数字と狩りと「ありがとう」
アウローラはトーゲルに「ありがとう」を言わないことに不満を抱き、父ヴィルヘルムに愚痴をこぼす。トーゲルの文化では感謝の言葉に価値がなく、物理的な返礼が重視されていた。議論の中で、トーゲルは借りを肉で返すと提案し、アウローラはそれを快く受け入れる。一方、ヴィルヘルムは言葉の重要性を説き、社会での共存を目指すよう諭した。最終的にトーゲルは「ありがとう」を試すことを決意し、彼自身も言葉の効力に驚きを覚える。文化の壁を越えた交流が、三者の絆をより深めていった。
ルールを学んだトーゲルは、昨日の職員が目に付くとすぐに礼を言った。
「アスムス、昨日は私を運んでくれた。ありがとう」
アスムスは驚きながらも少し照れ笑いを浮かべ、「いえ、どういたしまして」と答えた。
「ヴィクトル、昨日は止まり木を運んでくれた。ありがとう」
ヴィクトルは少しびっくりした様子で「うん、気にしなくていいよ」と言ったが、心なしかその顔は柔らかくなった。
最初はその言葉に戸惑いを覚えた者たちも、次第にトーゲルが自分たちのルールに従っていることを理解し、彼との距離が縮まっていった。特にアウローラは、その変化に気づき、トーゲルの隣に座り、自分がエレオノーレから教わってきたように、トーゲルに話した。
「トーゲル、礼を言うのはいいことだけど、何か言いたいことがあるなら、それを伝えることも大事だよ。」
トーゲルは頭を傾けて、アウローラの言葉に耳を傾ける。
「伝えたいこと?」
「うん、例えば『ありがとう』の後に『また手伝ってね』とか、『また一緒に仕事をしよう』とか。そうするともっと温かい感じがするんだ。」
「温かい感じ、か。」
「そう。礼を言うことが大事だけど、言葉にはもっと深い意味を込めることもできるんだよ。」
アウローラは柔らかい笑顔で続けた。「例えば、『ありがとう、また一緒に狩りに行こうね』なんて言うと、もっと仲良くなれるんだ。」
トーゲルは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。「そうか。ありがとう、また一緒に狩りに行こう。」
アウローラはにっこりと微笑んで「うん、そう、それだよ。どんどん使ってみてね。」
「誰とも狩りをしたことはない」
「それはその・・・例えだよ。『また遊ぼう』とか『助かったよ』とか。その場で考えるの」
「わかった。」
トーゲルは元々の語彙は多かった。その言葉を使い、相手の様子で成功か、奇異な顔をしたら失敗か、返事の声の調子などから学習し、経験を積み上げていった。
アウローラはトーゲルの成長を目の当たりにし、再び彼に興味が湧いてきた。小さなテーブルを外に持ち出し、トーゲルに自分の勉強を見せ始めた。トーゲルはそれをじっと見つめている。
「その真っ直ぐな枝はなんだ?字が書けるのか?」
覗き込んでいるトーゲルがさっそく質問した。
「これはね、鉛筆っていうの。我が王が『いっぱい勉強しなさい』ってみんなに配ったの」
そう言うと、半分まで減っている鉛筆を持ってトーゲルに見せつけた。
「鉛筆・・・それで字を書くのか。なぜ書く」
「なぜって・・・書かないと覚えられないから」
「そうか。そうやって覚えるのか」
「トーゲルは書かないの?」
「私は書けないし、持てない。持つ時は嘴か爪だ。鉛筆は持てないし、ウサギも掴めない」
「そっか。勉強大変だね」
トーゲルは正面を向き直し、感慨深く語る。
「大変だ。しかし面白い。新しいことの理解が深まる。挨拶も面白くなってきた。これは『社交辞令』に属するのかもしれない」
「『しゃこうじれい』?」
「意味は『その場を取り繕う、面倒を避けるための嘘』だ」
「えー?トーゲルひどい。そんなこと思っていたの?」
膨れるアウローラに、トーゲルは無表情のまま戸惑い、瞬きした。
「違うのか?」
「違う・・・よ。たぶん」
アウローラは自信なさげに答えを絞り出したが、トーゲルは問い直した。
「わからないのか?」
「そう、例えば『お疲れ様』って言うけど、本当は疲れていない場合も使うでしょ。挨拶っていうのは、相手に気を使うために使う言葉なんだよ」
「これも例外か。難しい」
アウローラは小さい顎に手を当て、頭を捻った。
「うーん、『私はあなたの敵ではありませんよ』って意味、かも?」
彼女は自信なさげに答えた。
「それは納得できる。ダークエルフは挨拶せず襲ったし、私も獲物に挨拶しない」
「でしょ?これでまたおりこうになったね」
「うむ。おりこうになった。」
トーゲルはアウローラの助言から、これまで特に成功した例を選別し、相手の応答の仕方も組み込もうと考えをまとめた。
「挨拶の規則性はわかってきた。言葉を付け足し、変化させるといいらしい。次からもっと砕けた言い回しを試す。ところで、その数字はなんだ?」
トーゲルは計算の練習をしているアウローラの式が気になっていた。
「これは算数の問題だよ。数字を使って、数を数えるんだ。」
アウローラは簡単な数式を書いた。エレオノーレから学んだ最初の式だ。
「これは『2 + 3』って書いてあるでしょ?これは『2と3を足す』って意味なんだ。」
トーゲルはじっと見つめた。
「足す?」
「うん、数字を一緒にするの。『2と3を足す』と、答えは『5』になる。わかる?」
「それぞれ違う指だ。なぜ一緒になる」
「え、それは・・・、じゃあ、リンゴが2個あります。あと3個足します。いくつでしょう。数えて?」
