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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
第二章 お勉強の時間
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最終章 : 銀の鍵と金の鍵 episode02 黄金の鍵と隠された海路

キャメロット首都ログレスでは、アッシュボーン商会が交易の要として繁栄を誇っていた。商業主任ピーターは、謎の支援者「タンテF」からの手紙と、競合するファーレンス商会夫人からの封書を受け取り、上司ダリアンに報告する。調査の結果、タンテFの正体がファーレンス夫人である可能性が浮上し、両商会間の緊迫した交渉が予感される。旗艦「ゴールデン・キー」の出航準備が進められる中、ピーターは自らの過去と内通者疑惑を抱えながら会談への同行を命じられる。交易と陰謀が交錯する中、アッシュボーン商会の威信と未来を賭けた航海が始まろうとしていた。

 キャメロット連合王国とオクルセン王国の間に広がる洋上、アッシュボーン商会の旗艦「ゴールデン・キー」は、凪いだ海面を堂々と進み、会合点へと向かっていた。

 黒塗りの船体には金箔の装飾が施され、側面には商会の紋章「金貨に刻まれた鍵」が輝く。船首には鍵を掲げる黄金の女神像がそびえ立ち、その優雅さと威厳は遠目にも際立っていた。

 全長65メートルのフリゲート級改装艦は、3本マストに張られた巨大な帆を風に受け、安定した速度で波を切って進む。その重厚な姿は、アッシュボーン商会の富と権力を象徴し、敵に対する威圧と味方への安心を同時に与える存在だった。


 船内には、会長専用の豪華な船室や格式ある商談用サロンが設けられ、外交や交渉の舞台として完璧な機能を備えている。

 黒檀と金箔をあしらった内装は威厳を示し、温冷刻印魔術式金属板による空調管理によって、どの季節や環境でも快適な居住性を保っていた。貨物室には貴重品専用の保管庫が備えられ、防湿・防火対策も万全だ。


 さらに、両舷に配置された艦砲10門と精鋭の武装警備隊が、海上での防衛力を確保している。「ゴールデン・キー」は、移動する要塞としての強固な防衛力と、外交の場としての華やかさを併せ持ち、アッシュボーン商会の威信を広く知らしめる存在であった。



 その静寂を破るように、見張り台からの声がデッキの全員を動きを止めさせた。

「右舷一点六海里に商船!マスト二本、帆装はブリッグ!進路北西!」


 船員たちは声のする方向に目を向け、動作を止めて水平線を見つめた。霞がかった海の向こう、小さな帆船の影がかすかに見える。

 甲板に立つダリアン・ラングレー所長は、その報告を聞き流すような態度で腕を組み、手すり越しに水平線を睨んだ。

 愛用の単眼鏡を手に取り、使い慣れた手つきで船影を探す。


「ブリッグか・・・。」

 ダリアンは呟くようにその言葉を口にした。視線は依然として海の彼方に向けられている。



 ダリアンは上層デッキ最後尾にある迎賓室の扉を素早くノックし、中に足を踏み入れた。


 広々とした迎賓室は、アッシュボーン商会の威厳と格式を象徴する空間だった。壁には大きな世界地図が堂々と飾られ、各大陸と海洋には商会の交易路や拠点が詳細に記されている。他の地図や資料も書棚や地図台に整然と収められ、必要に応じてすぐに取り出せるよう配置されている。壁際には採光に適した大きなガラス窓があり、柔らかな自然光が室内を穏やかに照らしていた。部屋の中央にはマホガニー材の大テーブルが鎮座し、その金箔で縁取られた天板は、ここが洋上での重要な交渉や決定の舞台であることを物語っていた。革張りの高級ソファが壁際に整然と並べられ、来賓がくつろぎつつ話を進められる配慮も施されている。この空間は、単なる船室を超え、国賓や特使を迎え入れるための洋上の会議室として機能していた。


