てたが、彼は気にせず階段を再び登り始めた。


「ま、あんたの鹿よりは安いか。」


 貴重な肉を落とすわけにはいかなかった。トレーが幅を取りすぎて通路の壁にぶつかりそうになるたび、彼は注意深く身体をひねりながら進んだ。その様子は普段の大柄な動きとは対照的に、どこか滑稽なほど慎重だった。


 広場にはすでにほぼ全員が集まり、エレオノーレを通じてトーゲルに質問攻めにしていた。中にはつたない古典アールブ語で直接尋ねる者もいた。トーゲルは冷静さを取り戻しつつ、困惑した顔で答えていた。


「おーい、英雄トーゲル様はお食事の時間だ。みんなありがとう、とりあえず仕事に戻ってくれ。後で改めて紹介する」とヴィルヘルムは野次馬を散らした。


 エレオーネはすかさず手頃なテーブルをトーゲルの前に運び、ヴィルヘルムはその上にトレーごと肉を置いた。夫婦の連携はすっかり馴染んでいた。


「『さぁ、遠慮せず食ってくれ』…現代アールブ語で通じたかな?」

 どうやら大意は理解したようだ。


 トーゲルが肉をついばんでいる間、ヴィルヘルムはエレオーネからトーゲルの事情を聞いた。


 トーゲルはエルフィンド南西の山脈を縄張りにしていた。エルフの関与はなく、同族との接触もほとんどなかった。他種族との距離を保つことが幸いし、それまでエルフの「害獣駆除」政策の影響を受けることなく静かな生活を送っていた。しかし、ついにエルフに休養中を襲われ、夕暮れにも関わらず急いで逃げ出した。


 ひたすら南下し、国境を越えても土地勘がないため、エルフ国境もわからないままオルクセン内陸まで飛び続けた。しかし暗くなるまで飛んだため、夜目が利かず山もなくなり平地の森に隠れた。連日の豪雨に晒され、飢えと疲れで倒れそうになったところ、偶然鹿を見つけ反射的に狩ろうとした。しかし大きさを見誤り、勢い余って爪が深く刺さり抜けなくなった。全力で引き抜こうとした結果、幸運にも鹿を仕留めることができた。


「で、ようやく肉にありつけたってわけか。アンタ、大変な目にあったなぁ。シルヴァン川越えが水遊びに思えるぜ。」


 エレオノーレはさらに、トーゲルの母語が古典アールブ語である理由をヴィルヘルムに説明した。それは言語学的に「隔離による言語進化の停滞」によるものだった。



 現代アールブ語はエルフィンド地域で使用される古典アールブ語から進化した言語だ。しかし、急峻な山岳地帯に隔絶された一部の大鷲族は、他文化との交流が長らく途絶えており、言語進化がほとんど進んでいない。この停滞の主な原因は、外部との接触や社会的相互作用の不足だ。これらの種族は自給自足の生活を送り、日常的な語彙の拡張がほとんど必要とされなかったため、新たな語彙が生まれることは極めて少ない。また、技術革新の欠如や単純な社会構造も、言語進化を妨げる要因となっている。


 大鷲族の場合、生活は狩猟と自然との調和に依存しており、言語もその影響を強く受けている。例えば、「卵を産んだ」「鹿を狩れた」といった表現は、狩猟や生態系の変化を指すメタファーとして日常的に用いられる。古典アールブ語が現代まで残る背景には、これらの種族特有の口承伝統がある。大鷲族や巨狼族は手を持たず文字を記録できないため、知識や伝承はすべて正確無比な口伝によって保存されてきた。重要な物語や教訓は記憶によって受け継がれ、自然な形で次世代に語彙や文法が伝えられる。この過程では非言語的な記憶技法が用いられるため、言語に変化が生じにくい。


