遠ざかる翼
ファーレンス商会からの返信で、巡回していた大鷲族が徴兵された事実を知るヴィルヘルム。家族の一員であるトーゲルも徴兵対象となる可能性に、家族全員が動揺する。戦争の現実が迫る中、アウローラは必死にトーゲルの戦地行きを止めようと訴えるが、ヴィルヘルムは真実を隠すことなく伝え、彼女の理解を求める。トーゲルは伝統と現実の間で揺れつつ、家族への愛を胸に抱きながら未来を考える。迫る戦争の影は彼らの平穏を脅かしつつも、家族の絆を試す試練となっていく。
トーゲルは、日々変わらない空からの巡回を行っていた。ラピア農試や隣接する村は、遠くまで森が切り開かれ、平原は視界が良い。畑を狙う「害獣」を見つけるのは容易だった。
しかし、ここ最近は顕著に変化が出てきた。獲物となる動物たちがほとんど姿を消していたのだ。特にシカやイノシシ、キツネ、ウサギといった動物は、トーゲルの存在を危険と認識し、より安全な他の土地へ移動するようになっていた。このような変化は、彼が巡回を始めてから数ヶ月の間に徐々に現れるようになった。
それでも、時折状況を理解していない動物が迷い込んでくることがあった。しかし、その動物たちもトーゲルの狩猟行動を通じて危険を学習し、再び姿を消すことが常だった。
また、アウローラの好物であるアナグマや、不味いことで知られるイタチ類も次第に数を減らしていた。これらは定住型の動物であり、トーゲルのような捕食者に直面しても、その場を逃げ出すのではなく巣穴に隠れることで危機を回避しようとする傾向が強かった。しかし、空を巡回するトーゲルにとって、隠れるだけの戦術は通用せず、捕食圧が加わることで個体数は徐々に減少していった。
「これは、よくない」
トーゲルは呟いた。
以前から薄々感じていたことだった。かつての自分の生き方からは想像もつかない、歪んだ生活――それが今、自分の本能に警鐘を鳴らしているのだ。彼は、時間を賭けて具体化し始めた考えを、ヴィルヘルムに伝える時期が来たのだと悟った。
「山を見つけてそこに住む?なんでだよ!」
狭いトーゲルの小屋に響いたヴィルヘルムの怒鳴り声に、アウローラとエレオノーレは驚き、身をすくめた。
トーゲルには明確な考えがあった。
山に住むことは、彼の一族に伝わる伝統であり、それには確かな理由があると彼は信じていた。以前、アウローラと語り合った「伝統には理由がある」という言葉を思い返しながら考えを深めていたのだ。広範囲にわたる山を巡回し、必要な分だけを捕食する。これにより、特定の動物が増えすぎることを防ぎ、山と調和を保つ――これは生存戦略であると同時に、山と共存するための知恵だった。
対照的に、現在の生活では狭い範囲に限られた「害獣」を過剰に捕食し、結果として森そのものを脅かしている現状に、彼は強い危機感を覚えていた。伝統を守りながら山と調和する道を選ぶべきだという結論に至り、どんな山であろうともそこに住み、穏やかに暮らしたほうが良いのではないか――それが彼の提案だった。
また、トーゲルは強調した。
「決して徴兵逃れではない。暮らす場所が決まったら、必ず担当部署に申告する。」
彼はその言葉に誇りを込めた。その誇りこそが、彼にとって何よりも大切なものであった。
最も悲しみを表したのは、当然アウローラだった。彼女にとってトーゲルは弟であり、兄であり、そして友達でもあった。ラピア農試での唯一無二の親友だったのだ。彼女は必死に引き止めようとしたが、トーゲルは優しく答えた。
「ここが嫌になったわけではない。住む場所が少し離れるだけだ。私は手紙を書かないが、たまには見回りにも来るし、いつでも会いに来る。」
本気か冗談かわかりにくい慰めの言葉をアウローラに送った。
