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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
序章 特別な一日
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古語を話す者

ラピア農試の畑を荒らし続けた巨大なボス鹿が、ついに討たれる。その英雄は大鷲族の一人で、信じがたい激戦の末、見事に鹿を仕留めた。しかし、彼もまた力尽き地面に伏す。農業運営長ヴィルヘルムは感謝の意を伝えるが、英雄の口から発せられた言葉は「古典アールブ語」。その場に居合わせた全員が、彼の正体に驚愕する。

「誰か、エレネを呼んできてくれ!」

 ヴィルヘルムが叫んだ。


「なぜこんな内陸に難民が・・・」

「古典アールブ語が母語なんて聞いたことがない」


 職員たちは、それぞれが思い思いに呟いていた。誰もが強烈な違和感を覚えながらも、言葉にする理由を見つけられないまま、困惑した表情を浮かべている。


 難民は普通、国境で保護を求めるものだ。それは大鷲族や巨狼族でも例外ではない。しかし、眼前の彼は国境から二百キロも南に位置するラピアカプツェに初めて降り立ったかのようだった。

 さらに異質だったのは、彼が使った言語である。危機的状況において、人が最初に口にするのは通常、最も慣れ親しんだ言語、すなわち母語だとされる。そして、彼が話したのは古典アールブ語だった。


 古典アールブ語はエルフィンドにおいて、公文書や文学、詩歌など、正式で格式高い場面でのみ使用される言語である。一方、日常生活では現代アールブ語、通称「アールブ語」が主に用いられ、古典アールブ語を日常的に話す者はほとんど存在しない。

 この言語は高度な教育や特定の職業を通じて学ばれるものであり、単語や文法に加えて韻律や音楽的要素など、習得には特別な訓練が必要だ。そのため、古典アールブ語を「母語」として話す者がいるという状況は極めて異常であり、彼の出自や背景への疑念を一層深めるものだった。

挿絵(By みてみん)

 やがて、職員の一人がエレオノーレを連れてきた。コボルト族コーギー種の雌、エレオノーレ・ヴァルトマン。彼女もヴィルヘルムと同様、エルフィンド王国から迫害を受け、南のオルクセンへ逃げてきた元難民の一人であり、現在はラピア農試の農業技師(ホーフ・テクニカー)である。夫はヴィルヘルム。二人は夫婦だった。


 彼女は型破りなヴィルヘルムと違い高学歴の技師らしい装い、キャスケットに濃紺のウール製ジャケット、アイボリーのコットンシャツ、深いグレーの作業パンツ、黒いレザー作業ブーツを着用していた。手袋も黒いレザーで、全体的に機能性と上品さを兼ね備えた控えめな色合いだった。その姿は、地位相応の風格を漂わせていた。


「エレネ、こいつ古典アールブ語の母語話者だ。辛いだろうが、話しかけてやってくれ」


 ヴィルヘルムの頼みに、エレオノーレは静かにうなずいた。彼女は深呼吸を一つしてから、横たわる大鷲の頭の側にしゃがみ込んだ。

 彼女はエルフィンド王立文芸学院を修了した珍しいコボルト族であり、強い差別意識が根強く存在する中で古典アールブ語を学び、詩文学を専攻していた。


 話し出す瞬間、エレオノーレの表情に一瞬の影が差した。古典アールブ語を詠み、吟じ、紡いできたはずが、古典アールブ語に裏切られた。その記憶が彼女の顔を曇らせた。しかし彼女は意を決し、優しい声で弱った大鷲族に話しかけた。


『此処は安全なる地、我が名はエレオノーレ也。そなたの名は如何に?』


  大鷲は体を動かせず、力なく応える。


『・・・我、トーゲル・ホルンバッハと・・・申す者也。・・・いざ、願わくば水を賜り給へ。』


「今、水って言ったか?おい、水頼む!」

 ヴィルヘルムは荒っぽく職員に指示した。


 エレオノーレの夫ヴィルヘルムも、かつてエルフィンドで小作人として働いていた。彼はアールブ語を話すことができたが、文字を読むことはできなかった。それでも好奇心旺盛な彼は、エルフィンドの伝統農法に疑問を抱き、経験則と試行錯誤で自分なりの工夫を行っていた。だが、伝統から外れた行為は農業の神聖さを守る管理者に『異端行為』と見なされ、厳しく罰せられた。

 命の危険を感じた彼は遥かオルクセンを目指し、シルヴァン川を渡り切った。新天地で難民として受け入れられ、住居を与えられた。生活補助を受けながら初等教育から始め、ついにはラピアカプツェ農業大学で博士号を取得。キャリアを積み重ね、現在に至る。

