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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
第二章 お勉強の時間
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瞳に映る革新と郷愁

ラピア農試でアウローラとの勉強を通じて親交を深めるトーゲル。彼女の好奇心や父ヴィルヘルムとの対話は穏やかな夜を彩るが、何気ない言葉がトーゲルの心に揺さぶりをかける。大鷲族の誇りを支える「双子の生存戦略」が、オルクセンの常識と食い違い、自身の信念を疑わせるきっかけとなる。孤独な夜、トーゲルは問い続ける——「我々の誇りとは何だったのか」。星空の下で繰り広げられる葛藤は、彼の内面に深い亀裂を生じさせた。

 トーゲルの翼が遂に蘇った。酷使と飢えで傷ついた体は、ヴィルヘルムをはじめとするラピア農試職員の献身的な手当と、十分な栄養摂取によって徐々に回復し、ついに飛翔を試みる日を迎えた。その姿は、まだ完全ではないものの、彼がかつての誇りを取り戻すための重要な一歩だった。

 季節がわずかに移り変わりを感じる中、広場を囲む木々の枝先には新しい風が通り抜けていた。朝露に濡れた草は陽光を受けてきらめき、夜明けから徐々に明るくなる空は、トーゲルの復活を祝福するかのようだった。


 管理棟裏の小屋から、トーゲルは一歩一歩慎重に歩を進めた。広場中央にたどり着くと、ヴィルヘルムと娘のアウローラの前で立ち止まり、「十分回復できたようだ。感謝している」と低い静かな声で述べ、真摯に頭を下げた。その礼儀正しい態度に、アウローラはただ驚きの眼差しを向け、ヴィルヘルムは短く「無理するなよ」とだけ応じた。


 トーゲルは石畳の上を鈎爪で歩きにくそうに進みながら、かつて自分が職員たちに荷車から降ろされた場所まで移動した。そして、広場の中央で停止し、大きく翼を広げた。その翼はアウローラが想像していたより遥かに大きく、まるで空を覆うようだった。彼女はその壮大な姿に目を見張り、ただ感嘆するばかりだった。一方で、ヴィルヘルムは体調を気にかけ、声には出さないものの、不安を滲ませた視線をトーゲルに向けていた。


 光を反射して輝くはずの羽毛は、ところどころ剥げ落ち、汚れがこびりついていた。一部の羽は折れ、全体的に乱れが目立つ。完全ではないその翼にもかかわらず、トーゲルは動きの感触を確かめるように軽く羽ばたき、「少し離れていてくれ」と二人に頼んだ。アウローラは素直に頷き、ヴィルヘルムとともに距離を取った。


 トーゲルは数度、大きく羽ばたいた。生じた旋風は凄まじく、アウローラのスカートをはためかせ、ヴィルヘルムの帽子を吹き飛ばした。その風圧は嵐のようであり、広場の隅に置かれた藁束が宙を舞うほどだった。アウローラはその力強さに目を輝かせ、「すごい!トーゲル、がんばって!」と歓声を上げた。トーゲルは微かに微笑みながら、その声に応えるようにさらに大きく羽ばたいた。


 そして、トーゲルはゆっくりと垂直に上昇し始めた。静かに石畳から鈎爪が離れ、体が宙に浮かぶ。その様子を見守る職員たちは、旋風に吹かれながら息を呑んで見つめていた。トーゲルの翼が空気を切るたびに、地面に落ちていた藁や葉が宙を舞い、広場に新たな動きを生み出した。


 職員たちの頭の高さほどまで上昇したトーゲルは、翼をさらに力強く羽ばたかせ、今度はゆっくりと前進を始めた。その姿は慎重でありながらも力強く、翼が作り出す低い風音は鼓動のように響いていた。アウローラはその光景に目を奪われ、「すごい・・・」と小さな声で呟いた。


 彼らの頭上を越え、麦畑の上を平行に飛ぶ。次第に速度を増したトーゲルは、やがて滑空と羽ばたきを繰り返しながら慎重に高度を上げていった。その姿は力強さと優雅さを同時に感じさせ、広場を見下ろす位置まで達したトーゲルは、さらに大きく羽ばたきながら遠くの空へと進んでいった。その背中を見上げる職員たちは、ただその姿に見惚れるばかりだった。


