信用と信頼
トーゲルはヴィルヘルムとアウローラから「ありがとう」を学び、言葉の使い方に挑戦し始める。挨拶や感謝を通じて仲間と関係を築き、新たな社会性に向けて一歩踏み出す。
数日後、トーゲル専用の部屋が完成し、彼とアウローラは勉強を通じて交流を深めた。アウローラは単位や戦争の歴史を説明するが、戦争の話題が彼女の心に影を落とす。一方で、トーゲルも自身の過去を振り返りながら、戦争の悲惨さと新しい仲間を得た意義を理解し始める。トーゲルはアウローラの気遣いや指導を受け、感謝の言葉を自然に使えるようになるが、まだ彼独自の価値観を持ちながら成長を模索している。痛む翼の回復を待ちながらも、挨拶や感謝を練習し、少しずつ新しい社会に適応していく様子が描かれる。
「セレナ嬢、何を考えているんだ・・・」
ヴィルヘルムは便箋を読みながら呟いた。
夕飯を終え、居間でくつろぎながら郵便を開封して確認するのが日々のルーチンの一つである。その中に、ファーレンス商会ラピアカプツェ支店から届いたセレナの封書があった。封を切り、中の便箋に目を通すと、「飛べるようになっても滋養に良いバロメッツ種や牛を食べさせて。早く力をつけさせてあげて、野生動物なんか食べさせないで」と書かれていた。
ヴィルヘルムはその内容に訝しさを覚えた。セレナが貴重な肉をトーゲルに与えろと言う理由を探ろうと、彼女の意図を読み解こうとしたのだ。
第一に、彼女が単なる親切心でこれを言っているとは考えにくい。彼女の冷徹な合理主義からすれば、そのような行動には何らかの目的があるはずだ。では、何のためだろうか?恩を売りたいのか?ヴィルヘルムや職員たちの関心を買いたいのか?それとも、ラピア農試をコントロールしたいのか?
彼は考えを巡らせたが、どの仮説にも今ひとつ納得がいかず、満足できなかった。
エレオノーレはコーヒーをヴィルヘルムの前に置くと、自分もカップを手に取り、一口含んで椅子に腰を下ろした。
「どうしたの?珍しく難しい顔して。」
「セレナ嬢の狙いがどうにも掴めなくてな。」
ヴィルヘルムは重たそうにため息をつき、机の上に置いてあった便箋を手に取る。
エレオノーレが「いいかしら?」と手を伸ばすと、ヴィルヘルムは渡しながらコーヒーを一口飲んだ。
「なるほど。何を考えているのか、さっぱりね。」
エレオノーレは便箋を読み終え、肩をすくめてカップを置く。
「だろ?大鷲族は孤独を好む。これじゃ『ここで甘やかせ』って言ってるようなもんだ。ちやほやさせてどうするつもりだ?普通のセレナ嬢なら『飛べるようになったら即移民局へ送り出して、仮設住居に入れて国に任せろ』って言うはずだろうに。」
ヴィルヘルムは椅子の背にもたれ、手元のカップをぐるりと回しながら苛立ちを吐露した。
「そうね。私は彼にいて欲しいんだけど。」
静かに呟き、便箋を机に戻した。
「俺もだ。素直で面白いやつだし・・・こないだのアイツと来たら――」
ヴィルヘルムは一瞬口に手を当てたが、思い出し笑いが込み上げるのを抑えられない。
「頑張ってるわよね、彼。それにアウローラがずっと一緒に勉強してるのよ。まるで弟ができたみたいに優しく教えている。それってすごくいいことよ。」
エレオノーレはテーブルの上に両肘をつき、穏やかな微笑みを浮かべた。
「そうなのか?」
なんとか笑いを沈めたヴィルヘルムは、エレオノーレの顔を見つめた。
「ええ。覚えるだけだと知識は身につかないの。自分で解釈して使ったり教えたりして、初めて本当の意味で覚えられるの。アウローラがあんなに楽しそうに勉強してるのを見るのは久しぶりだわ。」
「そうだな。いつもは『遊びに行きたい』ばかりだったのにな。今じゃあいつ、勉強を遊びくらい楽しんでる。」
「そうね。時間を忘れるくらい楽しい時って、あるわよね・・・」
エレオノーレの声が少し沈む。ふとした瞬間、彼女の顔に影が差した。
彼女は過去の記憶に心を引き戻された。エルフィンド王立文芸学院で文学を学んでいた頃、白エルフの同級生たちからの冷たい視線や嫌がらせに気付いていながらも、彼女はそれを気にする暇もなく文学に没頭していた。
「トーゲルのヤツ、いっそこのままここに住んでくれねぇかな。アウラの勉強も進むし、鹿や猪だって狩ってくれるだろうし、万々歳だ。」
「山に帰りたいって言ってたわね。」
「あいつ、一人ぼっちだったからな。その方が水に合うのかもな。でも、たまには遊びに来てくれねぇかな。」
「きっと来ると思う。ここでみんなと仲良くしようと頑張ってるもの。」
そう言うと温かな笑みを浮かべ、トーゲルに期待を込めた。
ヴィルヘルムは「仲良くしようとがんばっている」の言葉で再びトーゲルの挨拶を思い出した。なんとか笑いをこらえ、深呼吸して気持ちを落ち着けた。そして、ふと眉を寄せて言った。
