オルクセン全域単独資源踏査
ついに「オルクセン全域単独資源踏査」が実行された。これは大鷲族特有の移動能力と優れた視力、そしてトーゲルの記憶力があってこそ実現可能な野心的な計画だった。ラピアカプツェ農業技術試験場では様々な道具が試験開発され、最終的に地図、砂の採取袋、現金、資源採取用の大袋が装備された。
装備は軽量化が徹底され、地図は最低限に絞られ、現金は高額硬貨のみが用意された。地図は本来トーゲルには不要だったが、各支店で採取位置を説明するための予防策として持たされた。各支店はバックアップ体制を整え、担当地図や植物保存用のアルコール瓶、補充用の現金、砂の採取袋を用意し、随時補給を行う計画であった。
出発点はオルクセン北西のラピアカプツェ州であり、西方にはグロワールの戦場が広がっていた。そのため、時計回りにオルクセン全土を踏査する方針が立てられた。キャメロット・オルクセンがグロワール軍を押していることから、踏査を終える頃には戦域はさらに西へと移動し、探索範囲を拡大できる見通しも立っていた。
「では、行ってくる」
トーゲルは味気ない挨拶を残し、広場から飛び立った。
成果を期待する職員たちとアウローラ、さらにはセレナ監督官までもがその出発を見送っていた。セレナは以前のトーゲル失踪で肝を冷やしたらしく、何かとラピア農試に顔を出すようになっていた。
「成功して欲しいよな、セレナ。なにせお前の首がかかってる」
ヴィルヘルムが嫌味たっぷりに笑うが、セレナはそれを無視した。
ヴィルヘルム自身も農業運営長として計画の責任を負っているが、トーゲルの帰還で既に吹っ切れていた。彼の願いは、自分の進退よりも、トーゲルの無事だった。
「そういや、例の雌の大鷲族……アルタリアだっけ? その後どうした?」
ヴィルヘルムは、トーゲルを混乱させた彼女のことが少し気になっていた。
「あなたには関係ないわ。何かあったら、すぐに連絡しなさい。」
セレナは冷たく言い放つと、足早に馬車へ向かい、乗り込むなり御者に軽く手を振った。御者は短く返事をし、手綱を引く。馬車は石畳を叩く音を響かせながら、勢いよく走り出し、遠ざかっていった。
「『全域単独踏査』か。とんでもねぇな」
ヴィルヘルムはそう呟くと、肩をすくめて仕事へ戻っていった。
トーゲルはまず、北東の沿岸都市アーンバンドに向かった。標高が高い山脈をS字にかわし、漁業と海運で賑わうファーレンス商会アーンバンド支店に降り立った。支店の屋根に設けられた「屋上ドーマー」――屋根の上に突き出した小さな構造で、内部から屋根へ出入りするための扉付きの小部屋――の前にある止まり木に降り立ち、鐘を鳴らす。戸籍申請の際に訪れた移民管理局も、同じような構造だったことを思い出す。
増設された屋上ドーマーの扉からはまだ誰も出てこない。既に昼過ぎで、この地区の空中踏査に割ける時間はわずかしか残されていなかったが、挨拶と地図の確認を済ませねばならなかった。鐘を鳴らしても応答がなく、もう一度鳴らそうとしたその時、扉がゆっくりと開いた。ドワーフ族の身なりがいい魔種族が姿を現した。
「はじめまして。トーゲル様ですね?ロイター・ユリウスと申します。この支店の副館長を務めております。どうぞお見知りおきを。トーゲル様のお噂はかねがね伺っております。何なりとお申し付けください。」
トーゲルは初めての感覚に戸惑った。半年以上、ラピア農試の仲間たちとしか接してこなかったためだ。身分の高そうな魔種族から丁寧に対応されることに慣れていなかった。これまでは気軽に仲間とやり取りし、お使いのような仕事ばかりしていたが、今や一転して重要人物のように扱われている。さらに、「噂を聞いている」という奇妙な尊敬の念には、痛い目にあったばかりでもあった。トーゲルは言葉に詰まり、どう返すべきか分からなかった。
