詩の焚書と祈りの灯火
ラピア農試近郊のノイカプツェ村は、大鷲族のトーゲルによるシカ狩りで騒然となった。畑荒らしの動物が姿を消し、村人たちは歓喜する。
一方、トーゲルはアウローラと共に学び合いながら、伝統や自然保護について考えを深めていた。そんな折、彼女が使っていた粗悪紙に古典アールブ語の詩が印刷されているのを発見する。その詩はエレオノーレがかつて発表し、迫害を受ける原因となった作品だった。
過去の記憶が蘇ったエレオノーレは動揺し、紙を取り上げて封印しようとする。だが、その詩は彼女の過去と現在をつなぐ鍵となり、ヴィルヘルムと共に向き合うべき課題を突きつけるのだった。
翌朝、ヴィルヘルムはアウローラとトーゲルに言い聞かせた。
「お前たち、しばらくママを静かにしてやってくれ。あと勉強は外の食堂でな。いいか?」
二人はその言葉の重みを理解し、無言で頷いた。
この日、トーゲルが朝の見回りから戻ると、ヴィルヘルムはアウローラとトーゲルを広場の倉庫に呼び寄せ、昨晩の出来事について語り始めた。それは、エレオノーレが背負う苦難と屈辱の記憶だった。
かつてエレオノーレは、エルフィンド王立文芸学院で古典アールブ語文学を専攻していた。白エルフ族が大多数を占める中、コボルト族の彼女は当然のように差別の対象だった。しかし、彼女はそれを意に介さず、学問に没頭し続けた。その才能は目覚ましく、教員すら「コボルト族に負けて悔しくないのか」と他の学生を奮い立たせるほどだった。しかし、どのような文学賞でも、彼女の名前が選考に挙がることは一度もなかった。
修了後も彼女は研究を続け、ある日、自らの実力を試すため、ある権威ある文芸コンクールに挑んだ。彼女は白エルフ風の筆名を用い、『黄金の葉が語る夢』と『沈黙の煌めき』を発表した。これらの作品は審査員から高く評価され、彼女は二年続けて栄誉ある賞に輝いた。自らの力を証明できた彼女は満足し、授賞式には一度も出席しなかった。
しかし、ここから彼女の不幸の芽が出始めた。名も顔も知られていなかった彼女は「静寂の羽筆」と呼ばれるようになり、その作品は瞬く間に広まり、白エルフ族の間で絶賛を浴びた。詩は私室で愛読され、公会堂で吟唱され、劇場で演劇として上演されるほど広く支持された。
そしてついに災厄が訪れた。ある日、地元ケルムト新聞社が彼女がコボルト族であることを暴露した。この報道は瞬く間に広がり、選考委員会は「不正があった」として彼女の受賞を取り消し、学院は修了資格を取り消し、作品は焼かれ捨てられた。続く報道の過熱により、「盗作コボルト」という蔑称が彼女を象徴する言葉となり、新聞の一面を飾った彼女の肖像は人々の憎悪をかき立てた。罵声や石投げは日常茶飯事となり、子供たちから棒で叩かれる屈辱も受けた。公共の場に身を置くことすら危険となり、彼女の人生は瞬く間に崩壊していった。盗作元とされる作品は未だ発見されていないにもかかわらず、彼女は卑怯者として一方的に社会から排斥された。
エレオノーレは、どこへ行っても暴力を受け、仕事を失い、住む場所を追われる日々が続いた。最後には、生き延びるために亡命を選ばざるを得なかった。
ヴィルヘルムの話を聞き終えたアウローラとトーゲルは、言葉を失った。静まり返った倉庫の中で、エレオノーレの過去の重みが二匹の心に深く刻み込まれていた。
「この話は俺だけが聞いていた、ママの話だ。お前たちに話した意味はわかるか?」
「・・・」
彼らはエレオノーレの過去の凄まじさと重みを受け止めきれず、答えることができなかった。
「俺はお前たちを嘘で誤魔化したくない。あと、ママを嫌いになってほしくない。わかるか?」
彼らは激しく首を縦に振り、無言のまま同意を示した。言葉は出なかったが、その態度には深い理解があった。
ヴィルヘルムは少し息をついてから、穏やかな口調で続けた。彼女がどれだけ差別に苦しんできたか。勉学に打ち込み、古典アールブ語文学を愛していたにもかかわらず、その文学界から理不尽に拒絶され、深い奈落へと突き落とされたこと。命の危機にまで直面しながら、傷ついた心身を引きずるようにオルクセンにたどり着いたこと。