「そういや、最近他の大鷲族が巡回に来ないな。何があったんだ?ボス鹿は狩れなくても、他の鹿や猪はなんとかなるだろうに。ちょっと支店に聞いてみるか。」
「そうね。大鷲族って本質的に命令を嫌うから。商会を辞めちゃったとか?」
「あり得るな。俺だってセレナ嬢の部下なら続けられない。毎日やり合うなんてごめんだね。実際、首になったり辞めたり、あるいは服従したり・・・色々聞いてるぜ。」
ヴィルヘルムは机の上に広げた書類を手で払い、少し苛立たしげに語った。
「彼女、言いなりに従わせるのが好きなんでしょ。商会のために結果は出しているけど、強制は良くないわよね。」
エレオノーレはコーヒーカップを軽く回した。
「俺もアイツを認めてるんだぜ?一部はな。廃炭鉱を買い占めようと発案したのは彼女らしいじゃねぇか。今じゃ蒸気機関で地下水も汲み上げて、フル操業だってよ。」
ヴィルヘルムは皮肉交じりに口元を歪めたが、どこか感心しているようでもあった。自分の褒めた口をすすぐようにコーヒーを飲みきった。
「そうなの。よく蒸気機関を輸入できたわね。とっても大きいって聞いたけど、海上隔絶令は?」
エレオノーレは感心しているわけではなかったが、相槌を打ちながらヴィルヘルムの話を促した。
ヴィルヘルムは深く息を吐き、カップを置き直して言った。
「それがな、キャメロットから買ったのは蒸気機関じゃねぇ。設計図と技士だ。それを鉄鋼部門で組み上げたんだとさ。うまく炭鉱と技術輸入、鉄鋼を結びつけやがった、あいつ。」
「そう。優秀なのね。」
エレオノーレはそう応じたが、その口調にはどこか淡白さがあった。実際、彼女は商会の拡大や経済的な成功には関心を持っていなかった。彼女が大切にしているのは、家族や植物といった身近で手の届く世界であり、それだけで十分だと感じていた。
かつて、彼女は自分の力を試したいという欲求に駆られ、行動に出たことがある。その結果、想像を絶するような恐怖と苦痛を味わい、心身ともに打ちのめされた。その経験が彼女に「身の程をわきまえる」ことの重要性を教えたのだった。それ以来、彼女は無理をせず、自分の手の届く範囲で幸せを見つけることを信条としてきた。
再び紡ぎ上げた幸福を手にし、「手の届く範囲が幸せであれば、それでいい」と彼女は自分に言い聞かせていた。
そして今、トーゲルの保護という問題に直面しても、もしヴィルヘルムが支えてくれていなければ、同じ決断ができたかどうかはわからない。エレオノーレの心には、まだかつての傷が深く刻まれており、その傷が彼女の行動を時に制約しているのだった。
「アイツの悪い所は、自分が考える『優秀』を部下に押し付けることさ。魔族種の才能は計算尺で測れるもんじゃねぇ。任せるところは任せてみる。要はそれが『信用』ってやつだろ。部下を信用しなきゃな。」
「あら、そう?それにしては敷地をよく回ってるわね。」
「信用したいから、見て安心したいんだよ。放任とは違う。」
「それで、私も信用してくれてるの?」
「お前は『信頼』だ。どうだ、『使って覚える』ってやつだろ。」
「そうね。ありがとう。」
そう言って彼女は柔らかな笑みをたたえた。
以前、ヴィルヘルムが「信用」と「信頼」を混同して使っていることに気づいたエレオノーレは、思わず訂正し、その違いを説明したことがある。普段、彼女は言葉の使い方には注意を払っていたものの、他者に対してそこまで厳密さを求めることは滅多になかった。しかし、ヴィルヘルムの場合は少し事情が異なった。
彼はラピア農試の農業運営長として、多くの職員と密接にやり取りし、重要な判断を下す立場にある。もし言葉の意味が曖昧なまま使われれば、その影響は決して小さくない。エレオノーレは、彼の立場を考慮し、意識的に指摘したのだ。
「『信用』は、行動や実績によって築かれるもので、ある種の条件付きの関係を意味するの。一方で、『信頼』は、相手そのものに対する揺るぎない期待や感情を指していて、条件を超えた関係性を表しているのよ」と、彼女は具体例を交えながら丁寧に説明した。
さらに、「たとえば、信用は仕事をしっかりこなすことで得られるけれど、信頼は家族や親しい友に対して感じるようなものよ」と付け加えた。
ヴィルヘルムは一瞬考え込み、「教えてくれて助かったよ。悪いが、これからも遠慮なく頼むな」と素直に応じた。その様子に、彼女は思わず微笑んだが、内心では彼の謙虚さと素直さに驚きつつも、深い尊敬の念を抱いた。
それ以来、ヴィルヘルムの言葉遣いは少しだけ慎重になり、その変化はエレオノーレにとって小さな誇りとなったのだった。




