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ファーレンスと信頼の銀翼  作者: 牛猫丸
第二章 お勉強の時間
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肉とお礼とチョコレート

「パパ、私、トーゲルのこと嫌い」


 宴から日常が戻った翌日、アウローラは畑仕事中のヴィルヘルムの元にやってきて、文句を言い始めた。

 予想していた通り、トーゲルの特異性が現実の問題として顕在化したのだと、ヴィルヘルムは内心で思った。

 話を聞くと、アウローラは何をしてやってもお礼を言わないことに不満を抱えていた。例えば、本を読みたいと言われて用意してやり、ページをめくってやっても礼を言わない。水を汲んできても、お礼の言葉は一切なし。

 挙句の果てには、「トーゲルは帰らないセレナのようだ」と言い出したが、ヴィルヘルムはそのような言い方はよくないとアウローラをたしなめた。


「こっちでも調整役か。管理職なんてやるもんじゃねぇな」


 ヴィルヘルムの立場上、彼は実務労働者と技士の衝突を収め、技士と助手の不満を解消し、さらには技士同士の意見の対立をまとめてきた。実務労働者は過剰な指示を嫌い、技士は効率的な支援を求め、助手は負担の偏りに不満を抱えることが多かった。その調整は彼の日常業務の一部となっていた。

 しかし、最も骨が折れるのは商会の監督からラピア農試を守ることである。ファーレンス商会の監督、セレナ・シュタルクは、ラピア農試で情報が隠されているのではないかと疑い、予告なしの突然の来訪を繰り返していた。事前に訪問予定を告げることは稀であり、訪問の頻度やタイミングには一切の容赦がなかった。


 ヴィルヘルムは慎重派で、不確実な新技術を広めることを避け、確実な成果だけを外部に発表する主義を貫いていた。しかしこの方針は、セレナにとっては「隠蔽」と映ることもあった。彼女は現場の技術者たちに対しても、管理が行き届いていない部分を徹底的に指摘し、矛盾を追及する姿勢を崩さなかった。ヴィルヘルムはセレナの冷徹な追及に対し、常に理路整然と成果を説明し、疑念を払拭する努力を強いられていた。



 管理棟裏側のトーゲルの新小屋は農業補助たちが建設中で、まだ完成には至っていない。

 昨晩の宴の後、体が傷んで飛ぶこともままならないトーゲルは、なんとか歩ける程度の足取りで表側の仮小屋に設置された止まり木へゆっくりと向かい、爪で木を掴み重心を預けて一晩を過ごした。

 そして翌日の今日、アウローラはトーゲルとしゃべっていたが、トーゲルの無礼な発言に我慢がならず、アウローラは怒りを募らせ、ついにはヴィルヘルムに告げ口をするに至ったのだった。


 昼食後、ヴィルヘルムはアウローラを呼び出し、嫌がる彼女を交えてトーゲルと話をした。険悪な雰囲気の中、彼は二人の間に立ってその場を収めようとした。




「トーゲル、『ありがとう』って言葉を知ってるか?嫌味じゃなくて、言葉の意味を知っているかということだ」

 ヴィルヘルムが問いかけると、トーゲルはキョトンとした表情を浮かべた。一方、アウローラは腕を組んでふくれっ面のまま、黙って二人のやり取りを見ている。


「嫌味は知らないが、『ありがとう』はもちろん知っている。感謝の意を伝える言葉だ」

 トーゲルはあっさりと答えた。その口ぶりには自信があったが、その裏には彼の特異な価値観が潜んでいた。大鷲族として語り継がれた伝承から膨大な語彙を知識として持っている彼だが、言葉は使われることで初めてその概念が深まる。彼にとって「ありがとう」は知識として存在するだけで、感情や文化と結びついた本質的な意味は未知のままだった。