 扉が閉まる音が静寂の中に響き渡る。ダリアンは直立不動のまま、簡潔に報告を始めた。


「失礼します。六海里前方やや右、ブリッグ型商船を発見しました。ローズ・ウイングではありませんが、進路はいかが致しましょうか。」


 室内には、ハロルドと会長ウィリアム・アッシュボーンが向かい合い座っていた。アッシュボーン商会会長、サー・ウィリアム・アッシュボーンは若きながらもその姿に自信と洗練が漂っている。窓の外を見つめる彼は、その切れ長の鋭い目は相手を一瞥するだけで威圧感を放ちながらも、瞳の奥には遠い未来を見据えるような深い思慮が宿っていた。淡いグレーの燕尾服は上質な仕立てで、金の刺繍が控えめに施されており、左手には商会の紋章が彫られた金のシグネットリングをはめている。その指先には、カードゲームで磨かれた冷静さが隠されている。端正な顔立ちは整った顎ときりっとした眉が印象的で、年齢以上の落ち着きと風格を醸し出していた。


 ウィリアムは海の景色から目を外さないまま、ダリアンの報告に黙って頷くだけであった。


「わかりました。そのまま商船に向かってください。」

 察したハロルドが代わりに答える。


 ダリアンは一礼すると素早く身を翻し、静かに部屋を後にした。扉が閉まる音が静かに響く中、会長は遥か水平線に隠れたキャメロット連合王国を見続けている。


「ハロルド、イザベラは慎重だな。」

 静かに語りかけた。その声には、どこか感慨深い響きがあった。


「そのようですな。面白い商談になりそうです。」

 ハロルドは少し微笑みを浮かべながら答える。


 その軽い口調に、ウィリアムは小さく肩をすくめながら苦笑した。

「君は気楽だな。」


「私は既に敗れておりますので、ご当主のお手並み拝見でございます。」

 ハロルドは軽く礼をし、冗談交じりに言った。


 会長は短く笑い、静かに窓の外に目を戻した。




 ピーターはトップデッキの手すりに寄りかかりながら、報告から戻った所長に尋ねた。

「所長、バーゲンティンを探さなくていいんですか?あれブリッグすよ。」


 ダリアンは短く鼻を鳴らして返した。

「はぁ、お前は素直過ぎるんだよ。」

 彼はピーターを見ずに海を見据えたまま、低い声で続けた。

「あれほどの搦手を使って堂々とローズ・ウイングで来ると思うか?こんな沖で会談なんか普通じゃねぇ。よほどの密談なんだよ。」


「じゃあこっちも定期船かなんかでいいじゃないですか。」

「バカ野郎。うちの会長は逃げも隠れもしねぇ。みっともない真似させられるか。」


「でもその・・・通りすがりの商船だったらどうします?こっちは見分けられませんよ。」

 その声には、若干の不安が滲んでいた。


 ダリアンは宿敵を睨むように、徐々に大きくなる船影を見つめた。

「なかなか近づかないですね。あ、いやぁ、この船が遅いってことじゃないですよ。もちろん船は最高です。ほら、あっちは遅いなぁって。」

「あの帆装で風に切り上がってんだぞ。いい腕しやがるな。こりゃ当たりだ。」

「何が当たったんです?」


「・・・」

 ダリアンは向かってくる船を指差した。風が甲板を吹き抜け、帆が揺れる音が響く中、彼の声が重々しく響いた。

「そろそろ動くぞ。」


 ダリアンは持っていた高級な単眼鏡を無造作にピーターに手渡した。金の縁取りが光を反射し、ピーターはそれを慌てて受け取る。不器用に構えながら船を観察するピーターの視線の先、舳先の向きが変わり始めた。

「えー・・・・・・あ、風上に転進します。」

「やっぱりな。」


 ダリアンは満足げに鼻を鳴らし、すぐに声を張り上げる。

「キャプテン!こっちも錨泊準備だ!よろしく頼む!」


 キャプテンがクルーに指示を出すと、デッキは一層忙しなく動き出す。

「普通の商船で来るなんて意外でした。ファーレンス商会の旗艦見られると思ったのに。」

 ピーターの言葉に、ダリアンは指差した。

「船尾見てみろ。」


 ピーターが単眼鏡を向けると、船尾に大きく船名の切り出し板が張られている。

「あれ?『リーヴェンフォルト』じゃないですか。たまに見ますよ。」


 彼の口調はやや驚きを含みながらも、さらに観察を続けた。

「知る人ぞ知るってヤツだ。実質あれが夫人専用らしいぞ。」

 ダリアンの言葉にピーターは再び単眼鏡を覗き込む。リーヴェンフォルトは一見平凡に見える外観を保ちながらも、その動きにはどこか非凡な気配が漂っており、その答えはすぐにわかった。