エレオノーレにとっても、トーゲルは家族同然の存在だった。彼女の心を救ってくれた恩人でもあった。そして、アウローラの好奇心や学びを深める上で、トーゲルがかけがえのない存在であることを十分理解していた。彼女は打算的と自覚しつつ、それが途切れることへの恐れを抱いていた。しかし、トーゲルがすでに「元難民」として自立できる存在であることも彼女は知っていた。利己的な理由で彼を引き留めるのは、双方にとって良くない――そう冷静に考えたのだ。
ヴィルヘルムはトーゲルの身を最も案じていた魔種族だった。実務的にも精神的にも彼を支えたのはヴィルヘルムであり、その分トーゲルへの思い入れも深かった。だからこそ、「山で暮らす」という彼の決意に、どこか裏切られたような気持ちも抱いてしまっていた。それでも、トーゲルの自主性を自分の感情で縛るべきではないと、ヴィルヘルムもまた理解していた。
トーゲルに泣いてすがるアウローラを前に、ヴィルヘルムとエレオノーレは彼の意志を尊重するほかなかった。
「言葉通り、あいつは自分だけで食っていけるからな」
ヴィルヘルムは冗談を言うしかなかった。
彼は土地も財産も荷物も持たず、頼れるのは自らの翼だけという存在だった。それでも、ラピア農試の仲間たちにとって彼は特別な存在であり、トーゲル自身も彼らを大切な友として接していた。仲間たちは仕事の合間に彼に声をかけ、初めて会った日やこれまでの思い出を語り合った。その行為は自然と別れを惜しむものとなり、いつしか暗黙のうちに「別れの儀式」となっていった。
トーゲルの特異な点は、高度技術者や農業実務者、事務職、調理担当といった職種や身分に関わらず、全ての職員と親しく接していたことである。彼らはそれぞれ自分の仕事に誇りを持っており、トーゲルはすべてに興味を示していた。彼自身が差別の概念と無縁であったこと、そして未知の世界への好奇心が強かったことが、彼を周囲と隔てなく結びつける要因となっていた。その独特の個性が仲間たちの支持を得ていたのである。
別れの日が近づく中、トーゲルはこうした別れの習慣に戸惑いを見せた。不慣れであったが、次第にその場の空気を理解し、自分からも仲間たちとの思い出を語るようになった。ただし、彼の語る内容は具体的かつ正確すぎることがあり、それが時折仲間たちの微妙な感情を呼び起こすこともあった。
旅立ちの日が近づくと、村でもトーゲルへの感謝の気持ちが広がった。フランツは、もう毛皮が手に入らないのかと嘆いていた。村民たちは総出で大きな幼虫を集め、それをトーゲルへの贈り物とした。これまでの孤独な生活では考えられなかったような歓待を受け、トーゲルは戸惑った。彼がこれまで成してきたこと、そしてその影響がどれほど深く広がっていたのかを、改めて実感したのだった。
彼は、持たざる者であったが、いつの間にか多くの繋がりができていた。
アウローラ、彼女は自室に閉じこもり、トーゲルからの魔術通信も無視し、トーゲルを拒絶するかのように過ごしていた。トーゲルの旅立ちという現実を受け入れることができず、その決断に対する不満や、自分だけが取り残されたような感覚が彼女を支配していた。エレオノーレやヴィルヘルムは何度も声をかけ、話し合うことを促したが、彼女はその優しさすら受け止められないでいた。
彼女が抱える感情は言葉にならず、心の中で渦巻いていた。「なぜ?」という問いに対する答えが得られず、行き場のない思いがさらに彼女を部屋の奥へと追いやっていった。
こうして一週間が瞬く間に過ぎ、トーゲルの旅立ちの日が訪れた。しかし、その日、誰もが予想もしなかった訪問者も現れるのだった。
トーゲルが旅立つ日、エレオノーレはアウローラを説得していた。
アウローラはベッドの端に座り、枕を抱えながらうなだれていた。その隣に腰を下ろしたエレオノーレは、優しく問いかけるように話し始めた。