「正解だ。俺たちは何かしてもらったらその言葉を使って感謝を示すんだ。わかったか?」

 ヴィルヘルムは根気強く説明したが、その言葉を受けたトーゲルは、首を傾げながら冷静に一言返した。


「意味がない。」


 ヴィルヘルムとアウローラはまさかのトーゲルの返事に驚いた。


「意味がないって、どういうことだ?」


「そうよ、どういうこと?親切にしてもらったらお礼を言うのよ」

 ヴィルヘルムに合わせてアウローラも続いた。


「借りは何か具体的なもので返す。アウローラは肉を食べるか?」


「お肉好きよ」


「あ、ああ。俺と同じで大好きだ」


 父親の趣向を受け継いだのか、アウローラは小さな体にひたすら投資するように、肉をよく求め、食べる。そのため、高給取りのヴァルトマン家であっても、財布の中身は立場に似つかわしく軽くなりがちだ。しかも、彼女のこの「投資」は、まだ目に見える成果を上げていない。


「なら飛べるようになったら獲物を狩って渡す。それで借りを返す」

 トーゲルはそう言い切ると、当然のことのように首を少し傾けた。


「ページをめくった礼に肉を?」

 ヴィルヘルムは呆気にとられた。


「ほんとに?トーゲル、いっぱい本見せてあげる!」

 アウローラは目を輝かせながら即座に答えた。


 その率直すぎる反応に、ヴィルヘルムは思わず眉間に手を当て、アウローラに「ちょっと待て」と身振りで制した。

 ヴィルヘルムは普段、アウローラにねだられるままに自分の分け前から肉を渡しており、食べられる量はいつも十分とは言えなかった。それでも親としての責任感から彼女に優先して与えていたが、アウローラ自身ももらった分ではまだ満足していなかったのだ。


「そうだ。水をくれたことも、試験場を教えてくれたことも覚えている。いつか肉で返す」


「もしかして、エレオノーレにも肉か?」


「そうだ。ヴィルヘルムへの礼は、あの鹿だ。納得してくれたか?」


「お肉おいしかった。トーゲルありがとう」

 彼女は昨晩、久しぶりに浴びるように肉を頬張った。野生の大味な鹿肉も、彼女にとっては十分なご馳走だ。これで数日の間は、肉への欲求は満たされるだろう。


「お、おう。大納得だが・・・礼を言わない代わりに肉を送るのか?なぜ礼を言いたくない?」



「礼には意味がない。言っても借りは返せないし、階級を作るのは悪いことだ。私の立場が弱くなる。」

 トーゲルは真剣な口調で言い放った。その言葉には彼の独自の価値観が色濃く反映されていた。


 難民になる以前、トーゲルが属していたコロニーは、険しい地形により他部族との交流がほとんどなく、隔絶された環境で独自の文化形態を築いていた。その中で「立場の上下を嫌う」という考えは共通の価値観として根付いており、感謝の言葉や儀礼的なやり取りによって社会的な格差が生まれることを避けていた。

 その代わり、彼らの文化では「言葉より物質的な返礼」が主流だった。借りがある場合、それは具体的な行動や物品で返すべきものとされ、言葉だけで済ませることは「空虚」と見なされていた。

 トーゲルにとって、「ありがとう」のような感謝の表現は、自身の文化においては意味を持たないものであり、むしろ自らの立場を弱める行為と映っていた。その価値観は、先のアウローラとの短い会話の中で、すでに軋轢を生む原因となっていた。


「なにぃ?」

「そうなの?」

 ヴィルヘルムはアウローラを静止した。彼は改めてトーゲルが生きてきた社会の特異性に驚いた。隔離された小さな社会ではこういうことが起きるのかと、驚嘆と感心を繰り返すばかりであった。


「トーゲル、長くなるが聞いてくれ。」

 そう言うと、ヴィルヘルムはトーゲルに語りかけた。

 彼はまず、故郷を追われた辛さを認めつつ、ここオルクセンで安全に暮らせることを伝えた。将来近くの山へ移る選択も可能だが、この国で暮らす以上、人々と関わることは避けられないと指摘し、そのままでは不要な争いが生じると警告した。