 リーヴェンフォルト。全長32メートル、マスト2本のブリッグ型帆船。使い込んだ黒ずんだ船体は目立たない色合いで、小型艦砲4門を内蔵。

「見てください、縮帆めちゃくちゃ速いですよ。あ、オークだ。すげー。」


 のんきに感嘆するピーターに、ダリアンは軽く舌打ちして返す。

「あの行き足でなんて回頭だぜ。野郎、勝負する気か・・・」


 再び声を張り上げたダリアンは、すぐにピーターに向き直った。

「ゴールデン・キーが負けられるか。ピーター!手伝ってこい!いや待て、かえって邪魔だ。動かず見とけ!」

「え、ど、どっちを?」


 慌てるピーターを無視し、ダリアンの気持ちだけが焦っていた。


 ゴールデン・キーはキャプテン・クルー共に商会を代表するベテランが揃っていたが、大型故に操船も難しい。常に最高の働きで全幅の信頼を寄せているが、リーヴェンフォルトのクルーもそれに匹敵する練度を持っていた。ならば小さい船が有利・・・ダリアンは焦燥感を抑えきれなかった。


 巧みな操船で弱い風を自在に操るリーヴェンフォルト。小さな船体が波間を滑るように進み、帆を絶妙なタイミングで調整することで、安定した速度と滑らかな動きを維持していた。一方、ゴールデン・キーはその巨体を支える三本マストに風を受け、キャプテンとクルーが一体となって舵と帆を細かく操作する。彼らの動きは見事なまでに正確で、リーヴェンフォルトの動きに寸分違わず応えていた。


 両船は、それぞれの船体が作る波紋が重なり合い、まるで長年のパートナーが息を合わせて舞うワルツのように、その動きを完全に同期させていく。


 リーヴェンフォルトが錨を下ろした瞬間、後進の帆を張り、軽やかに引き戻される様子は、まるで舞台でステップを刻む踊り手のようだった。錨鎖がピンと張り詰め、船が完全に停止すると、風を受けていた帆は緩やかに畳まれた。一方、ゴールデン・キーもまた、それに応じて帆を調整しながら後進を行い、巨体を静かに安定させる。錨が海底に深く食い込み、船体が波間に漂うように静止すると、クルーたちは迅速に帆を収納し、残されたアンカーロープを確認した。二隻の動きは一糸乱れず、完璧なタイミングで同期していた。


「よっしゃ見たかぁ!これがキャメロットのゴールデン・キーだ!」

 ダリアンは力いっぱい拳を握りしめ震わせた。


 両船は約300メートルの間隔を保って静止している。風は相変わらず弱く、風向きもしばらくは安定しているだろう。


 リーヴェンフォルトのクルーが手際よく、連絡用の小舟「カッター」を下ろす準備をしているのが見えた。

「流石だキャプテン。船を降りて正解だった。あんたにゃかなわねぇ。」

 緊張してやや疲れたダリアンはリーヴェンフォルトから目を離さず、隣に立ったキャプテンに礼を述べた。


 キャプテン・ランスロット。糊の効いたシミ一つない白い船長服に身を包み、同じ仕立ての帽子をかぶっている。穏やかな目線は、幾多の航海を乗り越えた男の余裕を感じさせる。愛用のパイプたばこをふかしながら、かつての宿敵ダリアンの言葉を受け流した。たばこはやり遂げた時の習慣だった。

