秋麗
秋麗…秋晴れの心地よい気候でのどかなこと。
秋麗…ニホンナシの品種
姫秋麗… ベンケイソウ科グラプトペタルム属の多肉植物。
人差し指でチャイムを押す。秋祭りのために帰省した、その日の夜の時分であった。
「すみません、秋辻です。結城の知り合いの」
どうせ地元に帰るのなら随分前に入籍の報告をくれた友達に手土産の一つでもと、紙袋を持っての挨拶である。けれど、彼は不在のようで、彼の親と当たり障りのない会話をして僕は引き返すことになった。
お土産だけは渡したけれど、彼と最後に会ったのは同窓会の時だ。あれから六年が経とうとしている。実家を出て、結婚相手と仲良く暮らしているのだろう。僕が知っているのは彼の実家だけで、今彼が何をしていて、どう生活をしているのかすらも知らない。
車に戻り「連絡いれればよかったかなぁ……」と、一つ伸びをする。随分前に交わしたメッセージの履歴に映る彼のアイコンは女性とのツーショットなので、彼女が結婚相手だというのはすぐに分かった。
今からでも何か文言を送れればいいのだろうが、僕の指が携帯の文字盤を触ることはなかった。別段、喧嘩別れをしたとか、気まずい関係というわけではない。こういうところでうじうじとしてしまう自身に溜息を吐いて、僕は車を走らせた。
わざわざ休日を潰してやってきた秋祭りといっても大きなものではなく、こじんまりとした地元のお祭りだ。祭り自体は明日で、今日はこのまま実家に泊まることになる。
田舎の夜は早い。午後七時になればスーバーは閉まるし、街灯なんてあってないようなものだ。時間のわりにやけに暗い道路に目を細めた。
実家に着いても、懐かしいという感情はあまり僕の中にない。長時間の運転で疲れたし、親との会話でも疲れる。
やれ彼女はどうだの、結婚はどうだの。そんな辟易するような話題ばかり。
こんな内容の会話をしたのは一度や二度ではなく、その度に適当な返しをしてきた僕だけれど、今日この日は虫の居所が悪く、つい強い言葉が漏れてしまった。それでも親子であるからよほど険悪にはならないものの、空気は悪くなる。こんなことならお酒を買って帰ればよかった。
お盆や年末ならまだ我慢するが、そう頻繁にお小言をもらっていては体がもたない。早々に少しカビ臭い自室に撤退して、田舎の星をぼんやりと眺める。部屋の電気を消せば、星明り以外は闇となって、遠く、両親の会話だけが耳に入る。
部屋に適当に放り投げていた鞄を手繰り寄せ、タバコを取り出す。右から三本目。最初に取り出すときはいつもここからだ。
両親が寝静まれば、田舎の音が耳に届く。虫の声ではない、環境の音が体に沁みる。
目を閉じ、乾いた布団に横たわった。小さな敷布団の中で脚を曲げ、布団からはみ出さないように姿勢を整えれば眠気はすぐにやってきた。
朝一番から親の足として起こされた僕は、通勤渋滞に悪態をつきながら親を送り届けた。帰りはバスで帰るようで、それなら行きもバスで行けばいいのにと思わずにはいられなかった。
その足で何もせずに帰るのも負けたような気分だったので、物産店を物色してみることにした。何か面白いものがあれば会社の知人宛に購入するのもいいかもしれない。
そうして適当に冷やかしている途中で、僕はばったりと過去の友人と出会ったのだ。
「あれ、麗……?」
聞きなれない高い声で名前を呼ばれたことに妙な居心地の悪さを抱えつつ、僕は振り返る。
「あーっと、誰?」
落ち着いた服装でありながら黒髪ウルフヘアの女性に見覚えのない僕は、一歩後ろに下がって記憶の中を探るものの、こんなイケイケ、一度見れば忘れそうもない。けれど彼女は僕の名前を知っていて、余計に頭にハテナが浮かぶだけだ。
「優花だよ。覚えてるでしょ」
「えー……あぁ、中学一緒だった」
「そうそう」
覚えていて当然だなんて、そんな風に話すユウカに苦笑いを浮かべながら「こんなとこで何してんの」と口を開いた。