「体の傷は時間と共に癒えた。けどな、心の傷はまだ癒えていない。あれだけ愛していた古典アールブ語文学を、今は憎しみすら感じている。お前たちがママの作品を読んでいるのを聞いて、どんな気持ちだったか・・・それを少しでもわかってほしいんだ。」
彼の声には、エレオノーレの痛みを理解し、守りたいという気持ちが込められていた。アウローラとトーゲルはしばらく俯いたまま、言葉を失い、静かに考え込んでいた。
「これまでアウラに黙っていたのは、ママが傷ついたからってだけじゃないんだ。お前にはこんな想いを継いでほしくないんだよ。俺だってそうだ。俺からエルフィンドの悪口聞いたことあるか?あ、あるな。自分のことになると正直になっちまう。これは良くないな」
ヴィルヘルムとエレオノーレは、子供たちに自分たちの抱える呪いを背負わせたくはなかった。人間族とは異なる長い寿命の中で、いつか和解の時が訪れると信じていた。自分たちは過去を許すことができなくても、子供たちにはその憎しみを引き継いでほしくないと強く願っていた。
アウローラは少し戸惑いながらも笑みを浮かべた。
「でもな、古典アールブ語の勉強をするなとは言わない。そうだな、二匹とも現代アールブ語から始めたらどうだ?」
「えっ?」
アウローラは目を丸くし、トーゲルもきょろきょろと戸惑った様子でヴィルヘルムを見た。
「現代アールブ語なら俺も多少は教えられるし、教科書も俺が持ってる。それにトーゲルは文字を読める。最初の一歩にはちょうどいいだろう?」
「でも・・・ママが哀しむ。」
「大丈夫だ。ママもいずれわかってくれる。面白いことを禁止されてもやめられないだろう?それに・・・」
「なぁに?」
「いつかエルフィンドにアールブ語で『今なら許してやる。降参しろ』って言えるんだぜ。」
ヴィルヘルムは二匹の学びの火を消したくはなかった。学びは誰にも奪えない、生涯にわたるかけがえのない財産だと信じていた。特にアウローラには、その財産を糧に豊かで自由な人生を歩んでほしいと願っていた。
「本当にいいの?」
アウローラにとって学びは遊びそのものだった。それは未知の世界を広げる魔法の鍵であり、トーゲルと共に笑い合いながら夢中になれる最高のおもちゃでもあった。その鍵を握りしめるたびに、新しい冒険や発見が待っているという喜びが彼女の胸に湧き上がった。
「もちろんだ。ただ、これだけは守れ。アールブ語を嫌う元難民も多い。話す相手をよく考えるんだ。そしてママにはしばらく内緒にしておこう。それでいいな?」
ヴィルヘルムは、おそらくエレオノーレはしばらく顔を見せないだろうと考えた。彼女の心が整理されるまで、そっとしておくべきだと思った。そして、回復したエレオノーレなら、子供たちの学びを制限することは決して望まないだろう。そう考えていた。
「わかった。約束する。」
彼女は幼いながらも、アールブ語のタブーが持つ重さを感じ取っていた。それが思った以上に恐ろしく、深い影を落とすものであることを知った。それでも、彼女の中の好奇心は前に進みたがっていた。
「わかった。約束しよう。」
トーゲルもエルフィンド難民ではあったが、エルフ族の文化や社会をほとんど知らないまま、突然住処を追われてここにたどり着いた。それゆえ、ヴィルヘルムたちが経験したような壮絶な迫害を直接には受けていなかった。だからこそ、中立的な気持ちでアールブ語に触れることができたが、今回の出来事を通じて元難民問題の根深さを改めて実感し、ヴィルヘルムに誓いを立てたのだった。
「ママ、またトーゲルと遊びに行ってくるね」
アウローラは毎朝、寝室の扉越しに声をかけてから出かけていった。
エレオノーレは、アウローラと顔を合わせることができなかった。過去の呪いが忍び寄る恐怖に襲われ、我を失った彼女は、トーゲルの小屋で自分の醜い姿をさらしてしまったのだった。自分は生涯あの呪いから逃れることができないのだろうか。そんな思いが恐怖となって彼女を苛み続けた。
彼女の仕事は最低限維持できるよう、普段共に研究をしていたオーク族の農業助手カロラ・グライナーに引き継ぎを託した。カロラはその意図を正確に汲み取り、研究が滞ることのないよう細心の注意を払い尽力した。現在のガラス温室は彼女の丁寧な手によって維持され、高価な薬草の育成は安定して進んでいた。