「なんとか彼女の名誉を守れました。スカーフ・ダリアンから礼をいただけるとは光栄ですな。」

 キャプテンは長年連れ添った「ゴールデン・キー」を「彼女」と呼ぶのが常だった。そして、この発言もいつもの謙遜だ。ダリアンもかつて「スカーフ一枚で大型船を操れる船長」として名を馳せていた。

「うるせぇ、ホエール・ランス。」

 ダリアンはいたずら混じりに毒づいた。


 常に冷静で精緻な操船を旨とするランスロットを、航海士たちが「歯車、ホイール・ランスロット」と密かに称えていた。それをある水夫が「ホエール」と聞き間違え、いつの間にか「槍鯨船長」が定着してしまった。ランスロットは否定も訂正もせずに現在に至り、当然ダリアンは経緯を知っていた。


「しかし所長、コボルトのお嬢ちゃんはいるが、ファーレンス夫人は出てきませんなぁ。」

 コボルト族ダックス種の雌は、濃紺のウール製ジャケットに白い襟付きシャツを合わせ、船旅に適したフォーマルな装いをしていた。

「そうなんだよ。そろそろ出てもいい頃だが・・・おいまさか・・・」


 リーヴェンフォルトに据え付けられたカッターにコボルト族一匹と屈強な漕ぎ手のオーク族二匹が乗り込む。残ったオークが掛け声をかけながら滑車を操作し、小舟を海面に慎重に降ろし始めた。


「おやおや、これは。」

 キャプテンは少し戯けた様子で目を丸くした。


「馬鹿にしやがって・・・・・・。」

 ダリアンは舌打ちしながら駆け出し、貴賓室の扉を勢いよくノックして開けた。

「会長!」


 ハロルドが静かに応じた。

「停まったようですね。何か問題が?」

「頭取。夫人がカッターに乗っていません。使いだけです。」

「なんと・・・・・・。」


 海の慣習では、招待したホスト側の船で会談を行うのが通例だ。しかし、今回は船の格があまりにも違いすぎた。「ゴールデン・キー」は国際会議や国家間の特使輸送を数多く担い、その威容と信頼は広く知られている。洋上の宮殿とも呼ばれるその船は、世界中から集められた調度品や美術品で飾られ、乗船すること自体が名誉とされてきた。一方、ファーレンス商会のリーヴェンフォルトは小さく控えめな商船であり、その格差は明らかだった。


 ファーレンス側が使いを寄越したうえで、自分たちの船で会談を行おうとするのは、アッシュボーン側にとって到底受け入れがたいものであった。


「くっくっくっ・・・・・・。イザベラは本当に奇策が好きだな。」

 会長は笑いを抑えながら語った。

「ハロルド、確かに面白いよ。」


「しかしこれはさすがに・・・・・・。」

 ハロルドが苦々しげに言いかけたが、会長は軽く手を振り遮った。

「いいじゃないか。御夫人をお迎えに上がるのは紳士の役目だ。こちらから出向くとしよう。」


「ですが会長、これは――。」

 ダリアンが食い下がる前に、会長は静かに笑みを浮かべて言った。

「いいんだ。それだけの対価を用意しているんだろう。準備してくれ。」


「はい。それでは――。」

 ハロルドは頷き、静かに立ち上がった。


「せめて、うちのカッターは相手の口上を聞いてからでいいですか。」

 ダリアンは「ゴールデン・キー」が侮られたように感じ、その思いを隠しきれなかった。


「その方がいいな。」

 会長は軽く微笑みながら答えた。

「気を利かせすぎというのも相手に悪い。優雅に行こうじゃないか。ハロルド、道洋の格言『奇貨居くべし』だよ。」


「ご当主、金貨は奇貨に頭を垂れません。」

 ハロルドの答えに会長はさらに微笑みを深めた。


 両船の間に漂う静寂が、新たな局面の予感を運んでいた。


 *


「ゴールデン・キー」からカッターで「リーヴェンフォルト」へ移動した。一行を乗せたカッターがリーヴェンフォルトの舷側に近づくと、二本のロープとフックが垂れ下がっていた。