「アウローラ、私には長い人生の中でずっと後悔し続けていたことがあるの。」
エレオノーレの言葉には、静かな決意と痛みが滲んでいた。
彼女は、自分が過去に犯した過ちについて話した。あの時、もっと良い方法を探せたのではないか、自分の判断が先走りすぎていなかったか――その後悔は、彼女の人生を通して重くのしかかっていた。
「だからこそ、アウローラ。あなたには私のようになってほしくないの。」
エレオノーレの声は穏やかだったが、その言葉には力強さがあった。
「いつかトーゲルと仲直りする時が来るかもしれない。でも、もしそれがずっと先になったらどうする?たとえば、トーゲルが徴兵され、戦場で命を落としたとしたら――その時、あなたは後悔しないでいられる?」
アウローラは枕をぎゅっと抱きしめ、目を伏せたままだった。
「今なら、直接会って見送るだけで仲直りできる。言葉を交わすことだってできるわ。それはトーゲルにとっても、あなたにとっても、とても大切なことよ。」
エレオノーレの静かな問いかけは、アウローラの心に深く響いた。
管理棟前の広場には、昼食を終えた職員たちが集まり、旅立ちを控えたトーゲルを囲んでいた。ヴィルヘルム、エレオノーレ、そしてエレオノーレに連れられたアウローラもその輪の中にいた。彼らは輪の中心に立つトーゲルを見つめ、名残惜しそうに向き合っていた。
「トーゲル、本当に行っちまうのか?」
「気を付けてね。アウラの勉強、手伝ってくれてありがとう。」
職員たちはそれぞれの思いを込めた言葉をかけた。
「行かないでよ、トーゲル。一緒にいてよ。さみしいよ!」
アウローラは震える声で絞り出すように言葉を紡いだ。その声には和解と切なる願いが込められていた。
「ありがとう、アウローラ。近くの山に住むだけだ。またすぐ来られる。」
トーゲルはいつもの無表情を崩さず、落ち着いた声で答えた。
「でも・・・」
アウローラは口ごもり、目を潤ませながらトーゲルを見上げた。その目には、不安と寂しさ、そして伝えきれない感情が宿っていた。
ヴィルヘルムが一歩前に出て、手を差し伸べた。
「トーゲル、感謝してる。お前がここにいたおかげで、俺たちの暮らしも少し豊かになった。いつでも戻ってこい。」
彼は握手したかったが、翼を横から軽く叩くだけにとどめた。
「いつでも来いよ!」「土産に肉、頼むぜ!」「また面白い挨拶して!」
職員たちの軽口が広場に響き、周囲には和やかな雰囲気が漂っていた。しかし、その言葉の背後には、別れを惜しむ気持ちが垣間見えていた。
ヴィルヘルムは、トーゲルに向かって改めて言葉をかけた。
「トーゲル、ずっといてもいいんだぞ。俺たちは家族だ。」
その言葉を聞いたトーゲルは、突然動きを止めた。ヴィルヘルムは一瞬、訝しげな表情を浮かべたが、すぐにいつものように肩をすくめた。彼にとって、それはトーゲルが考えを巡らせている証拠だった。また何か突拍子もないことや、意外なことを言い出す前兆ではないかと予感すらした。
「ヴィルヘルム、今の言葉は分類が難しい。内容は社交辞令か?」
トーゲルが突然真顔で問いかけた。その意外な質問に、広場は一瞬静まり返った。
ヴィルヘルムは薄く笑いながら答えた。
「そうだな・・・『いてもいい』ってのは本心だ。お前がここにいるのをみんな望んでる。それと、『家族』ってのは社交辞令というより、比喩だな。血の繋がりはないが、それくらい大切に思ってるってことだ。」
トーゲルは再び動きを止めた。考え込むように硬直している彼の姿を、ヴィルヘルムは「またか」と苦笑しつつ見守った。
しばらくの間があり、ついにトーゲルが嘴を開こうとした瞬間、彼の視線がラピア農試の入口に向けられた。遠くから馬車の音が聞こえてきたのだ。やがて皆も聞こえ始めた、その聞き慣れた不快感さえ伴う音に、全員が目を向けた。