ヴィルヘルムは気を揉んでいた。現在は職員が事情を察して補助してくれているが、エレオノーレも相応の地位にある限り、その職責を果たさなければならない。彼自身は地位にこだわりを持っていなかったが、彼女の帰る場所を確保しておきたかった。植物学は、エレオノーレがオルクセンで身につけた、新たな生きがいのひとつだったからだ。
エレオノーレは最低限の生活を送るためだけに、アウローラがいない時を見計らって寝室から出てきた。ヴィルヘルムが何度も促しても、わずかなライ麦パンを口にするのが精一杯だった。彼女の痩せ細る姿は日を追うごとに顕著になり、ヴィルヘルムの胸を締め付けた。
ヴィルヘルムはラピア農試の農業運営長として多忙を極めていたが、それでもエレオノーレのために可能な限り時間を作り、心を尽くして世話を焼いた。「ときぐすりが効くのを待つしかないのか」と、彼は自身の不器用さに苛立ちながらも、彼女の回復をひたすら願い続けていた。
エレオノーレも、自身を顧みていた。あの時、何が間違いだったのだろうか。ただ文学を楽しむだけで良かったのか。それとも、功名心が自分を破滅へと導いたのだろうか。しかし、それが本当に功名心だったのかさえ、今となってはわからなくなっていた。考えれば考えるほど、答えは霧の中に消え、同じ疑問がぐるぐると頭を巡った。「もし違う選択をしていたら?」、「そもそも詩を書くべきではなかったのか?」と、浮かんでは消える問いが彼女を苛んだ。気づけば思考はいつも同じ場所に戻り、自分を責める堂々巡りに囚われていた。
「机に向かって文学に打ち込んでいた頃に戻りたい」と、彼女は願った。しかし、それが叶わない願いであり、ただの逃避に過ぎないことを自覚していた。そして同時に、自分がなぜこの状況に陥ったのか、その原因を求めて果てしない迷路をさまよい続けていた。
「あの子の声が聞こえない」
エレオノーレは異変に気づいた。アウローラとトーゲルは何日も前から小屋での勉強を止めていた。しかし彼女は、その違和感にようやく気づいたのだった。自分がアウローラたちの場所を奪い、壊してしまったのではないか――そんな思いが胸に湧き上がり、罪悪感に苛まれた。
彼女は力なく扉を開けた。居間には、昼間から事務仕事をするヴィルヘルムの姿があった。畑仕事を愛する彼が自分を支えるためにここにいてくれる、その献身が静かに伝わってきた。だがその優しさも、彼女の胸には言いようのない罪悪感が押し寄せた。
「ヴィル、アウラはどこ?」
彼女は何日も口にしていなかった娘の名前をようやく呟いた。どうすればいいのか、自分でもわからなかった。様子を見に行くだけなのか、それとも直接会って話すべきなのか、あるいは謝罪の言葉を伝えるべきなのか。考えるたびに迷いが深まり、何も決められないまま立ち尽くしていた。
不器用なヴィルヘルムではあるが、少なくとも「元気になったか」や「その調子だ」などの逆効果を招く言葉を避ける配慮は持ち合わせていた。
「ああ、アウラね。トーゲルと虫取りに行ってるよー。森の中で虫をたくさん捕まえて遊んでたみたいだ。そういえば、相当でかい毛虫を掴んでたよ。ありゃあでかかった。体中につけて遊んでたー」
ヴィルヘルムは精一杯の演技で状況を取り繕おうとした。その様子は真剣そのものだったが、まるで喜劇の一幕のようだった。
「そう、ありがとう」
彼女は言葉を残し、ゆっくりとした足取りで部屋着のまま外へ向かった。
アウローラとトーゲルは、農業者が利用する食堂に通っていた。石畳に慣れてきたトーゲルは、小さく羽ばたきながら周囲に風を巻き起こし、軽やかに歩く方法を見つけた。その独特な歩き方で素早く移動し、アウローラと合流する。二匹は食堂で夕暮れまで現代アールブ語を学び、日が沈む頃にはトーゲルは小屋に戻り、魔術通信を通じて勉強を続けていた。
この日もいつもの食堂で、エルフィンド難民に配られる、アールブ語話者向けの低地オルク語テキストを使って勉強をしていた。本来は逆の教材が理想的なのだが、手に入りやすかったのはヴィルヘルムが最初に受け取ったこのテキストだけだった。いずれ彼が注文した本来の教材が届く予定である。
