止まり木の勉強部屋
アウローラは、トーゲルが「ありがとう」を言わないことに不満を抱く。ヴィルヘルムの説得で、トーゲルは言葉の重要性を理解し、感謝の表現を試すことを決意する。伝統を超えた小さな一歩が、交流を深めるきっかけとなる。
トーゲルは「ありがとう」を言う練習を始め、職員たちに感謝を伝えることで距離を縮めていく。アウローラは「ありがとう」に意味を込める方法を助言し、トーゲルは挨拶や言葉の使い方を学び始める。一方、彼女の勉強に興味を持ったトーゲルは、計算や数字の重要性について教えを受ける。最初は納得しなかった彼も、アウローラの説明で計算が集団生活に役立つことを理解し、興味を深める。そして、トーゲルは試行錯誤の末に「砕けた挨拶」を試みるが、ヴィルヘルムとアウローラの笑いを誘う結果となる。新しい知識を学びながら、トーゲルは少しずつ社会性を身につけ、仲間との絆を強めていく。
数日後、管理棟の裏手にトーゲルのための部屋が完成した。その部屋は管理棟の裏口に覆い被さるように作られ、木板で構築されていた。床は石畳のままだが、大きな丸太の止まり木が据えられ、飛ぶ以外ほとんど動かないトーゲルには十分な設備だった。特に今は傷ついた翼の回復を待つ身で、排泄時にわずかに羽ばたきながら歩く程度しか動けなかったため、落ち着いて休める場所を得られたことを喜んでいた。この部屋全体は厩舎のように簡素な作りが、雨風をしのげる環境は、もともと山の渓谷を住処としていたトーゲルにとって十分に快適だった。
部屋は管理棟の壁を背にして建てられており、正面には嘴で操作できる観音扉が設置されている。扉は風でばたつかないよう工夫され、出入りのしやすさが考慮されていた。また、部屋の端にはコボルト用の小さな扉も設けられ、勝手口として外に通じている。
止まり木の右前には、小さな椅子と机が置かれている。最近になってアウローラがトーゲルに「勉強を見せてほしい」と頼まれ、それ以来、彼女はこの机で勉強するようになったのだ。
今日も朝から机に向かい、トーゲルと一緒に学び続けている。食事や所用で席を立つことはあったものの、ほとんどの時間を集中して過ごしていた。
「アウローラ、質問がある。」
「なーにー?」
トーゲルが後ろから声をかけると、アウローラは慣れた返事をした。彼女はエレオノーレから与えられた課題に取り組んでいた。
「その問題は、なぜキログラムとポンドを変換するのだ。キログラムのままではだめなのか?」
アウローラは同じ質問をエレオノーレにしたことがあったので、自信を持って答えた。
「オルクセンとキャメロットが商品を売り買いする時、単位が違うから計算が必要なんだって。」
「キャメロットは遥か遠くだ。ここは関係ない。」
アウローラは既に同じ質問をエレオノーレに聞いていた。そして、答えも教えてもらっていた。彼女は得意げに振り向いた。
「でもね、チョコ一袋は一ポンドなんだよ。知ってた?」笑みがこぼれる。
「ここにもキャメロットの単位があるのか。」
「うん。それぞれの国や地方が自分で『単位』を決めてたんだって。でもそれだと小麦やバターを売りにくいから、一緒の単位で比べましょうって、単位がまとまったの。」
トーゲルは首を傾げた。
「ではキャメロットはなぜ統一しない?」
「デュートネに占領されなかったからだって。グロワールは戦争しながらメートル単位を広めたんだけど、追い返しても『便利だからそのまま』って理由で使ってるの。」
アウローラの声には、勝ち誇ったような調子が混じっていた。彼女自身、エレオノーレに教わった知識をトーゲルに披露できることに満足していた。
「なるほど。戦争とは便利なものだ。」
トーゲルの無邪気な一言に、アウローラの顔が曇った。ラピア農試で親しかった労働者たちの多くが徴兵されていたからだ。
世間知らずなトーゲルの質問は慣れてきたが、今回は彼女も感情を隠せなかった。
「全然よくないよ。」寂しそうに、手元の鉛筆をぎゅっと握りしめた。
「大切な友達が大怪我したり死んじゃったりしてると思う。みんな戻ってこない・・・。」