 さらに、大鷲族の伝統的な同族意識も、外部接触の断絶を強化する要因となっている。彼らは外部の文化や価値観を受け入れることなく、自己完結的な社会を維持し、言語の純粋性を守り続けている。結果として、この大鷲族の言語には顕著な言語的隔絶が見られる。彼らの生活は外的影響から隔絶されており、語彙や文法はほとんど変化せず、純粋性が維持されている。この現象を言語学では「言語的隔離」と呼び、外部との接触がない環境で言語が進化しない状態を指す。


 そのため、大鷲族の古典アールブ語は極めて高い語彙的安定性を保ち、変化がほとんど見られない。また、彼らの優れた記憶力により、意味が不明瞭な語彙がそのまま使用され続けることもある。この言語使用の特性は、意味の精緻化よりも伝承の忠実性を重視する結果として現れている。


 つまり、大鷲族の一部は隔絶された社会と停滞した生活、高い記憶力を背景に、数百年にわたり言語進化から完全に隔絶された状態を維持してきたのである。


「引き篭もってたら世間が変わってた・・・ということか。アンタ以外の大鷲族は現代アールブ語だったぜ。」

 ヴィルヘルムは、さっきまでボロキレ同然だったトーゲルに目をやった。

「空で引き篭もるなんてな。面白い野郎だ。」


 トーゲルは無心で肉をついばんでいた。勢いがあまりに激しく、軽くなった肉がトレーから跳ね上がり始めた。ヴィルヘルムが次のおかわりを考え始めた時、別の荷車が到着した。トーゲルが仕留めたボス鹿だった。


「ご苦労さん、ありがとう。」ヴィルヘルムは礼を言い、続けた。

「こちらさんは後で皆に紹介するから、とりあえず仕事に戻ってくれ。助かったよ。」


 次にエレオーネとトーゲルに向けた。

「エレネ。この鹿、どうするか聞いてくれ。」


 エレオーネがトーゲルに尋ねると、トーゲルは介抱してもらい、水と変わった肉ももらったので、鹿を渡すと言っているとのことだった。ヴィルヘルムはその申し出をありがたく受け入れることにした。


 解体が得意な手空きの職員を呼び、彼らは手際よく広場に簡単なやぐらを組み、解体の準備に入った。あまりの大きさの鹿に手こずったが、みんなワイワイと楽しげに作業をしていた。やはりやぐらに吊り下げるのはオークの仕事になった。しかも一匹ではうまく引っ掛けられず、二匹でようやく吊り下げていた。かかった瞬間、皆がオークたちに拍手を送っていた。


 ヴィルヘルムは目の前の作業を見守りながら、思わず静かに呟いた。


「そりゃそうだ、ラピア農試の仇をついに倒したんだからな。これで取り巻きの鹿も狩りやすくなるぜ。」


 経緯はともかく、この幸運を彼は素直に受け入れた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


今回の章では、トーゲルを迎え入れる緊張感と安堵感、そして異文化との出会いを中心に描きました。未知の存在に対する戸惑いや、それを受け入れようとする過程を丁寧に表現したつもりです。


また、取り入れた**「言語的隔離」**のアイデアは、実際の言語学や文化人類学の研究にヒントを得ています。特に、ダニエル・エヴェレットによるピダハン語研究に影響を受け、「異文化や言語の壁を越える瞬間」のリアリティを意識しました。時代考証としては現代的なテーマですが、物語に奥行きを与えるために組み込みました。


ただ、その結果として説明が多くなってしまった部分は反省点です。これからはもっと簡潔で読みやすく、物語にスッと入り込めるよう筆を磨いていきます!


トーゲルの出自や背景にはまだ多くの謎が残っていますが、これから彼の視点を交えながら新たな展開を描いていく予定です。彼とヴィルヘルムたちがどう関係を築き、どのように試練を乗り越えていくのか、今後の展開にご期待ください!


最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございます!感想や「いいね」をいただけると、これからの執筆の励みになります。気に入ったシーンや気になる点があれば、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです!

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