アウローラは目を輝かせ、トーゲルに興味津々で尋ねていた。
「それで・・・この語形の変化が、どうして『動作語』と『対象語』を区別するの?」
トーゲルは無表情で応じた。
「『~サ』は動作語に、『~スァ』は対象語に使う。」
「本当?それだけじゃないと思うんだけど」
「少し違うわ。『~サ』は動作する者の力強さを示すのよ。」
背後からのエレオノーレの声にアウローラとトーゲルは飛び上がり、声を失った。
エレオノーレは歩みを進めながら話を続けた。
「『~スァ』は影響を受ける側、つまり行為を受け取る対象を表すのよ。理解には被動形の要素も必要よ」
エレオノーレの声は弱々しかったが生気が宿り、徐々に力を取り戻し始めていた。
アウローラは、彼女の姿を目にし、体が硬直してその場に立ちすくんだ。
「ママ、これはあの・・・違うの」
ヴィルヘルムとの約束「アールブ語を見せるな」という言葉が頭をよぎった。アウローラは反射的にテキストとメモを小さな手で隠し、弁明を試みようと戸惑った。
トーゲルは、羽をかすかに震わせながら、しきりに瞬きを繰り返していた。
エレオノーレはアウローラ達の前に立つと、柔らかく微笑んだ。
「そのまま続けて。良かったら教えてあげましょうか?」
彼女は先ほどまで、少し離れた場所からアウローラたちの様子を眺めていた。熱中で学んでいるその姿に、かつての自分を重ねていた。あの頃の彼女は、自分の周囲で何が起きようと気にも留めず、目にも入らなかった。そんな日々を思い出していたのだ。
「でも…ママに悪いし。パパが、嫌な思い出がいっぱいあるって言ってた・・・」
アウローラは視線を泳がせ、消え入りそうな声でつぶやいた。
エレオノーレは、そんな娘に穏やかな声で話しかけた。
「そう・・・嫌なことも辛いことも、数え切れないほどあった。でも、机に向かって夢中になれた日々があったことを、今になって思い出したの。」
彼女はようやく気がついた。あの時、自分を苦しめていたものが何だったのかを。学問そのものが間違いではない――むしろ、それが彼女にとって救いだったことを、今ははっきりと理解していた。そして彼女は、間違いに気づいた。その使い方、戦い方に。
アウローラは息をのみ、その場で母の顔を見上げた。
エレオノーレは拳を強く握り、遠くの一点を見つめながら、決意を込めた声で言葉を放った。
「そう・・・これからは、アイツらが嘲笑する『韻も踏まない野卑で粗暴な言語』で、堂々と詩を紡いでやるわ。」
アウローラは首をかしげながら聞き返した。
「いんもふまない?」
トーゲルが淡々と応じる。
「意味は『文化的でなくーーー』」
「『自分が愛してる言葉』って意味よ。」
エレオノーレは遮るように言って、微笑んだ。
トーゲルも少し考えて、続けた。
「意味は『自分が愛してる言葉』だ。」
アウローラはぱっと明るく笑みを浮かべ、その笑顔のまま力強くうなずいた。
「そうだね!大好きな言葉で詩を作って!」
彼女の中で喜びが広がっていく。長い間沈んでいた母が、再び力強い言葉を紡ぎ始めている。その姿にアウローラは胸が熱くなり、心が踊った。
エレオノーレは一歩前に踏み出し、声に熱を込めた。
「そうね、負けてらんないわ。見てなさい。コンクールを総ナメにしてやるから!」
痩せ細った彼女の中に、力が湧き上がっていた。それはアウローラたちのひたむきな姿が生んだ希望であり、エレオノーレ自身が忌まわしい記憶から解放されるための自己暗示でもあった。声に出して宣言し、自分の心に言い聞かせていた。過去を断ち切るためのこの宣言は、彼女自身が新たな自分へと生まれ変わるための第一歩だった。
「すごーい。がんばって!」
「伊達に虫を食べてないからね!」
エレオノーレはオルクセン国境までの険しい山中を逃げ続けた。飢えをしのぐために、動くものは何でも手を伸ばした。ヘビ、虫、その幼虫・・・それまで忌み嫌っていたものを次々と食べた。そんな嫌な記憶も、彼女にとっては笑い飛ばすべき過去の一部になっていた。
「うぇー、ママ食べるの?」