 そして、些細なことで誇りを損なう必要はないと諭し、「小さな借りは『ありがとう』で済ませ、大きな借りは後で返せばいい」と提案した。ヴィルヘルムの言葉には、共存の必要性とトーゲルへの配慮が込められていた。


「な?トーゲル、些細な問題を起こさないのもお前の誇りだろ?試してみないか?」


 トーゲルは無表情のまま黙り込んだ。ヴィルヘルムは、一方的にしゃべりすぎたかと不安になる。いままで何十年、何百年生きてきたか。積み重ねたその常識がひっくり返ったのだ。


 彼は一呼吸して、頼み込むように語りかけた。

「どうかこの国を嫌いにならないで欲しい。他では生きられないし、この国に馴染んで好きになって欲しい。完璧じゃないが、泥まみれのエルフィンドに比べたらチョコレートでできた国なんだ。気に入って欲しい。だから、とりあえずそう理解してくれないか?」


「パパ、チョコどこにあるの?また食べたい」


「また今度な。今はトーゲルの話だ」


 チョコレートは、オルクセン王国では非常に希少な嗜好品だ。南星大陸から輸入されるカカオ豆は、キャメロットを経由することで輸送コストと関税が大幅に増加する。寒冷地のオルクセンではカカオの栽培が不可能であるため、完全に外国産に依存している。このため、一〇〇グラムのチョコレートは労働者階級の月収の一割に相当し、高嶺の花であった。チョコは特別な祝い事や贈り物として珍重され、アウローラは誕生日のお祝いに与えられたチョコの味を今でも忘れられずにいる。


 無表情で考え込んでいたトーゲルは、口を開いた。

「質問がある」


「おう、なんだ。なんでも聞いてくれ。」

 ヴィルヘルムは、まずはトーゲルが聞く気があることに安堵し、少しほっとして返した。


「国とはなんだ?」


 その言葉に、一瞬驚き、考え込むように視線を遠くに向けた。少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。

「国、か・・・。」


 実際、彼自身も「国」について深く考えたことはない。漠然とは感じていたが、それは何か大きな力のような、大きな意思のような物に見えていた。彼の世界は、目の前の畑や農場、そしてその土地で生活する仲間たちのことだけだった。「国」や「王」のことは、生活の一部であっても、どこか抽象的で遠く、そんなものを深く考える暇がなかった。のような問いをされたのは、幼いアウローラが好奇心旺盛だった頃の質問攻め以来のことだった。


「国ってのは、でっかい縄張りだな。その中で王様が決めたルールに従って安全に暮らそうと言う場所だ。みんなで分け合って、飢えている者がいたら、飢えていない者が助ける縄張りだよ・・・たぶん。」


「王・・・階級があるのか」


「ま、あるな。俺も好きじゃねぇ。だがな、高い階級には大きい責任があるし、低い者をいじめても許されねぇ。細かく階級があって例外も多いが、そんなもんだ。低地オルク語だって例外多いだろ。全部が簡単な規則じゃないのさ。新しい言葉も新しいルールも、慣れるまで時間がかかるのさ。」


「階級や空虚な返礼は伝統に反する。」

 トーゲルは無表情に答えた。幾代にもわたって受け継がれてきた伝統を、急に変えるという考えは彼にとってあまりにも性急すぎた。


「頼むよ、トーゲル・・・」

 ヴィルヘルムはすがりつくように言葉を重ねた。このままではトーゲルは孤立してしまうだろう。確かに大鷲族は獣と共に生きることも可能だが、オルクセンでの新たな生活では最低限の社会性が必要だとヴィルヘルムは考えていた。彼は、ここまで世話をしてきたトーゲルを今更見捨てることはできなかった。