 カッターの前後にフックをかけると、リーヴェンフォルトの水夫は見事な手際で水平を保ちながらロープを引き上げていく。

「やはりいい船だ。水夫まで・・・・・・」

 カッターの前方、後方のロープが滑車を使い、息を合わせて引き上げられていく。末端の水夫ですらよく訓練されていると読み取った。ゆっくり上がるカッターに乗りながら、ダリアンは情報を拾った。


 ベテラン船長であった彼は、かつて星欧中の港で「誰よりも早く必ず荷を届ける」「鞭を使わず、拳で痛みを分かつ」と賞賛され、その名を知らぬ者はいなかった。

 特に「スカーフ・ダリアン」という異名は広く知られ、霧の中、海賊船に包囲されながらも、わずかな風を掴んで脱出したという逸話が語られていた。まるでスカーフ一枚で船を操れるかのように誇張された話だが、酒が進むと「霧の中を屁で進んだ」などと冗談交じりに語られることもあった。



 リーヴェンフォルトに装備された滑車を使ってカッターがゆっくりと釣り上げられる。


 デッキには、オーク族のキャプテンを先頭に、オーク族、コボルト族、ドワーフ族の航海士、そして水兵たちが整然と並び、ゴールデン・キー一行を迎え入れるための列を作っていた。


 会長ウィリアム・アッシュボーン、頭取ハロルド・ウィットモア、所長ダリアン・ラングレーが、オーク族水夫の手を借りながら順番にトップデッキに降り立つ。その後、タンテFのペンパルである商業主任ピーター・エヴァリーが、油紙で丁寧に包まれた贈答品を抱えたままデッキへ降り立つ。ピーターは先に降り立ったダリアンに贈答品を手渡し、その後再び持ち直して姿勢を整えた。


 ダリアンはハロルドに耳打ちした。

「ファーレンス夫人がいません。この期に及んで出迎えないとは・・・ナメきってますね。」


 ハロルドはその言葉に反応を見せることなく、表情一つ変えずに冷静に囁き返す。

「夫人はゲームがお好みのようですね。ご当主にはお手の物です。ただ・・・」

 ハロルドの声には、万一の事態を懸念する響きが微かに混じっていた。


 ダリアンはその言葉を受け、鋭く毅然と答えた。

「それは俺が。命に変えても会長はお守りします。」


 一方、そのやり取りをまるで気にしない様子で、ピーターは船を見回していた。

「汚い船ですねー。ボロボロだ。」


 ダリアンはちらりとピーターに目をやり、眉をひそめたが、それ以上口を開くことはなかった。


 オーク族のキャプテンはその言葉に動じることなく、一歩前進してかしこまって挨拶をする。

「ようこそ、リーヴェンフォルトへ。私はオスカー・アイゼンフェルスであります。全乗組員を代表し、心より皆様を歓迎申し上げます。」


 キャプテンは深く一礼し、その背後でクルーたちも一斉に一礼した。下級水夫たちも礼節に則り、人間族の乱暴な水夫には見られない完璧な礼を尽くしていた。

 ダリアンはキャプテン・オスカーに以前面識があったことを思い出したが、あえて気に留めることはしなかった。オスカーもまた、ダリアンを意識する様子は見せなかった。


 ウィリアムが軽やかに、若干の茶目っ気を含ませて答える。

「ありがとう。それで、ご主人はどちらにおいでかな?」


 ウィリアムは敢えてファーレンスの名を出さなかった。姿を見せないということは、何か理由があるのだろう。

 キャプテンは再び一礼し、落ち着いて答える。

「主人は船室でお待ちです。わたくしがお連れいたします。どうぞこちらへ。」


 やはり何かある・・・ウィリアムは気持ちの高鳴りを感じた。

 キャプテンの後に続き、ウィリアム一行はデッキを歩きながら、ゆっくりと船内へと進んだ。船内に足を踏み入れると、外の潮風とは異なり、古びた木材の香りが漂っていた。しかし、不思議なことに湿気は感じられず、空気は驚くほど快適だった。


 ふんだんに温冷刻印魔術式金属板が使用されているのだろう。この金属板は、オルクセンだけが作れる希少品であり、外国船では重要貨物や貴族、王族の特別用途に限定される高級品だった。それがこの船内全体の温度管理に使われているとは、異常なほどの贅沢さを感じさせた。


