翼のための書類
トーゲルは、ラピア農試での回復を経て、ついに飛翔を試みる日が来た。体調は完全ではないが、彼の大きな翼が広がり、力強く羽ばたきながら空へと舞い上がる。職員たちの驚きと祝福を受け、トーゲルは広大な農試場を旋回し、その美しさに心を打たれる。同時に、過去の山での厳しい生活と今の新たな世界に抱く郷愁と革新の感情が交錯する。
「そろそろ戸籍申請してもらおうか」
ヴィルヘルムが、勉強しているトーゲルとアウローラの小屋に入って言った。
相変わらずキョトンとしているトーゲルに、ヴィルヘルムは説明した。
オルクセン王国では、亡命した難民を法律に基づき保護する制度が整備されている。国境沿いの移民管理局で仮登録が行われ、その後、仮住居が提供される。ここで生活基盤を整え、身体検査や技能評価を通じて必要に応じた支援を受ける。
仮住居で一定期間を過ごした後、難民たちは識字教育や職業訓練を受け、新たな生活環境に適応する準備を進める。教育水準に応じて義務教育や高等教育の機会が与えられ、社会に貢献することで国籍取得の手続きが始まる。オルクセン王国の国籍政策は、難民を「新市民」として迎え入れ、社会の一員として統合する仕組みを持つ。
国籍を取得した者は国家の義務を負い、徴兵制の対象にもなる。また、労働参加や税収への貢献は国の経済を支える柱となる。技能や知識を持つ難民がもたらす技術革新や文化的多様性は、国家の競争力を高める要因と考えられている。
エルフィンドの民族主義政策による難民流入を背景に、オルクセンは難民統合と国家秩序の維持を目的とする制度を整備した。特に国籍付与による「新市民」創出は、多様性を受け入れつつ、社会の安定と経済発展を両立させる試みとして重視されている。この政策は、難民を単なる保護対象ではなく、国の未来を支える仲間として受け入れる象徴でもある。
「とまあ、これが申請の流れだ。複雑だが、よその異国民を受け入れるんだ。仕方ねぇことさ。」
ヴィルヘルムはそう言いながら、さらに説明を続けた。トーゲルがラピア農試に現れた日、彼はすでに移民管理局とのやり取りを済ませていたという。ヴィルヘルムによれば、大鷲族は飛行能力を持つ特性上、国境を越える事例が少なくない。そのため、各州都には大鷲族を受け入れるための特別な体制が整えられており、主要な手続きはそこで済ませられるのだという。
「俺は初めて来たとき、あっちこっち歩き回されて苦労したが、大鷲族は歓迎されてるらしいな。まあ、見たところ歩きにくそうだからな。」
ヴィルヘルムは軽く笑みを浮かべながら、手にしていた地図をアウローラの小さな机の上に広げた。
「この図はなんだ?待て、考える。」
トーゲルが真剣な表情でクイズに挑もうとするが、ヴィルヘルムは仕事の合間で時間がなかったため、すぐに答えを明かした。
「悪いが答えは地図だ。この地図は300ラングもするんだ。大事に扱ってくれよ。」
ヴィルヘルムはそう説明しながら、州都ラピアカプツェの地図上で移民管理局支部の位置を指し示した。そこには屋根の上に目印の旗と止まり木が設置されており、大鷲族が手続きを行いやすいように工夫されているという。
「健康診断書と身元引受人証明書が揃っていれば、多くの手続きが省略される仕組みだ。引受人の名前には俺が署名してあるから、問題はない。」
ヴィルヘルムは淡々と語りながら地図を指し示し、トーゲルに必要な情報を丁寧に伝えた。その手際から、彼が既にこの件についてしっかり準備を整えていたことが窺えた。
「ヴィルヘルム、ありがとう。わかった。一つ質問がある。」
「一つしか質問がないなんて、そっちのほうが驚きだ。なんだ?」
「300ラングとはどういう単位だ?重さではないな。」
その問いに、ヴィルヘルムとアウローラは一瞬居を突かれたような顔をした。お互いに視線を交わし、苦笑いを浮かべながら、どう説明すべきか頭を悩ませた。ヴィルヘルムは簡潔に済ませようと試みるが、結局は説明が回りくどくなり、アウローラがそれを補足する形になった。
「あー、ラングってのは・・・その、えー、まあ、価値を計るものだな。」