「今日秋祭りだよ、そんなの決まってるじゃん。ウララもそうだと思ったんだけど違うの?」
「いや、僕もそうだよ。なんていうのかな、ふらっと行きたくなって」
「お互い歳をとりましたなぁ……」
「ユウカも婆さんになっちまって」
彼女からの腹パンをやんわりと受け止めた僕たちの雰囲気は、一瞬で過去のものと同じになった。
中学一年時。たまたま席が近かったことで僕とユウカとは友達になった。あの時かけていた眼鏡はコンタクトに変わり、彼女の頑張りか雰囲気も変わっていた。
逆に、僕はあまり変わっていないように思う。高校、大学をなんやかんや、のらりくらりと過ごせてしまったせいで社会人になってから苦労したので、まったく自慢できることではないのだが。
「で、何選んでるの? みかんソーセージ?」
その不味さを僕は知っているから、何をどう間違えてもそれだけは買わないよ。
「他のやつを適当に選ぶよ。何選んでも変わらないし」
「変わらないことはないけどね」
「ユウカは何か買いに来たの?」
「んー、自分で食べるやつ買いに来た」
恥ずかし気に「へへへ」と笑う彼女に、僕もつられて笑みを返す。「それなら」と物色する棚を変え、一緒にあぁでもない、こうでもないとひやかすことの、なんと楽しいことか。昔と枕詞はつくものの、お互いに接し方が分かっているのも大きいのだろう。
「いやー、ありがとね」
「お互い様でしょ」
僕と彼女はそれぞれに商品を手に取り店を出た。併設されているお店でアイスでも買おうかとも思ったが、今日は少し肌寒い。チラッと確認しただけで店を出た。
「祭り、一緒に回らない?」
他に用事もなく、帰る段になって僕は彼女にそう問いかけた。勢いに任せて口から漏れた言葉に僕自身がテンパってしまい、彼女からしたら変な人に見えただろう。
それでも、彼女は「いいよ」と目を細めて笑った。
「楽しみにしてるね」
「そんな期待されてもな。そうだ、連絡先交換しておかない?」
「そうだね、ほら」
差し出された携帯のQRコードを読み込んで交換した僕の連絡先を見た彼女は「下の名前で登録してるんだ」と、「よろしくスタンプ」を送ってきた。
「別にいいだろ? どんな名前で登録してたって」
「名前嫌いじゃなかったっけ」
「え、いや? そんなことないけど」
名前で少しいじられたことはあったが、名前が嫌いだったことはない。なにせ昔のことなので、彼女はきっと勘違いしているのだろう。
「えー何かあったと思うんだけどなぁ」
「何かはあったよ。ユウカも知ってる」
「え、っていうことは中学の時だよね? 何かしたっけ」
「覚えてないならいいんだ、別になんでもないことだったから」
当時、僕のなんてことのないもやもやは、彼女のなんてことのない言葉で解決した。だからそれは本当にどうでもいいことで、僕の大切な、思春期特有の青苦い思い出であるのだ。
「それより、何時ぐらいに集まろうか」
そう言って僕は話題を逸らした。
僕こと、秋辻麗はほんとうに一瞬だが、名前でいじられていた。
国語の授業がなにかで麗が春の季語として紹介され、誰かが僕に言ったのだ。「春なのに秋なのかよ」と。
当時は一時そういうイジリが続き、僕はうんざりしていたのだけど、その時に隣の席だったユウカが「あ、でもほら。秋麗っていう季語もあるんだって」と言ってくれたことで僕の心は幾分か救われた。本当になんてことのない一幕だったけれど、僕の記憶に印象強く残っているものだ。
家に帰って適当に時間をつぶした後、僕は周囲を見渡しながら「早く着きすぎたかな」と呟いた。
バス停からとことこと神社の鳥居まで歩いてきた僕は腕時計を見る。ユウカと約束した時刻までは余裕があるけれど、人自体は集まってきていていよいよだと、祭りの装いを呈してきていた。
「おまたせ。待った?」
「いや、そんなに」
「そこはさぁ……」
「そういう仲じゃないでしょ」
僕は苦笑いを浮かべた。
朝と変わらない服装であるのに、彼女は魅力的に見える。提灯の柔らかい明かりや祭りの雰囲気がそう見せるのだろうか。