思いの外納得しないトーゲルにアウローラは焦った。
「リンゴはそれぞれ違う。なぜまとめる。」
「確かに、リンゴはそれぞれ違うけど、『リンゴ』という種類ではまとまるでしょ?」
「まとまる」
「だから、それを数えた方が便利じゃない?」
アウローラは、ようやく自分の説明が伝わったと感じ、ほっと胸をなでおろした。
「私はリンゴを食べない」
「もー。じゃあ鹿が二頭と3頭、合わせて五頭。どう?狩りで使えるでしょ」
「食べきれない鹿は取らない」
「あーもーわかんない!」
そう叫ぶや否や、彼女は手を伸ばしながら机に突っ伏し、机の上を思い切りバンと叩いた。
「アウローラ、どうした」
トーゲルはその言葉にキョトンとした顔をして、少し首をかしげた。アウローラがなぜ突然伏せたか全く理解できず、目をぱちくりさせていた。
彼女は伏せたまま考え込み、しばらくしてから何かを思いつき、ふっと顔を上げた。
「・・・じゃあこれはどう、昨日の鹿、大きかったよね」
「うむ。初めてみた」
「あの鹿のお肉、大勢で食べて、なくなっちゃったよね」
「そうだ。皮や骨を道具でより分けていた。『ナイフ』という道具を使っていた」
「あれ、1人はどれくらい食べられた?」
「・・・考えたこともなかった。いつも一頭を自分だけで食べて、残してた」
「だよね。数字って、みんなで仲良く分けるための方法なんだよ」
アウローラはいつの間にか説明の確信を突けたような気がして得意げに語る。
「分け合う・・・国か。大勢が暮らすために必要なのか。どれくらい食べたのだ?」
「計算書くから見てて。大体一〇〇kgの重さって言ってたから・・・一〇〇を五三で割って・・・約一.九kg。」
「それはどんな重さだ」
「ちょっと待って・・・この石くらいかな。持てる?」
トーゲルは嘴で石を咥え、確認するように軽く振り、その後静かに離した。
「少ないな」
「多いよ。大人でもコボルト族やドワーフ族は食べ切れないと思う」
「ならば、なぜなくなった。」
「考えられるのは・・・残して持ち帰った、まだ地下室に残っている、オーク族がいっぱい食べた、かな」
「いろんな可能性があるな」
「でも、お腹いっぱい食べられて『みんな大満足』ってことは計算でわかったでしょ。」
「なるほど。すると最初に計算すれば、大勢が必要なちょうどいい量もわかる。腐らせなくていい」
「それ!みんなで暮らすのに便利なんだよ」
アウローラは小さな指をピンと立ててトーゲルの胸元を指差した。その指先は自然にトーゲルの羽毛の間を滑り込んだ。ふわりとした感触にアウローラは一瞬驚いたものの、トーゲルは気にする様子はなかった。
トーゲルは彼女の言葉に感心しながら、軽く頷いた。
「数字というのはすごいな。狩りでは「多い」「少ない」しか考えなかった。大勢が暮らすためのルール、挨拶と同じだな」
「興味出てきた?」
「うむ。教えてくれ」
「おーいお前たち、仲良くやってるか?」
仕事の移動に通りがけたヴィルヘルムが声をかけた。
「パパ、トーゲルがどんどんおりこうになってすごいの」
「・・・・・・」
トーゲルは無言のまま、鋭い視線でヴィルヘルムをじっと見つめて立っていた。
「トーゲル?」
アウローラが少し不安になり、トーゲルを見た。
トーゲルが無表情のまま口を開いた。
「へぃヴィルじゃないか!俺だよトーゲルだ!元気してたか?今度一緒に狩りでも行こうぜ!」
二人は硬直した。直後、腹を抱えて笑い転げた。声を上げて笑いながら、足をバタバタさせてその場を転がり、涙まで流し始めた。
「これは違うようだ。例外が多すぎる」
その一言に、ヴィルヘルムもアウローラも更に笑いを止めることができなくなってしまった。
トーゲルはまたひとつ、おりこうになった。
今回は、トーゲルの異文化への適応と、アウローラとの学び合いを中心に描きました。異文化理解や価値観の違いをコミカルに描きつつ、数字や言葉といった社会的なツールを通じて成長していくトーゲルの姿が伝われば嬉しいです。
トーゲルの「数字」への戸惑いや興味は、実際の人類史を反映しています。人間はもともと「1」「2」「3」までしか認識できず、それ以上は「多い」「少ない」といった相対的な概念で扱っていました。しかし、狩猟から農業へと移行し、定住生活や共同作業が増えるにつれて、計画的な生産と分配が必要となり、数学の発展へとつながったといわれています。何気ない存在ですが、「鉛筆」も大発明で、プロイセンは有数の鉛筆生産国でした。
また、アウローラとトーゲルの掛け合いでは、言葉や礼儀といった社会的ルールがどのように信頼関係を築くために機能するのかを描くことで、文化の違いを乗り越える様子を表現しました。彼の礼儀への試行錯誤や、数字の理解に奮闘する姿は、まさに異文化に飛び込んだばかりの人間そのものです。
さらに、最後のユーモアシーンでは、トーゲルが「砕けた言葉」に挑戦し、大失敗することで、読者にも笑いを提供できたらと思いました。これもまた「失敗しながら学ぶ」という人間らしさを象徴しています。
次回は、トーゲルがさらに深く社会に溶け込んでいく様子や、彼が新たな課題にどう挑むのかを描いていく予定です。彼の成長物語を引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
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