「ひゃー、いつ見てもすげぇな。鹿が持ち上がるわけだ」

 ヴィルヘルムは呆れたような顔をしながらも、口元に小さな笑みを浮かべてつぶやいた。


 アウローラは「待ってー!」と無意識に声を上げると、思わず広場の中を駆け出した。小さな足音が石畳に響くが、彼女の視線の先にあるトーゲルはすでに空高く舞い上がり、手が届かない場所へ向かっていた。



 トーゲルはラピア農試を旋回し、俯瞰した。彼には初めて見るものばかりであった。実際は最初に降り立った時に見えていたはずだが、夜と連日の豪雨、空腹、疲労で視界に入っていなかった。しかし再び空を取り戻したこの日は朝日も眩しく、全てが輝いて見えた。


 青空を背に、トーゲルは翼を広げ、試験場の全体像を見下ろしていた。後に、それぞれの施設名をアウローラから聞くことになる建物や構造物の数々を、彼は驚きの目で俯瞰していた。農場の中心には慣れ親しんだ管理棟が建ち、その周囲には大小さまざまな建物が散らばっている。

 北には研究施設があり、ここでは農業技術や肥料の実験が行われている。ガラスの温室は朝日を受けて氷のように輝き、その中では未知の作物が整然と育てられている。

 東には広大な麦畑が広がっている。区画ごとに分けられた畑は、規則正しく伸びる道が網目のように走り、計画的な整備が際立つ。畑の各所に置かれた農具や風車型の揚水装置は、どれも機能美を備えており、トーゲルには驚きの対象だった。肥料を調整する作業場では、土や堆肥が山のように積まれていた。

 南には家畜エリアが広がっている。柵で囲まれた敷地には、牛、豚、羊がそれぞれの厩舎や放牧地に散らばっている。鶏舎ではガチョウ、アヒル、ニワトリが群れを成し、柵の中を活発に動き回っていた。羊小屋の周囲で風に揺れる柔らかなバロメッツ種の羊毛も、彼の目には新鮮だった。

 川沿いの水車小屋は複雑な音を立てながら回転している。その脇には低木が植えられ、川辺では水を飲む動物たちの姿が見える。トーゲルは、水路の直線と曲線が織りなすコントラストを眺めながら、この場所全体の整然とした美しさに心を弾ませていた。


「これがラピア農試か。初めて見るものばかりだ。面白い」

 トーゲルはゆっくりと羽ばたきながら、その光景を記憶に刻み込むように、目の前の広大な景色を見渡した。


 十分に試験場を旋回したトーゲルは、さらに範囲を広げ、アウローラから聞いていたノイカプツェ村を目にした。村の中心には簡素な集会所があり、その隣には小さな酒場兼宿と雑貨店が並んでいた。川沿いには水車小屋が佇み、遠くには鍛冶屋の煙突から細い煙が立ち上っている。素朴ながらも生活感に満ちた村の全体像が、一つの調和した風景として広がっていた。


 トーゲルは鍛冶屋の排煙が気になり、その濃い灰色の煙に近づいた。しかし、煙が鼻腔を突き、微かな刺激が目を潤ませたことに気づくと、自分の好奇心を少し悔やみながら軽く首を振った。


「知らない物がたくさんあった。またアウローラに聞いてみよう。」


 そう呟いたトーゲルは、久しぶりの飛行に疲れを感じながら、アウローラの待つ小屋へと戻っていった。



 この日はアウローラにとって忙しく、勉強どころではなかった。トーゲルから矢継ぎ早に質問が飛んでくる中、彼女は施設のあちこちを駆け回って答えを探すことになった。「ガラスの家で何をしている?」「川の車輪はなぜ回る?」「牛や羊、鳥はどこから連れてきた?」といった質問に応えるため、温室で薬草を育てる理由を研究員に尋ね、水車小屋で仕組みを聞き、家畜の詳細を魔術通信でトーゲルに伝えた。排煙でむせた原因については「燃え方が悪いから煙が多くなる」と、どこか的を射ていない答えをしぶしぶ伝えるだけであった。ひたすら聞いて回ったが、アウローラとトーゲルの魔術通信がなければ半分も調べられなかっただろう。