「重さじゃないけど、役に立つ物と交換できるものなんだよ。」
そんな二人の試行錯誤に、トーゲルはさらに考え込む。最終的に、ヴィルヘルムが少し投げやり気味にこう締めくくった。
「腐らない肉だと思ってくれ。それを渡せばお礼ができるし、他の物とも交換できるんだ。」
その言葉に、トーゲルはようやく納得したように頷いた。「腐らない肉」という表現は、彼の中で抽象的な概念を具体化するのに十分だったらしい。
「では行ってこよう。書類は足に縛ってくれ」
「おいおいもうかよ。地図はどう持つ?咥えるのか?」
「覚えたので大丈夫だ」
ヴィルヘルムが封書をトーゲルの足に縛り付けると、トーゲルは鈎爪を石畳に響かせながら一歩一歩歩き出した。広場の中央で彼は立ち止まり、大きく翼を広げた。鈎爪が石畳を滑るように音を立てた後、彼は強く羽ばたき、風を巻き起こしながら宙に浮かび上がった。そしてそのまま力強く空へ舞い上がっていった。
「トーゲル、大丈夫かな」
「当時の俺くらいにはなってると思うが・・・優しい担当に当たるといいな」
「パパの時は優しかったの?」
「あまり思い出したくねぇな」
ヴィルヘルムは顔をしかめながら、当時の記憶がよぎった。異国の地で、安堵と不安が入り混じる中、大勢の人々が次々と列を作って移動する光景。周囲には、エルフィンドの畑では決して見なかった多種多様な魔種族たち。ヴィルヘルム自身も、その中の一人として群れに連なって進むしかなかった。
「まぁ、もう二度はやらなくて済むからな」
ヴィルヘルムはポツリと呟き、目の前の空を眺めた。
大鷲族の飛行能力は徒歩移動の速さとは比較にならず、地上の地形を無視してまっすぐ高速で移動することができる。トーゲルは大きく広げた翼を時折羽ばたかせ、魔種族が半日かけて辿り着く州都ラピアカプツェへ、わずか数分で到達した。
到着した瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、無数に連なる建物の群れと、それ以上に多く行き交う魔種族たちの姿だった。巨大な屋根が並び立ち、複雑に交差する道路、そしてそれらを縫うように動く魔種族たち――その光景は、彼の馴染んだ山々や静寂の森とはあまりにも異質だった。
トーゲルは一瞬、羽ばたくのを忘れるほど驚愕し、空中で小さく旋回しながら全体を見渡した。すると、以前かいだことがある嫌な刺激臭を再び感じた。
「石炭か」
建物の煙突から立ち上る排煙は街の空気を混ざり合い、広がって街全体を覆っていた。
「ゆっくり見物している暇はないな」
そう呟くと、トーゲルは記憶していた場所に向かい、高度を保ちながら街の上空を飛んでいった。時折、屋根に止まり木や大きな横穴が設けられている建物が目に入る。そこに他の大鷲族の姿は見当たらなかったが、これらの構造が街の住人である彼らのために作られたものだとすぐに分かった。トーゲルは、彼らが既にこの都市に腰を落ち着け、生活に馴染んでいる様子を想像した。
やがて、目印の旗と止まり木が視界に入り、トーゲルは移民管理局と記された建物に降り立った。止まり木に鈎爪をしっかりと噛ませ、安定を確認すると、すぐ横にある小さな鐘を嘴で鳴らした。鐘の音は建物に響いたが、応答はない。トーゲルはもう一度鐘を鳴らし、しばらく待った。
やがて、建物の中から階段をゆっくりと上がる音が聞こえてきた。その音は徐々に近づき、屋根に通じる扉がゆっくりと開いた。現れたのは、メガネを掛けたオーク族の男性だった。手には書類の束を抱え、事務的な雰囲気を漂わせている。その姿は、トーゲルがラピア農試で見慣れた書類仕事専門の事務員と似ていた。
「ヴィルヘルムさんから連絡があったトーゲルさんですね。ようこそ、我がオルクセン王国へ。我が王に成り代わり、あなたを歓迎いたします。」
オーク族の男性は、定型文を読み上げるような平坦な声で挨拶の言葉を述べた。その後、扉の内側に設けられた小さな机に書類を置き、椅子に腰を下ろした。