神社の中から祭囃子が聞こえてきたので僕たちはそれにつられるように、どちらからともなく神社の敷地内へと足を向けた。
「結構人いるねー。もっと過疎ってるのかと思ったよ」
「場所じゃない? うちの近所の神社とか維持も大変みたいな話してたよ。どこから聞いてくるのか」
「あー、やっぱりそうなんだ」
どこの親もあることないこと、どこからか噂を仕入れてくるものだ。ユウカも思い当たる節があるようで、うんうんと頷いている。僕もいい歳になったように自分では思うのだけれど、どうも、そういう話を聞く機会はとんとない。近所付き合いのする、しないでここまで差が出るものなのだろうか。
「女の人は職場とかで他の人と話す機会多いからね。ウララはさ、何の仕事してるの?」
「工場勤務で変わらない毎日の繰り返しだよ。ユウカは?」
「私は普通に事務仕事だよ」
そういえばユウカは商業高校に進学した、という話を耳にしたことがある気がする。
彼女とは成人式でも会っているが、それぞれ男同士、女同士でかたまっていたから、あまり会話を交わすようなことはなかった。今思えばもったいないことをしたと思う。
それから僕たちは祭囃子を聞きつつ、適当な屋台を巡った。とはいっても、全てを見て回るのに五分もかからない。ベンチは近所の子供たちでいっぱいで、手に持てるだけ、少しだけの飲食物で雰囲気を楽しむ。
仕事の愚痴であったり、共通の知り合いが今何をしているのかだとか、そんな他愛もない話が楽しかった。……のだが、話題一転。僕は冷や汗をかくことになった。
「そういえば」と軽い口調でユウカの口から出てきたのは、今日交換したばかりの連絡先の話題だ。
「ウララのアイコンさ。どこかで見たことあるような気がしたから帰ってから調べてみたんだよね」
「あー、そうなんだ」
「これってさ、姫秋麗だよね?」
「まぁ……そうだね。それにしてもよくわかったね」
「えっ、普通に画像検索したよ?」
今日ほど文明の利器を恨んだこともない。
「それで思い出したんだ。思い出したっていうより、こんなことあったかなぁ……みたいな感じだったんだけど、この秋麗?って初めて聞いた気がしなくてさ。なんか中学の時にあったよね?」
「授業で麗が春の季語として出てきた時に……」
「あ、思い出した。あれだ、私が男子たちに秋麗がどうこう言ったんだっけ?」
「そうだよ」
恥ずかしさからか、どうしてもぶっきらぼうな対応になってしまう。あぁ、そうさ。その出来事は、男子中学生が恋に落ちるには十分すぎたのだ。男とは悲しいもので、何年も過ぎた今でも、僕は彼女にうっすら好意を寄せている。
じゃあなんでそんな相手に、その経緯を話しているんだろうか。恥ずかしくて死にそうだ。身体だってほのかに熱を帯びてきたように感じる。
「それで、どうして姫秋麗をアイコンにしてるの?」
ユウカは買ってきた缶ビールを開けて僕と目を合わせた。
これ、言わないとダメなのか。僕は意識的に彼女の視線を切って息を吐いた。
「……そのことがあったからだよ。それから姫秋麗が好きになったんだ。ただの秋麗はニホンナシの品種だから、素人では育てられないだろ?」
「そうなんだ。ちょっと嬉しいかも」
「なんか恥ずかしいからもうやめてくれ……」
「えー」
ユウカが可愛らしく身体を揺らす。彼女の面白いものを見つけたような声色から逃げるように、自分の缶ビールに口をつけた。
けれど、姫秋麗について彼女が調べたというのなら、僕のこういった行動も意味はないのだろう。
「姫秋麗」の花言葉は「秘められた恋」。
馬鹿らしいかもしれないけれど、僕は今、幼い頃の恋をやり直しているつもりなのだ。
祭囃子は神を褒め称え、豊穣を祈願し、結果を感謝するものらしい。今日こうしてユウカと一緒にいられるが神様のおかげだとしたら、俺も今から祭囃子に参加するべきなのかもしれない。
太鼓ぐらいなら参加できそうだ。ドンドン。