深緑色の馬車は迷うことなく広場の一角に止まった。助手がかしこまりながら扉を開けると、セレナ・シュタルク監督が姿を現した。ゆっくりと地面に降り立つその所作は、まるで舞台の幕が上がる瞬間のようだった。彼女は歩みを進め、輪の中心に割り込むようにして、ヴィルヘルムとトーゲルの前に立った。
「あの時は主演女優のような振る舞いだった」と、後に職員たちは口を揃えて語る。また、「あの登場からあんな展開になるなんて」と述懐する者も多かった。
「みなさん、お集まりですね。」
セレナは視線を広場全体に巡らせ、満足げに頷くと、トーゲルに向き直った。
「トーゲルさん、はじめまして。当試験場を監督しておりますセレナ・シュタルクです。あなたの保護を全面的に支持した者として、一言挨拶をしたくて参りました。快適に暮らせましたか?」
ヴィルヘルムは眉をひそめ、不機嫌を隠そうともしなかった。
「ようセレナ。今、大事な別れの時間なんだ。悪いが、あとにしてくれないか。」
セレナはその言葉を無視し、さらに話を続けた。
「急いで参ったのは、私もこの時に間に合わせるためです。これをお渡ししたくて。トーゲルさんが読めたら説明せずに助かるのですが、どうぞ」
そう言って、彼女は一枚の便箋をトーゲルに差し出した。しかし、それをヴィルヘルムが奪い取り、一読すると目を見開いた。
「請求書だと?2万・・・この数字は何だ?」
彼は信じられないといった表情で問いただした。
「見ての通りです。これが今回、トーゲルさんにかかった経費の総額です。トーゲルさん、お支払いください。」
「何言ってんだ!」
ヴィルヘルムは声を荒げ、周囲がざわつき始める。
「助けが必要だったから助けたんだ!何でその金をトーゲルが払う必要がある?」
セレナは冷静に応じる。
「ヴィルヘルム農業運営長、あなた、酒場で『寄ってけ』と言われて飲み食いした後、代金を払わずに帰ることがありますか?」
「それとこれとは違う!あいつは死にかけてたんだ。助けるのが魔種族として当然じゃねえのか!」
「その通り。だから無償で助けました。そして、彼は回復し、難民申請をしてオルクセン国民となりました。おめでとうございます。申請後も68日間と半日、ご滞在されましたね?その経費です。」
周囲の空気が一層張り詰める。ヴィルヘルムはセレナに詰め寄りながら、怒りを抑えられない様子だった。
「ふざけるな。お前が言い良いと言ったからいた。それだけだろ。」
セレナの表情は微動だにせず、冷徹な視線をヴィルヘルムに投げかけた。広場には緊張が漂い、誰もが二人のやり取りを見守るしかなかった。
「次は宿屋での例えを話しますか?救助は救助。暮らしは暮らしで分けて計算しています。難民申請前までは含まれておりませんので確認してください。今日の半日もサービスします。商会の善意、お礼は結構です。」
セレナはヴィルヘルムの口癖を真似た。だが、幾度となく皮肉の応酬を続けていたので、もはやどちらの口癖か分からなかった。
「だからお前はここの肉を食えと言ったのか。トーゲルは狩りができるのに汚ねぇぞ!トーゲルは獲物を全部みんなにあげていた。それでチャラだろ。それに肉、一日123ラングってどういうことだ。一泊53ラング?高すぎるだろ!」
「肉は牛とバロメッツ種を主に消費していました。一日平均15.4キロ、金額平均123.2ラング、切り捨てて123ラング。それがラピアカプツェの市場価格です。ヴィルトシュヴァインでは更に高いですが、ここの近くを基準にしました」
ヴィルヘルムはセレナの事前準備に抵抗できなかった。
セレナはなお淡々と続ける。計算根拠に自信が溢れていた。