 エレオノーレとは、技術交換のためハウプトシュタット王立農事試験場に行った際に出会い、結婚。その後、ラピア農試の管理棟兼住居に住み、研究を続けながら新天地で産まれた子供を育てている。


 職員の一人が桶で水を運んできた。急いでいたので、水は半分ほど溢れていた。


「ほら、飲めるか? みんな、手を貸してくれ!」


 ヴィルヘルムと職員たちはトーゲルの首下に腕を差し入れ、慎重に持ち上げた。首全体を支えないと気管を圧迫し、トーゲルが水を飲むことができなくなってしまう。彼は細心の注意を払いながら指示を出し、力が一箇所に集中しないように皆で協力して支えた。


 トーゲルは力なく嘴を桶に入れ、上を向こうと試みた。ヴィルヘルムはその動きを察し、下嘴を支えて、彼の首を上向きにさせてやった。重力で水が喉に流れ込み、ようやく飲むことができた。

 トーゲルはもう一度水を飲もうとしたが、満足したのかまたうなだれ、技師も察して介助の手を抜いた。


 トーゲルは弱々しくしゃべった。

『此処は何処ぞ。我、エルフの居ぬ山々まで飛翔せしや』


 皆は互いに視線を交わし、無言のうちに理解し合った。断片的にでも掴めるその言葉の意味は、まさに彼らが長きにわたって受けてきた迫害の証そのものであった。


『此処はオルクセン王国、エルフの影無き地。されど、恐るべきものは何一つなし。我、汝を助けんと願うのみ、安息の地へと汝を運ばん。恐れし心よ、ここにて安らかにせよ。』


 エレオノーレはトーゲルに優しくささやき、そっとその頭の羽を撫でた。トーゲルは一瞬、目を閉じて身を硬直させたように見えたが、すぐにその緊張は解け、再び身を委ねる意思を決めたかのように見えた。


 やがてオークが荷車を引いて駆けつけた。その場にいる職員は皆協力し、トーゲルの大きな翼を慎重にたたんで羽に気をつけながら、そっと荷車に乗せた。大鷲族は見た目に反して羽の量が多く、驚くほど軽かったため、体を掴むのが非常に難しかった。最終的には「変に掴んで羽をちぎるよりも、すくい上げたほうが良い」となり、大勢が羽に腕をうずめながら持ち上げた。どこまでが羽でどこからが体なのかが不明瞭で、多くの職員がコボルト族プードル種のふわふわした毛を触って遊んだ時の記憶がよぎった。


 ヴィルヘルムも村の酒場での体験を思い出し、

「パンよりパン職人の方がふわふわなんてどうかしてるぜ」と小さく笑った。


 トーゲルを乗せた荷車を皆でそっと押し進めた。体が軽いコボルトが荷台に乗り、トーゲルが落ちないように手を添えている。


「手が空いてる者は、このデカブツ運んどいてくれ。重ぇぞ」


 ヴィルヘルムはそう指示すると、血まみれでうつろに目を開けた鹿を見ながら言い放つ。


「おう晩飯、もう逃げんじゃねぇぞ。そこで待ってろ。」

 そしてトーゲルの荷車に走っていった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


原作では古典アールブ語がどのような言語か明記されていなかったため、僭越ながら日本語の古語を参考にして表現してみました。現代アールブ語についても原作に具体的な設定はありませんが、「現代アールブ語に近い古語だろう」という想定で描写しています。少しでも雰囲気を楽しんでいただけたなら嬉しいです。


今回の章では、異質な存在であるトーゲルと彼を迎える職員たちの戸惑いや救助の様子を描きました。古典アールブ語を通じて築かれる信頼や、エレオノーレの葛藤と覚悟に注目してもらえたら幸いです。


また、翼を持つトーゲルの扱いや介助の描写では、猛禽類の生態や動きも参考にしながらリアリティを追求しました。水を飲ませるシーンや荷車に乗せる場面では、慎重さと緊張感を表現するために何度も書き直しましたので、印象に残っていたらぜひ感想を聞かせてください!


これからも物語は進展し、トーゲルの過去やラピア農試での生活が明らかになっていきます。読者の皆様の反応が作品づくりの大きな励みになりますので、気に入ったエピソードだけでも「いいね」や感想をいただけると嬉しいです!


引き続きお楽しみいただけますように。どうぞよろしくお願いします!

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