「私はオルクセン王国移民管理局庶務課・外国魔種族登録係、ラピアカプツェ支部の特定地域担当事務官、ホフマン・ミヒャエルです。遠路はるばるご苦労様でした。手続きはすぐに済みますので、しばらくお付き合いください。この記録は公式のものですので、虚偽がないようお願いします。虚偽申告が判明した場合、こくせが発行拒否または無効とされる可能性があります。」
淡々とした説明に、トーゲルは一瞬考え込んだ。「すぐ済むのにしばらく付き合う」という表現に引っかかりを覚えたものの、これがここでの「ルール」なのだろうと思い、「わかった」と短く答えた。
「では、お名前をフルネームで教えてください。」
ホフマンの問いかけに、トーゲルは一瞬逡巡した。しかし、彼は小さく息を吐いて「トーゲル・ホルンバッハ」と名乗った。
ホフマンは彼の名前を記録用の紙に淡々と書き留め、さらに質問を続けた。
「出生地を教えてください。」
トーゲルは眉を寄せながら答えた。「山の中だ。地名はしらない。」
ホフマンは軽く頷くと、書類に「特定不可」と記入しながら続けた。家族構成、以前の職業や所属団体、そして特技や技能など、質問は細かく続いた。
基本情報
氏名: トーゲル・ホルンバッハ
年齢: 不明(推定100歳以上)
種族特性: 大鷲族
性別: 雄
身長/翼長: 身長 約2.1m、翼長 約6.5m(別紙 健康診断書 814-HLT-LK-MED-00567より転載)
体重: 約60kg(回復中のため変動あり 別紙 健康診断書 814-HLT-LK-MED-00567より転載)
母語: 古典アールブ語
宗教: 伝承信仰
国籍: 無国籍
家族情報
家族構成: 父・母(現在所在不明、存命確認困難)
居住・学歴・職業
出身地: 特定不可(エルフィンド未登録山岳地帯在住)
学歴: なし
職業: 猟師(非商業)
所属団体: 該当なし
状況・記録
雇用経験: なし
希望職種: なし
社会経験: 隔絶した自然環境での自己完結型生活(社会適応度低)
犯罪歴: なし(狩り趣向に独自の規範あり)
病歴: 不明、性病なし(別紙 健康診断書 814-HLT-LK-MED-00567 参照)
生活習慣・特性
趣味: 不明(「趣味とは何か?」と質問)
財産状況: 手持ち品なし、貯蓄なし
旅行歴: なし、長距離飛行は今回が初
恋愛歴: なし(「何のため?」と疑問を呈する)
食事嗜好: 肉(鮮度の高い獲物を好む。「加工肉は伝統に反する」との注記あり)
ストレス解消法: なし(ストレスの意味を理解せず)
睡眠習慣: 単独睡眠(木の上または高所)
対人関係: なし(亡命後はラピアカプツェ農業技術試験場職員と交流。アウローラなる者と友誼あり)
健康状態の備考: 怪我からの回復中、飛行可能まで回復(別紙診断書より転載)
社会規範: ややあり(伝統と伝承を規範とする)
亡命経緯: (書類「814-IM-LK-BZN-00123-2/5,3/5,4/5」を参照)
能力・適応
連続飛行可能時間: 不明(環境により変動あり)
言語能力:古典アールブ語(母語)、低地オルク語(学習中、日常会話レベル)
衣類状況: なし
生活必需品: なし
金銭管理経験: なし
時間感覚: 季節単位での生活リズムに基づく
文化的背景: 大鷲族の口承文化
飛行時の注意点: 静止飛行が困難、強風時の制御にリスクあり
自然環境適応力: 高所や寒冷地での生活に適応、平地での長期滞在は不慣れ
視覚特性: 極度の遠距離視覚能力、夜間視力なし
移民管理局備考欄 登録時の特記事項:
身元引受人 ヴィルヘルム・ヴァルトマン、
住居 ラピアカプツェ農業技術試験場管理棟外壁(証明書相当 814-IM-LK-BZN-00123-5/5))、
義務教育相当の知識あり(一部に偏り)、教育環境あり
社会適応支援案:
大鷲族が得意とする分野(遠距離探索、空中偵察など)への適性を評価するプログラムの導入
「さて、次ですが――」
冷淡な調子で質問を続けるホフマンに、トーゲルはついにしびれを切らした。
「ホフマン、待て。他の魔種族もこれほど細かく質問をされるのか?」
トーゲルは目や喉に感じる痛みを我慢しながら苛立ちを滲ませた。しかし、ホフマンは一切動じず淡々と答えた。
「いいえ、これほどは聞きません。」