「管理棟は標準宿舎一室の100倍は高いでしょう。何しろ試験場の最高責任者専用の住まいです。責任と立場にふさわしく、高くても誰も文句は言いません。ですので、宿舎の家賃負担分の一〇〇倍。ご納得?」
ヴィルヘルムは突破口を探していた。誇大とも思える主張だが、一応筋は通っていると認めざるを得なかった。
「狩りはどうする!俺達みな、トーゲルの肉を食ったぞ!」
「それはよかったですね。トーゲルさんのご厚意に甘えられて。ですが、商会は営利団体です。生命の危機は見逃せませんが、無制限の厚意を期待されても困ります。」
「ふ、ふざけんな!皮だって売ったし骨も内臓も肥料にできた。農試に貢献してんじゃねぇか。それもタダっていうのか!」
「トーゲルさんをお見受けすると、その皮はトーゲルさんがなめしたわけではありませんね。なめさないと売れませんが、その作業は職員では?請求書に記載しませんでしたが、人件費が発生しますね。それも追加しますか?骨や内臓は試験場を使って処理しましたね。処理費を頂くところですが、これもサービスです。ご納得?」
職員たちは言いたげではあったが、商会直属の権力者に歯向かうことはできなかった。直情的だが論理的でもあるヴィルヘルムが言い返せないのだ。セレナの請求はおそらく正当なのであろうことを予想していた。
「だが・・・20,592ラング・・・金もない、仕事もないトーゲルに何をしろっていうんだ!あの時計塔と同じじゃねぇか!」
ヴィルヘルムは時計塔を指さして怒鳴った。精密機械の時計塔は各街に普及した程度でまだ珍しく、ラピア農試にある小型の物でも総工費は20000ラングした。ちなみに標準的な農家の年収は500ラングである。
「そうですね。私もトーゲルさんにお仕事がないことを失念していました。お詫びいたします。そこで私から提案があります。」
セレナは全く謝意がない謝罪をした後、用意した本題を開陳した。
「トーゲルさんは当商会で正式に雇用いたします。まずは私の指示に従って飛んでもらいます」
ヴィルヘルムは憤った。
「セレナ・・・それが狙いか。大鷲族が希少だからって、トーゲルを縛ろうってんだな!それにしても汚ねぇぞ!」
「あなたの言う筋立てしたお話です。何か計算に間違いが??」
セレナはこれまでの復讐とばかりに彼の言い回しを真似た。
「・・・このやろう」
「雌ですが、『間違いない』というお答えと判断して続けます。それでトーゲルさんは、私達のように何か学位を持たれていない・・・確か初等教育も受けられていないということで、まずは農業補助と同額、年400でいかがでしょうか。飛ぶだけのあなたに、こちらは誠意を尽くして提示できる金額です。」
「ふざけんな!トーゲル、こんなヤツの言うことは聞くな。足元見やがって、安すぎだ!」
トーゲルは状況を見守り、じっと考え込んでいる。
「お断りしても結構ですが、商会所属の魔種族でない方ですので、借り入れには特別な金利が発生します。複利で15%ほどです」
「おい、なんでそんなに金利が高いんだよ!俺達が借りたとしても3%じゃねぇか!」
「それは地位や仕事がある場合です。本人の信用情報で金利は変わりますので、信用がない方の金利が高いのは当然のことです」
「お前、よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるな・・・商会の魔種族として言ってるのか!会長に面と向かって言えんのかよ!」
「ご心配いただかなくても結構。イザベラ様にはご報告済みです。なんでしたら直接確認されては?」
セレナはかつて最も自分のプライドを傷つけた言葉を使った。それほどイザベラ・ファーレンス会長を尊敬していた。
「なんだと・・・。トーゲル、ともかくこんな話受けるな。これは陰謀だ。こき使われて潰されるぞ」