「アウローラ、摘むのは難しいが悪くないぞ」
トーゲルは久しぶりの好物を耳にし、胸を高鳴らせた。
「うぇーみんなおかしい」
トーゲルが来る前、彼女は虫を捕まえては観察するのが日課だった。ただ、食べるなどという考えは一度も浮かんだことがなかった。虫はあくまで彼女の遊び相手だった。しかし、当の虫にしてみれば、たまったものではなかったに違いない。
「この地方にも虫料理があるのよ。今度、ハインツさんに頼んでおきましょう。レシピも一緒にお願いするわね」
エレオノーレは、自身の過去を清算するため、そしてアウローラに新しい知識と経験を得てもらいたいという思いから、本気で提案した。アウローラが断るならそれでもいい。ただ、なんでも挑戦するチャンスを示してあげたかった。
「私はパンだけでいいや・・・」
アウローラは耳を畳んでしょんぼりした。
「エレオノーレ、生の虫は手に入るかな?大きい幼虫がいい」
トーゲルは、思い浮かべたご馳走に胸を踊らせ、興奮を抑えきれず翼をぱたぱたと動かしていた。
「聞いてみましょう」
エレオノーレは、久しぶりに賑やかな食卓が戻ることが心から嬉しかった。「幸福を重ねて過去を覆い隠すのではない。過去も使って幸福を積み上げよう」そう願うのだった。
「おーっと、お前たち、こんなところにいたのかー。虫を探してたんだよな?どうだ、いたかー?」
ヴィルヘルムは、彼女を探し回ったせいで全身に汗をかいていたが、息を整えながら平静を装って近づいてきた。
「ヴィル、さっきアールブ語を教えてたの。それよりお腹がすいたわ。何か食べるものはあるかしら?」
エレオノーレは、彼の意図を察するまでもなく、全てを理解していた。それでも、不器用なその様子も含めて、彼の優しさを改めて愛おしく感じていた。
「そ、そうか。それはよかった・・・」
彼は彼女の突然の変わりように驚きを隠せなかった。何があったのかは見当もつかなかったが、ひとまず復活したエレオノーレの姿に安堵し、喜んだ。
「今ハンナが準備してるが・・・まだかかるんじゃないか?」
「そっか。うーん」
彼女は、意識的に考えるポーズを取った。その仕草はどこか子供っぽく見えたが、今の高揚した気分を途切れさせたくなかった。
「つまみ食いに行く人!」
エレオノーレはこれまで行儀の悪い振る舞いをすることはなかった。しかし、これからは殻を破って挑戦しようと心に決め、作り出した元気を振り絞って、笑顔で手を高く掲げた。
それを見たアウローラも、満面の笑みで手を上げ返す。トーゲルは嬉しそうに翼を大きくはためかせ、空気を跳ねさせるようにして応えた。
「よし、みんなで行こう!競争だ!」
ヴィルヘルムは声を張り上げ、笑顔を浮かべながら軽やかに駆け出した。後ろでは、エレオノーレとアウローラが弾むような笑い声を上げながら追いかけ、トーゲルは一生懸命に翼をパタパタさせて後を追った。みんなの笑い声は風に乗り、隠れて勉強していた食堂の静けさを抜け、普段と変わらないラピア農試へと広がっていった。
全員が、この穏やかなひとときが永遠に続くものと思い込んでいた。トーゲルもまた、その柔らかな空気に溶け込むように安心しきっていた。しかし、この日の余韻が薄れる頃、彼はこの日々と距離を置く決意をする運命を秘めていたのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回はエレオノーレの回、後半です。彼女の過去のトラウマや、それと向き合う苦しさを中心に描きました。自身がここまでメンタルをやられた経験がないため、この部分の執筆は悩みましたが、自身が体験している、調べ物をしたり過去の本を読み返したりする楽しさを取り入れることで、少しでもリアルな回復の過程を表現できたらと思います。
また、ヨーロッパでは昆虫食文化がほとんど存在しないことを踏まえつつ、登場人物たちが「生き延びるために食べる」姿勢を通して異文化体験を描いてみました。物語の流れにユーモアを交えながら、真剣なテーマも取り入れています。
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