「伝統に反するが、争いは誇りを損なう。やってみようヴィルヘルム。教えてくれてありがとう」


「おう、なんでも・・・」彼が返しかけた瞬間、ふとした違和感に気づき、耳を疑った。

「今、礼を言ったか?」


 ヴィルヘルムの胸中には、驚きと喜びが入り混じった感情が一気に押し寄せた。これまで頑なに伝統を守り続け、感謝の言葉すら口にしなかったトーゲルが、自らの文化を少しだけ越えた瞬間を目の当たりにしたからだ。彼の中で「トーゲルに理解させるのは不可能かもしれない」という不安がふっと消え、わずかな希望が生まれた。


「パパ!」

 ヴィルヘルムとトーゲル、二人は同時に再び驚きの声を上げた。


「それがこの国のルールだろう」


「そうだ!飲み込みが早いじゃないか!それでこそお前だぜ」

 ヴィルヘルムは満面の笑みを浮かべながら、トーゲルの胸を力強く叩こうとした。しかし、その手のひらは羽毛の柔らかな層に包まれ、中身にはまったく届かなかった。


「チョコレートは知らないが、親切はわかる。皆にも礼を言う。アウローラも、ありがとう」


「どういたしまして、トーゲル。あと、チョコは最高においしいよ。早くお誕生日来ないかなー」

 アウローラは、以前少しずつ大切に食べた濃厚な味を思い出し、恍惚の表情を浮かべた。


「これで肉の代わりになっているのか」

 トーゲルはヴィルヘルムとアウローラの反応を観察しながら、実感のないまま半信半疑で試した「礼を言う」という行為の効率と効果を冷静に分析していた。伝統では無意味とされてきたこの言葉が、予想外に有効であることに驚きを覚えていた。


 ヴィルヘルムは肉を食べ損ねたことを若干後悔したものの、それ以上にトーゲルがこの新世界に慣れようとする意思を感じて嬉しかった。

「まぁーそんなところだ。だが、仲間は何かと分かち合わないとな。たまには肉でもいいぜ。ウサギとか」


「おいしいよねー。私大好き!」とアウローラがはしゃぐ。

「ウサギは潰すので渡すのが難しい。鹿でいいか」

「おう、大歓迎だぜ」とヴィルヘルムは笑いながら答えた。


 いっぽうトーゲルは、礼儀という軽い行為が、どれほどの重量の肉に匹敵するのか、合理的な結論を出せずに考え込んでいた。


今回は、異文化との衝突をテーマに、トーゲルとヴィルヘルム、アウローラの関係を掘り下げるエピソードを描きました。大鷲族としての価値観を持つトーゲルが、オルクセンでの生活に馴染もうと奮闘する姿を通じて、異文化理解の難しさや、共存への第一歩を描くことを目指しました。


トーゲルの「感謝を言葉で示さない」という文化的背景は、アマゾン先住民族ピダハンを参考にしています。ただし、実際のピダハンは独自性を強く貫くため、本作ではトーゲルを世間知らずで純粋なキャラクターとして描くことで、話を進めやすくしました。


また、アウローラの素直で無邪気な言動が、緊張感のあるシーンに温かさと笑いを加える役割を果たしてくれたのではないかと思います。特に「チョコレートが食べたい!」という子供らしいセリフが、家族の温かさや日常感を引き立てるアクセントになれば嬉しいです。この時代には固形チョコはなく飲み物でしたが、アウローラに食べさせたくて40年ほど早めてしまいました。イギリスがカカオを独占し、関税も高かったため超高級品でした。


今後も肉が出ますが、当時はご馳走だったんでしょうね。シカやイノシシは獣臭がすごいですが、当時の牛は美味しかったのでしょうか?メンデルの法則登場以前ですが、経験的に品種改良はされていたようです。1959開始のソ連 ベリャーエフのキツネの家畜化実験では、数世代の選択交配でキツネの性格が明らかに変わったとか。


今回のエピソードを楽しんでいただけたでしょうか?感想や「いいね」をいただけると、とても励みになります!


これからも応援よろしくお願いします!

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