トーゲルは彼女の様子をじっと観察していた。
「トーゲルも、エルフィンドのこと怒ってるんじゃないの?」アウローラは、少し悲しげな顔でトーゲルを見つめた。
トーゲルは教えてもらった『害獣駆除』政策を思い返した。エルフの生活圏を脅かすという名目で数年前に始まった魔種族排斥運動は、多くの大鷲族や巨狼族をダークエルフの狩猟対象とし、生き残った者たちは南のオルクセンへと逃げ延びた。トーゲル自身は縄張りの急峻な地形に守られていたが、ついにその弓は彼の住処にも届いたのだ。空腹の中を土地勘もなく飛び続け、挙句の果てに死にかけたのだった。
「『害獣駆除』か。あれも戦争だったのか。」
トーゲルの声はいつも通り平坦だったが、その中にはわずかな戸惑いが含まれていた。
アウローラは、彼の無表情を見つめながら静かに答えた。
「戦争よりもっとひどいかも。トーゲルは殺されかけて、縄張りも取られて嫌じゃなかったの?」
トーゲルは一瞬目を閉じ、次の言葉を慎重に選んだ。
「嫌だった。しかし、今は新しい仲間ができ、新しい知識も得られている。そういうことか。」
「そういうこと。それとこれとは別。」と彼の言葉に安心したように息をついた。
トーゲルは無言で頷き、再び口を開いた。
「よくわかった。教えてくれてありがとう。」
「お礼も言えるようになったしね。」
アウローラは、自然と微笑みながら彼を見上げた。トーゲルは一瞬瞬きをしてから続けた。
「うむ。礼より肉がいい時は言ってくれ。」
アウローラは思わず笑った。
「それは嬉しいけど、まだ飛べないんじゃないの?大丈夫?」
トーゲルは軽く羽を広げて見せたが、すぐにしまった。
「うむ。回復しているがまだ痛む。時間がかかりそうだ。」
「そっか。無理しないでね。」
彼女は柔らかい声で気遣った。
トーゲルは考え込むように少し黙り、
「それは『相手を気遣う社交辞令』だな。わかってきた。」と答えた。
「合ってるけど・・・わざわざ言わないほうが『社交的』だよ。」
アウローラは少し困ったように眉を下げた。
「わかった。声の調子でも不快さが理解できた。」
トーゲルはしっかりとした声で応じた。
「今なんて言った?」と叱るように声を落とした。
「わかった。」
トーゲルの短い返事に、アウローラは呆れたように小さくため息をついたが、最後には微笑みを浮かべた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、トーゲルが新しい環境で部屋を手に入れ、アウローラと共に学びながら社会や文化に馴染んでいく様子を描きました。特に、単位や計算のエピソードは、人間社会における共通ルールの重要性をテーマにしています。
本作を執筆中に「なぜメートル法が広まったのか」を調べたところ、フランス革命期に統一された単位系が戦争を通じてヨーロッパ全土に広がった背景を知り、深く感動しました。その歴史を取り入れ、トーゲルとアウローラの会話に反映させることで、読者にも「共通単位」という日常に潜む歴史の重みを感じていただければと思います。
蒸気機関も昔は「ニューコメンやワットの何がすごいんだ」と思っていましたが、元はすぐに地下水で水没した炭鉱排水用の発明だと、大人になって感激しました。
また、今回のエピソードでもトーゲルの「文化的価値観の違い」が引き続き描かれています。特に、礼儀や社交辞令に戸惑いながらも学習していく姿は、異文化交流の難しさと面白さを表現するために欠かせない要素でした。
一方で、最後にはユーモアも交え、トーゲルの成長や人間らしい一面を強調しました。文化や価値観の違いからくるトーゲルの勘違いや真面目さは、ほっこりとした気持ちで物語を締めくくれるよう意識しています。
次回は、トーゲルの回復が進むにつれて、より実践的な活動や新たな課題に向き合うエピソードを予定しています。社会や文化の違いを乗り越えながら協力していく姿を、さらに深く掘り下げていきたいと考えています。
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