「うむ。何日かここで資源散策をすることになった。話は聞いているか?」
トーゲルは声がわずかに上ずりながらも、何とか言葉を絞り出した。気楽な単独行だと油断していたが、移動するたびにこうした応対を繰り返さねばならないのかと、今さらながら気づかされるのだった。
「もちろんでございます。こちらに地図も用意しております。お持ちになりますか?」
そう言って、ロイターはアーンバンド周辺の地図を差し出してきた。精度や縮尺にもよるが、一枚あたり200から300ラング、軍用ともなれば500ラング以上はする高価な代物だ。それを何枚もトーゲルに預けようとするところに、商会がこの計画にかける本気度が窺えた。
ただし、トーゲル自身はラピア農試で何度も無造作に地図を見せられていたため、その価値を実感することはなかった。
「今は探索範囲がわかれば十分だ。地図は見せてもらうだけでいい。明日からは地図を元に、サンプルの位置や状況を書き留めてもらう必要がある。書ける魔種族を準備してほしい。あとは植物用のアルコール瓶も頼む。」
事前訓練の成果が早くも発揮された。初めての場所で、初対面の相手に対し、サンプル記録の段取りを指示する――それもトーゲルの新しい役割だった。これまで指示を受けて動く立場だった彼にとって、それは不思議な感覚だった。
「全て準備しております。職員は全員、文字の記述が可能ですのでご安心ください。記録作業は当館内でよろしいでしょうか?いやはや、伝説のトーゲル様とご一緒に仕事ができるとは、なんと光栄なことでしょう。」
ロイター副館長は嫌味の欠片もない、純粋な敬意を込めてそう述べた。少なくともトーゲルには、それが心からの言葉のように感じられた。
トーゲルは予想外の立場の変化に戸惑いつつも、地図を一瞥して内容を暗記し、おおまかな候補地を定めた。しかし、その地図には山岳地帯の詳細な地形までは記されておらず、把握できたのは探索範囲の概略だけだった。三角測量が普及し始めたものの、技術的限界や険しい山岳地帯の測量の難しさから、正確な記録は困難であり、多くの地図は大まかな輪郭や位置を示すに留まっていた。
トーゲルがこれまで見ていた地図は違っていた。ラピア農試の地学者たちは、自らの足で山を踏査し、地図に地形を丹念に書き加えていた。その事実を知り、彼らの地図が地道な努力の積み重ねで作られていることに気づく。険しい地形を前に少しずつ精度を高める彼らの姿を思い浮かべ、自然と深い敬意を抱かずにはいられなかった。
「うむ。わかった。また明日、日没前には来る。それまでに準備をしておいてくれ」
そう言いながら翼を広げ飛び立とうとするトーゲルを、ロイター副館長が慌てて呼び止めた。
「お待ちください。お食事やご宿泊は、どちらでお過ごしになるおつもりで?」
「獣を狩り、山で寝る。」
トーゲルが無表情で淡々と答えると、ロイター副館長の顔色が変わった。
「それはおやめください。本店より、何一つご不自由なきよう万全を期すよう厳命されております。どうか当館にご逗留賜りますよう、お願い申し上げます。」
彼は明らかに真剣に困惑していた。
本店からの「万全を期せ」との命は、ただの形ばかりの指示ではない。本店が直々に指示を下すほどの計画に関わる「重要人物」を野宿させるなど、あり得ない話だ。
ロイターは、状況を頭の中で瞬時に計算しながら、改めて懇願するように言葉を続けた。
「どうか、ご無理を仰らず、こちらでごゆるりとお過ごしくださいませ。」
その声には、副館長としての責務と、本店の期待を背負う重圧が宿っていた。
トーゲルは困惑した。これが「地位」というものかと痛感する。彼が育った生活では、互いに「地位」を作らないことが伝統だった。捨て去ってしまった「必ず物質的な礼を返す」という伝統もまた、借りを作らず上下関係を生まないための知恵だった。