(アイツ・・・確か「岩石オスカー」だよな。宝石商がなぜ船長やってんだ・・・)

 ダリアンは疑問を抱きつつも、思考を巡らせながら、船内を注意深く見渡した。


 ピーターが軽く声をかける。

「所長、誰も掃除しないんですかね。こんな汚かったら俺100回殴られてますよ。」


 ダリアンはちらりとピーターを見て、静かに応じた。

「よく見ろ。金具はひとつとして錆びてねぇ。ロープもマストも、わざと汚して見せてんだよ。触ってみろ。」


 ピーターはどす黒く垂れた汚れに半信半疑で手を伸ばし、触れてみる。

「あれ?手につかないですね。変な感じ。」


 ダリアンは一瞥をくれると、視線を前方に戻しながら言った。

「あんな連中が船を大事にしないわけがねぇ。おかしいと思ったぜ。何もかもがチグハグだ。」


 一行は階段を降り、荷室へと続く通路を進んだ。船室内はランタンの灯りがゆらりと揺れ、木材の壁や天井に淡い光を落とし、周囲をぼんやりと照らしている。湿気と木の香りが漂い、時折聞こえる木材がきしむ音が静寂を際立たせていた。


 暗くて広い荷室には、その空間を埋め尽くす木箱が積み上げられていた。箱は無造作に積まれ、通路の端まで続く木箱の山が不気味に静まり返っている。

(各2門12ポンド・・・うまい偽装だ。鋼鉄製か?)


 ダリアンは外観から大砲を見破れなかったことに軽く舌打ちした。視線を巡らせながら、無駄に木箱で満たされた空間をじっと見渡した。

(嘘くせえ積み方だ。荷の量と喫水も合わねぇ。空っぽか・・・。)


 オスカーは木箱を不規則なリズムで叩いた。乾いた音が響きわたると、箱の内部から閂のようなものを外す音が聞こえた。

(だろうな。仕掛け好きも徹底してるぜ。)


 続いて、木箱の山の側面に手をかけた彼は、慣れた手つきでそれを押し上げた。横に力を加えると、古びた木材のように加工された樫の一枚板が音もなく滑り、隠された通路が現れた。



「うほー、すげぇ!」

 ピーターが目を輝かせて驚きの声を上げた。その瞬間、ダリアンのゲンコツがピーターの頭に落ちる。

「敵地で騒ぐな!いいか、今度俺がいいと言うまで口を開くな。わかったか。」

 ダリアンは小声で厳しく言い聞かせる。ピーターは頭を擦りながら慌てて頷いた。


「どうぞお入りください。」

 オスカーは深く一礼し、ウィリアム一行を中へと勧めた。


 通路には凛としたコボルト族の雌が静かに待機していた。スピッツ種の彼女は、純白の毛並みに合わせたネイビードレスをまとい、そのデザインはエンパイアラインを採用し、装飾を最小限に抑えた控えめなものであった。ウエスト部分にはゴールドの飾り帯が施され、オルクセン風の直線的な刺繍が加えられている。


 彼女は丁寧に一礼し、澄んだ声で言葉を紡いだ。

「ファーレンス夫人の秘書、カタリーナ・ヴァイスでございます。このたびはお越しいただき、誠にありがとうございます。夫人は中でお待ちしております。どうぞお進みくださいませ。」


 その声にはやや冷徹な響きがあり、カタリーナは軽やかな足取りで奥へと歩みを進めた。


 隠し通路は狭いながらも、華やかな装飾が施された壁と精緻な彫刻が施された木材が特徴的だった。通路を照らすランタンの蝋燭は蜜蝋製で、揺れる灯りが壁に美しい影を落としている。


 すぐに細かい細工が施された扉に到達すると、カタリーナは軽くノックしてから扉を横に滑らせた。

「こちらです。」



 ウィリアムがカタリーナの導く先に足を踏み入れると、静かな空気の中、正面にイザベラ・ファーレンスが佇んでいた。


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