「でも、所属していただかないともっと大変な額になります。トーゲルさんが払えないと、身元引受人のヴィルヘルム農業運営長に請求が行きますが、お支払いいただけます?」
「お前はどこまで計算高いんだ・・・いいさ、それくらいどうとでもしてやる!」
「快諾していただき安心しました。農業運営長の貯金は言及しません。教科書や辞書、専門書は高いですものね、とても一括は無理でしょう。運営長が生活費を一切使わずに返済すれば8年・・・金利があるのであと数年伸びますが、チョコを買わずにがんばればきっとすぐ完済できます。」
「そこまで調べてんのかよ・・・」
「チョコなんていらないよ!バーカ!」
アウローラが叫んだが、ヴィルヘルムは怒りながら彼女を静止した。
「商会が手配した物です。私が知らないはずがありません。」
セレナはトーゲルに向いた。
「トーゲルさん状況はわかりましたか?あなたが好き勝手に飛び回るとあなたの恩人の生活が苦しくなり、アウローラも悲しい思いをします。ですが、あなたがやると言えば全てが解決します。一緒にお仕事しませんか?悪いようにはしません」
トーゲルは体を硬直させ、黙り込み続けていた。うつむいたまま、何も見つめてはいない。
「その沈黙は、承諾したという意味ですか?それならーーー」
セレナがそう言うと、トーゲルは呟いた。
「わかったぞ。この話の狙いが」
セレナは、トーゲルの的外れな発言に呆れ果てていた。これまでのわかりやすい説明にも関わらず、全く理解していない様子に苛立ちを覚えた。彼を引き入れるために準備した周到な計画も、果たして手間をかける価値があったのかと疑問を抱かせるほどだった。自分の見立てが甘すぎたのではないかという後悔すら湧いてきた。
トーゲルを見つめるセレナの目には、冷徹さを超えた明らかな侮蔑が宿っていた。彼のずれた独り言を聞いて、内心ではこう呟いていた――「これが期待外れというものか」。教養の無さ、無学さが露呈する彼の振る舞いに、セレナは最低限の愛想を保つことすら無駄だと感じ、呆れた表情を隠そうともしなかった。
セレナの呆れ顔を無視し、トーゲルはせきをきったように語りだした。
「セレナが提示した肉の金額は市場小売価格である。しかし、小売価格には流通費、解体費、加工費、さらには販売店の経費や利益が含まれている。一方、実際に食べた肉は試験場で直接屠殺された家畜のものであり、この場合は卸売価格を基準に計算するべきだ。試験場で飼育される家畜は、一般的な農家の家畜より高価ではあるものの、例えば牛一頭の卸売価格は約350ラング、バロメッツ種の羊は120ラングである。これらの肉は小売用に丁寧にトリミングされたものではなく、ただ雑に解体しただけの状態だ。この点を考慮すると、計算基準には明らかな誤りがある。いや待て、シュトック、私が来てから家畜の出荷量は減ったか?」
畜産助手のシュトックが答えた。
「むしろ増えてる。みんなトーゲルの肉ばっかり食ってるから売って減らしてる」
「うむ。やはりそうか。つまり食肉の収支計算の観点から考えると、家畜余剰出荷分をプラスに反映されるべきだ。食費はそれで良い。そして、家賃計算にも矛盾がある。私が住んでいたのは管理棟外壁に接する簡易的な小屋であり、管理棟内部を利用したことはないため管理棟家賃を適用するのは誤りだ。標準宿舎は気密性に優れ、暖房設備やガラス窓が整備されている。一方で、私の小屋は隙間が多く、暖房もなく、ガラス窓もない簡素な作りだ。標準宿舎以上の家賃で評価されるのは理に適わない。適切に計算するなら、一日当たりの家賃はセレナが提示した宿舎の100倍である53ラングではなく、53ラングから1/100の家賃を設定すべきであり、それを基に117日間を計算すれば合計62.01ラング、小屋の仕様を勘案すればそれ以下だ。」