「気持ちだけ受け取っておく。私はこれから山で調査せねばならない。夜にしかできないこともある。『この支店は最高のもてなしをしてくれた』と伝えておく」
初めて、自覚した嘘をついた。夜目の効かない彼に、夜の山でできることなどない。ただ、他所で寝るのが嫌なだけだった。だがここで断れば、ロイターの立場を傷つける。逃げ道は嘘しかなかった。
「そうでしたか。私の配慮が至らず、失礼いたしました。何かありましたら、どうぞお申し付けください」
「わかった。頼りにしている」
そう言い残し、トーゲルは飛び立つ。「頼りにしている」という言葉がまた嘘であることを後悔したが、社交辞令だと思い直し、安心して山へと向かった。
既に昼も過ぎていたが、トーゲルはまず手近な山から探索を始めた。高空から見下ろし、時には山肌すれすれに飛びながら探すが、ラピアカプツェに近いアーンバンドの植生は似通っており、目新しい植物はほとんど見つからなかった。後の鉱石採取に備え、場所の当たりをつけつつ岩肌を丹念に調べる。
まだらな積雪で視界が悪い中、一つ目の岩の割れ目に赤褐色の光沢を見つけた。赤鉄鉱だ。嘴でつつくと鈍い金属音が返り、鉄分を含んでいる証拠だった。いくつかを袋に入れ、次の岩肌へ向かう。崖下では風化した岩屑に混じる緑色の石が太陽に照らされ、独特の艶を放っていた。孔雀石、銅鉱石の一種だ。風化が進んでいることから、近くに岩盤がある可能性が高い。トーゲルは粒を拾い、周囲も念入りに確認した。最後に、断層付近で見つけたのは灰色に鈍く光る粒――方鉛鉱だ。表面には細かな銀の光沢が見え隠れし、「銀を含んでいるかもしれない」と呟きながら慎重に回収した。
次にトーゲルは海岸線を空中から確認した。歩いても行ける場所だが、念のため上空から探したところ、河口付近で見覚えのある石に気づく。スズ石かもしれない。砂地に降り立ち、水面近くの黒っぽい砂層を掻き分けると、光沢のある粒が現れた。比重が高いスズ石は流れの緩やかな河口に集まりやすい。「探すリストにスズはなかったな」と呟きつつ、砂粒を採取袋に器用に収め、回収を終えた。
やがて日が陰り始め、トーゲルは山へ引き返した。眼下には先ほどの商館が見えたが、明日の夕方と約束したばかりで、今は迷惑だろうと素通りする。それよりも久しぶりに山へ戻れたことが純粋に嬉しかった。鉱石探索の際に見つけた断崖に降り立つと、袋を降ろし、一息つく。「しばらくはここで過ごそう」――美しい景色を眺めながら呟き、獲物を探しに再び飛び立った。
間もなく仔シカを見つけ、いつものように翼を畳んで急降下する。しかし、鈎爪は獲物の背に届かず、慌てて高度を上げてしまった。こんな失敗は若い頃以来だ。次にイノシシを狙おうとするも、今度は急降下すらできない。胸のつかえが彼を逡巡させ、獲物を捉えることができなかった。
トーゲルは気づいた――ラピア農試を離れ、山に逃げ帰ったあの日以来、一度も狩りをしていないことに。得体の知れない不安が胸を締め付け、夕暮れの山は途端に畏怖すべき存在へと変わっていった。彼は堪えきれず山を飛び出し、街近くの雑木林へ逃げ込む。震えながら、空腹のまま、一夜を迎えた。
深夜、月明かりが雑木林の隙間から鈍く差し込み、トーゲルは枝に止まったまま動けずにいた。翼は冷え、鈎爪には湿った夜露が滲む。
獲物にとって自分は天敵であり、仲間であったことなど一度もない。その現実を知りながら、感謝を語り、誇りを掲げた自分が恥ずかしかった。狩りをするたびに心に刻んだ信念は、ただ孤高の舞台で酔いしれるための装飾だったのではないか。
頭上の星々は冷たく瞬き、彼の疑念を飲み込むように広がっていた。夜の静寂は、いつまでも彼を覆い続けた。