 自分が知っているつもりだったことが、実はまだ理解しきれていないと気付くたび、アウローラは学び直しの喜びを胸に駆け回った。彼女のその額には次第に汗が滲み始めていたが、足取りは軽やかだった。


「私の代わりに走ってもらってすまない。歩くことはできるが、遅くて鈎爪も石畳に向いていないのだ」


 トーゲルが低い声で謝罪すると、アウローラは小さく首を振りながら笑顔を浮かべた。彼女はこれまでも好奇心に駆られて施設を探検していたが、トーゲルの質問を受けて改めて細部に目を向けると、慣れた景色が新鮮に映り、世界が鮮やかに広がるように感じていた。彼女はトーゲルに礼を述べていた。


 彼は新しい知識を得るたびに、道具や工夫への敬意を徐々に抱くようになっていった。それまでは、「体さえあれば生きられる。道具に頼るのは弱さの証だ」という、不遜ともいえる考えを持っていた。しかし、それは彼自身の選択ではなく、伝承に根差した価値観がもたらしたものだった。

 今の彼は考えを改め始めていた。傷ついた体を癒せたのは、道具で薄く切られた板で囲われた小屋のおかげであり、道具で食べやすく加工された肉のおかげだった。さらに、蝋燭の光は暗闇をわずかでも照らし出し、見るべきものを浮かび上がらせてくれる。漆黒の森に潜んで不安を生き抜いた彼にとって、光のもたらす便利さや安心感を感じずにはいられなかった。やがて彼の中で、長い間疑問すら抱かなかった価値観が少しずつ揺らぎ、柔軟さを帯びていった。


 トーゲルは、アウローラの説明に耳を傾けながら好奇心を満たしていく一方で、知らず知らずのうちに胸の奥にくすぶる寂しさも同時に感じていた。

 彼が過ごしてきた山には、丘を切り開いて建てられた施設、整然とした景観は存在しなかった。

 多くの草木が陽光を奪い合いながら繁茂し、四季ごとに表情を激しく移ろわせる川の奔流。生き物たちは捕食と被食を繰り返し、わずかな隙をついて生き延びようとする。絶え間ない競争と変化が織り成す山の自然は、優しさとは無縁の厳しさを湛えながら、そこには命の力強さがあった。

 そんな賑やかな山を、密かに懐かしんでもいた。


 トーゲルは知らぬ間に、革新と郷愁を同時に噛み締めていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


今回は、トーゲルの飛翔を通じて「再生」と「成長」を描いたエピソードでした。長い休息と試練を経て再び空へ飛び立つ姿は、物語全体のテーマでもある「変化と適応」の象徴です。


また、視点の変化や新たな発見にも焦点を当てました。空から俯瞰したラピア農試の風景は、トーゲルが知らなかった世界の広がりを示すとともに、文明と自然の違いを対比させています。このギャップが、彼の探究心や葛藤を引き出す鍵になっています。


さらに、アウローラとのやり取りでは、知識の共有や好奇心の重要性を通じて絆が深まる様子を描きました。トーゲルの質問にアウローラが答えを探す姿は、互いの成長を促す「学び合い」の象徴です。


書いていて気づいたことですが、ラピア農試の詳細説明はこのシーンで自然に描写できたため、序盤での長い解説は不要だったかもしれません。書きながら演出面での反省と学びがありました。


そろそろアマゾンの少数部族をモチーフとしたテーマから離れ、新たな視点や文化を取り入れていく予定です。


感想や「いいね」をいただけると、これからの執筆の励みになります! 特に、トーゲルが文明に適応していく過程や、アウローラとの関係性についてのご意見をいただけると嬉しいです。


これからも応援よろしくお願いします!

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