みなは見守っている。セレナもヴィルヘルムも唖然とするばかりだ。アウローラだけがニコニコしていた。
「かわなめしの人件費だが、確かに3日間は仕事の合間にやっていて人件費は発生する。だが、シュヴァルツ。なぜ君たちは仕事がない日になめしていた。」
村から不定期に来ている農業補助のシュヴァルツが大声を張り上げた
「そりゃあ、肉もらえるからに決まってんだろ!みんなやりたがってケンカになるから順番作って交代交代だ!」
「うむ。あとは皮だが、どう処分された。フローリアン。好きにしてくれと言ったあの皮、どこに行った?」
事務方のフローリアンは笑顔で応答した。
「みんなフランツが持ってったわ!フランツの食材と交換したから支払いも減って経費大助かりよ!」
「うむ。シカ14頭、イノシシ17頭、アナグマ35匹、他割愛するが、夏皮の卸売価格は冬皮の60%と仮定し合計4338.9ラング。ハインツへの下取りなので更に70%と仮定して3037.23ラング。農業補助の年収400ラングの7.59倍だ。人件費もこれで十分捻出でき、相殺以上のプラスになっている。最安値の宿舎の費用も賄える。」
トーゲルは無表情のまま興奮してセレナに言った。
「わかったぞセレナ。マイナス20,592ラングと思わせて本当はプラスなのだな。セレナが考えたのか?それともセレナの親か?いいひっかけ問題だ。本当はいくらプラスなのだ?答えを教えてくれ」
トーゲルの余りの勘違いに全員が固まった。
「アウローラ、私の推定ではチョコが買える。私は食べないから受け取ってくれ。アウローラには礼だけでは不足すると計算していたのだ。足りない借りを返したい。」
トーゲルの話が終えても、セレナを含め誰もが動けなくなっていた。
が、一人が吹き出した瞬間、大爆笑になった。ある者は石畳を叩きながら笑い、ある者は隣にもたれかかり、ある者は地べたにひっくり返って笑い苦しんでいた。
アウローラもみな、思い思いに力いっぱい笑っていた。
セレナは冷静な表情を維持し、激怒を抑え込んでいた。セレナの助手と御者は笑いをこらえるのに必死でもがいていた。
「なにっ?私は間違えたのか?本当の答えはなんだ?」
トーゲルは予想外の反応に驚いてセレナとアウローラを交互に見た
ヴィルヘルムは笑い涙をふきながら、なんとか我を取り戻した。
「大正解だトーゲル。すごいヤツだぜ、なぁセレナ?」
そうセレナに話を振るが、セレナは冷静を装ったまま横を向いている。
ヴィルヘルムはニヤリとし、セレナ言い回しを真似た。
「沈黙は同意と受け取るぜ。さぁトーゲル、お前は自由だ。誰からも借りはねぇ。どんな所でも飛んでいけるぜ。おーっと、ひっかけ問題の答えはまだだ。後でわかるから覚えとけ」
トーゲルの機先を制し、ヴィルヘルムが釘を差した
「わからないが、わかった。それでヴィルヘルム、先程の話の続きだが」
セレナがかき回したせいで話がこんがらがり、ヴィルヘルムは何の話か忘れてしまっていた。
「なんだったかな。悪い、教えてくれ」
「『一緒にいていい、比喩的な家族』と言った」
「それだ。今でも思ってるぜ。お前がどこに行っても変わらねぇ」
「そのことだが、考えが変わった。しばらく住まわせてくれ。それと、ここで雇ってくれ」
「本気か?いてくれるのか?」
「うむ。山にこだわらなければ問題ないと気づいたのだ。広域を見回ればすむことだ。伝統には理由がある。真の理由を見つけて、答えが出たのだ。」
「それと、私にも金が必要だとわかった。家賃や食費だ。税金も払わなくては国民とは言えない。何もない私が信用を得るには、仕事が必要なのだ。それに、巡回以外にもできることはあるはずだ。雇って欲しい」
セレナはトーゲルの提案に驚いたが、ヴィルヘルムの視線に気づくとまた横を向いて無視のポーズをした。