「ならば、なぜ私は質問が多いのだ。」
トーゲルは翼を小さくはためかせ、抗議の意を示した。
「他の方々は自分で書類を記入されますので、補足的な質問をいくつか行うだけで済みます。」
ホフマンはそう言いながら、書類の誤記と思われる箇所をペンで丁寧に修正した。
「そうか、すまない。大変な思いをさせた。」
トーゲルは首をもたげ、申し訳なさそうに謝罪した。羽根がわずかにすぼみ、全体的に体が小さくなった。
「お気になさらず。この仕事で給料を頂いておりますので。」
ホフマンは書類を手に取り、目から少し離して全体を確認した後、さらに冷静に答えた。
「そうか。ラングという腐らない単位を受け取るのだな?」
「そうです。」
ホフマンは短く答えながら、金銭管理経験の項目にさらりと「(価値交換の概念に疎い)」と書き加えた。
さらにいくつか質問を投げかけ、トーゲルの答えを記入した後、ホフマンは項目を指でなぞりながら内容を確認すると、手早く書類を束ねた。
「この記載に間違いがなければ、確認の印をお願いします。右の爪の甲をこちらの欄に押し付けてください。カーボン紙の上に・・・そうです、そのまま・・・ありがとうございます。」
ホフマンは床に置いた書類を拾い上げ、また揃えた。
「さて、これで質問は以上になります。お疲れ様でした。私の口からは言えませんが、市民権はスムーズに発行されるでしょう。」
トーゲルは反射的に「言っているではないか」と嘴を開きかけた。しかし、これも「役所」という場所のルールなのだろう。余計なことを言うなとアウローラに散々注意されていたトーゲルは、嘴をつぐんだ。
「通常は聴取、学力テスト、健康診断、能力テスト、仮居住地への移動など、いくつもの手続きを踏まなければならないのですが、あなたは良い友をお持ちで幸運でした。こんなケースはめったにありませんよ。大鷲族は国としても優遇していますからね。ご自分の立場をありがたく思うべきでしょう。」
ホフマンの平坦な言葉に含まれる何かに、トーゲルは若干の違和感を覚えたが、その感覚を言葉にする術はなかった。ただ、自分を助けてくれたヴィルヘルムへの感謝の念だけは確かなものだった。
「申告した場所で生活してください。引っ越しなどの際は担当係に連絡を。」ホフマンの言葉を背に受けながら、トーゲルは軽く頷き、止まり木から離れると足早に飛び立った。翼を広げて街を離れるにつれ、空気は次第に澄み渡り、彼の喉や鼻にまとわりついていた煙の刺激も薄れていった。
「街はもっと見たかったが、役所は面白くない体験だった」
トーゲルは羽根を小刻みに動かしながら静かに考えた。澄んだ風が彼の体を包むと、ようやく気が緩むのを感じた。
やがて、彼は馴染み深い住処へと向かって羽ばたきを続けた。ラピア農試の輪郭が遠くに浮かび上がり、トーゲルの心は徐々に軽くなっていった。
ラングの価値も石炭の排煙も、この街では不可欠なのだろう――少なくとも誰かにとっては。
今回は、トーゲルが市民権を得るための手続きを通じて、文明社会の制度や価値観に触れるエピソードを描きました。役所での細かな質問攻めや貨幣制度への戸惑いは、彼の視点から「社会の仕組み」を再認識できるよう意識しました。
聴取内容はかなりふざけて考えています。笑っていただけたら幸いです。また、「市民」なのか「国民」なのか用語のブレがあり悩みました。当時は農民や労働者の権利が制限されており、「市民」は現代の「国民」とは異なる概念ですが、話の流れでは近い意味合いで扱っています。
19世紀初期の地図は、現代とは違い貴重なものでした。当時の地図製作は測量技術と職人技の結晶であり、地方ごとの詳細情報は経済や軍事戦略にも不可欠でした。
価格についても、紙や印刷技術の限界から高価で、現在の日本円で25,000円程度(貧富格差を考慮すればさらに高価)と推定されます。特に農業や移民管理では、地図が土地所有権や境界線を示す証明書の役割を果たし、「文明の象徴」として重要視されました。
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