「いいぜ。俺の裁量で現地雇用だ。いいよなセレナ?あんたの狙い通りだ。当然ラピア農試の職員なので俺の指示で働く。あんたの要請は聞いてやる。郵便待ってるぜ」
セレナは一応納得し、部下に出発を促した。
「ヴィルヘルム、繰り返すが、私は信用されていないのだ。地位はないが、仕事で信用される必要がある」
「何言ってんだ。仕事はして欲しいが、お前をとっくに信用してる。アウローラを預けた時からな。みんな、そうだろ?」
ヴィルヘルムは笑いが落ち着いた仲間たちに声をかけた。そして全員が応えた。
拍手をする者、拳を高く上げる者、歓声を上げる者、皆がトーゲル歓迎し、迎えた。
「トーゲル見たかよ。これが信用ってやつだ。いや、信頼かな」
「信頼か。意味はーーー」
「それはまた後だ」
馬車の準備ができ、セレナが無言で乗ろうとしたところを、ヴィルヘルムが呼び止める。
「セレナ、あんたのひっかけ問題面白かったぜ。トーゲルに正解の賞品を送ってくれ。そうだな、チョコ一袋で手を打とう。それで貸し借りなしだ。いいな?」
セレナは彼が言い終えると、黙って馬車に乗り込んだ。
ヴィルヘルムは、本心を言えばこの件の責任を追及したかった。だがこれ以上セレナに恥をかかせて追い詰めるとセレナも手段を選ばず逆襲する可能性があったので、軽い嫌味に留めた。
後日、ラピア農試に商会支店から荷物が届いた。中には手紙も添え書きもなく、ただチョコレートが10袋入っていた。
「まさか本当に送ってくるとはな。それも10袋もだ。借りは作りたくないってことか。意外と律儀じゃないか。」
ヴィルヘルムはトーゲルとアウローラを呼び、このチョコレートをどう扱うか相談した。
「推定より多い量だが、これはアウローラの物だ。」
「一つだけちょうだい。他は試験場のみんなにあげてほしい。トーゲル、それでいい?」
「うむ。アウローラのチョコだが、一匹あたり81.7グラムなら借りを返すのにも十分だ。」
こうして、9ポンド(約4,050グラム)のチョコレートは50袋に小分けされ、ラピア農試の仲間たちに配られることになった。
アウローラから受け取ったチョコを懐かしむ者、初めて食べてその味に歓喜する者、家族に持ち帰り皆で楽しむ者。その全員が喜びを分かち合った。
その返礼として、多くの者が身近な場所で幼虫を集め、トーゲルに贈った。アウローラとトーゲルは、しばらくの間、今まで通りの小屋で共にチョコと虫を楽しむ日々を過ごした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
これまでの伏線や設定を回収しつつ、トーゲルの天然ボケを交えた展開をお届けできたことに安堵しています。ベタすぎる数学問題にもお付き合いいただき、心より感謝いたします。今回で第二章は終了し、単独の最終章02を挟んで第三章に進む予定です。
トーゲルが自らの役割と責任を再認識し、ラピア農試に残る決意を固める流れは、彼の成長を象徴する重要なエピソードとなりました。一方で、セレナ・シュタルクの登場は緊張感を生みつつも、計算高い合理主義とトーゲルの天然さを対比させることで、場面を和ませる効果も狙っています。
また、アウローラとのやり取りでは、彼女の感情の変化やトーゲルとの関係の深さを描き、別れと再会、そして信頼の大切さを強調しました。セレナの緻密な策略をトーゲルが天然の計算力で逆転する展開は、コミカルでありながらも彼の本質的な聡明さを垣間見せるシーンになったのではないかと思います。
第三章では、大鷲族ならではの仕事に挑むトーゲルの姿を描いていきます。
感想や応援のメッセージをいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。
これからもよろしくお願いいたします!




