ある日、夢を見た。
私はふと気がつくと、誰もいない図書館にひとり、立っていた。
別段なにか本を探しているという訳でもないだろうに、書棚をただ無意味に眺めているのだ。
動物学、地学、小説、漫画、医学、数学、哲学。
節操のない書棚は、ジャンルに関わらずただひたすらに本を抱いている。
それはなにか大切なものを取られないように抱き締める幼児のようで、私はそのうちの一冊の本の背の上に人差し指を滑らせた。
す──、と、微かにざらざらとしたコーティングのされた本の感触を指の腹で確かめる。
そして背表紙の一番上に指の先を掛けてその本を引っ張り出す。
これは児童向けの絵本だろうか、可愛らしいうさぎの絵が表紙に居座っている。
私はそのうさぎの頬を、そっと撫でた。
書棚をふと見ると色々な本がぎっしりと詰まっていた。
この絵本を返そう、私はそう思ってその書棚から離れて別の書棚へと向かっていった。
するとこの図書館の司書であろう女性が歩いてきた。
「何か探しているのですか」と問う女性に、私は「ええ、本の居場所を」とだけ言った。
随分と詩的な表現だと我ながら感心した。
うさぎの絵本を手に持った私がまず向かったのは、当然、児童向けの絵本が並ぶ書棚だ。
ずらりと並ぶ書棚は、全部で十七だろうか、よくもこんなに絵本を集められたものだ、と図書館なら当たり前のことに、私は深く頷く。
しかしこのうさぎの絵本が入りそうな隙間はどこにもない。
どの書棚もみんなぎりぎりまで本を抱いていて、また新しい本を入れるだけの余裕はなさそうだ。
既に大量の本の詰まったダンボールが並んでいることからも、本来はもっと大量に本を並べなくてはならないことがわかる。
書棚はもう飽和状態だというのに、この書棚に並びたいという本はとても多いのだ。
そこでふと、児童向けの書棚に何冊か場違いな本が詰められているのに気がついた。
見るからに難しそうな数学の問題集や英和辞典、それに哲学書なんてものも胸を張って並んでいる。
ここの司書は働いていないのかな、なんて思いつつ、心のどこかではそんな場違いな本が平然と並び、何も言わない本がそれを囲んでいるのを見て、居心地の悪さを感じていた。
こういう場違いな本は排除すべきだ、秩序が乱れる。
そう考える自分に、私は色々な本が並んでいてもいいじゃあないか、と答えてやった。
いやに静かだ。
物音ひとつしない図書館は異様で、誰の呼吸音も、足音もしない中を、私は迷うことなく進んでいく。
途中また女性が「居場所は見つかりましたか」と訊いてきたので、私は「どうにも居心地が悪くて」と苦笑いした。
それは自身の正直な感想である。
だがこうして冗談らしく口にすることで、それが本当に嘘になるような気がしたのだ。
女性はどこか表情の読めない笑顔で、「そうですか」と呟いた。
次に向かうのは中高生向けの小説の並ぶ区域だ。
本来ならばこんな所に絵本を並べるなんてご法度だろうが、絵本に問題集やらが並ぶ図書館だ、誰も気にはしまい。
しかしどうやらこの絵本の居場所はここでもないらしい。
ひと目見れば、ここに絵本などが入る余地などない書棚なのだと確信した。
並ぶのは男女の恋愛を綴った可愛らしい表紙の小説や部活動に全力投球の爽やかな表紙、それに硬っ苦しい問題集や参考書ばかりだ。
ここはちゃんと規則性があるのだな、なんて思う。
でもその割には児童向けの書棚に比べて本のない空隙が目立つ。
この隙間はなんだろうか、そんなふわふわとした疑問を思い浮かべながら、その間隙に指を入れて撫でる。
どこか周りの本が嫌がっているような表情になったような気がして、すぐに指は抜いたが。
私はふと、手元にある絵本に目を向けようとして、何冊かが床に落ちているのを見た。
哲学に物理、生物学に医学、絵本に辞書。
それを見たときに、私は、ああ、これがこの書棚の空隙なのだな、とわかった、わかってしまった。
この書棚から落ちた本たちが、今、私の足下に散乱している本たちなのだろう。
どうして落ちてしまったのか、どうして這い上がれないのか、どうして空隙に対して、誰も何も言わないのか。
そこになにか不満とか、不条理を感じて、そっと目を逸らした。
私にどうこうできる話ではない、私には関係ない、私が気にすることではないのだ。
そうやって、自分に言い訳して、目を、逸らした。
「また、目を逸らすのですか」
そんな女性の声が聞こえた気がして振り返ると、そこにいたのは先程の司書らしき女性。
私はあくまでとぼけて、「なんのことですか?」と訊いた。
また。
彼女はそう言ってこちらの目をじっと見ている。
おそらく私は、彼女と知り合いで、彼女の前でなにかから目を逸らしたのだろうと感じた。
でも、これはきっと夢だ。
まだ何か言いたそうな彼女の視線を無視して、私は足下の本を踏まないようにしながら次の書棚へと向かう。
次はどこにしようか、そんなことを考えて。
一歩、また一歩。
一歩、更に一歩。
結局どこも一緒だろうと考えた私が選んだのは、日本の小説家の小説を集めた書棚だった。
そこは元々単行本や文庫本が入り乱れていた場所だったが、今ではもっと可愛らしい少女の表紙やヒロインを抱いて剣を担いだ主人公の表紙のライトノベルが混ざっている。
なるほど、しかしここは他に比べれば規則正しいようだ。
書棚に入り切れないほど本があるのは児童向けと同じだが、中高生向けとは違って隙間もなくぎっちりと詰まっている。
それに、確かにここには小説しか並んではいない。
中には日本人とは思えないような名前の作家もいるが、それはペンネームというやつなのだろう。
私はライトノベルのつるつるとした背表紙に指を添えた。
一見仲間はずれのように見える彼らも、こうして見ればちゃんと規則正しく並んでいる。
「この絵本を入れる隙間はない、か」
そう独り言ちると、私はそっと書棚から離れた。
すると、今までちゃんと見ていなかった書棚の全体像が見えた。
凄まじく大きかった。
これはどこまで続くのだろう、そう思って目を凝らしてみてもまだ、その天辺は見えない。
随分と遠い──そんな所から本が落ちれば痛いだろうな、なんてくだらない思考に頭が支配される。
多分、本当に落ちてくれば怪我じゃ済まないと思えるくらいに遠い天辺を、私は首が痛くなるほど上まで見上げた。
するとふと、ほんの二メートルか三メートルほどの高さに、昨年の終わり頃に出版された私の好きな作家の作品があった。
もう届かないな、そんなことを思った。
図書館なのに好きな本を読めないのは不思議だが、出来の悪い私の頭が精いっぱいに創り出した夢なのだ、文句など言わずに見てやろう。
私はそのまま視線を持ち上げて、好きな作家の作品を探した。
本の捜索途中で、私はふと、気付いた。
この本はどれも出版された順に並んでいるということに。
上に行けば行くほど、その本は古く、下にあればあるほど、その本は新しいものであるようなのだ。
私の脳みそも随分と変わった並べ方をするものだ、少しだけ感心して視線を下ろす。
もしかすると、この本たちは今までの日本で作られた全ての小説なのかもしれない、なんてくだらないことを考える。
この貧相な頭がそんな書棚を想像できるはずもない、精々が自作のタイトルの本を置くくらいだろう。
とは言ってもまともなタイトルなんぞ思いつくはずもないが。
「これ、凄いでしょう。貴方の考えた通りなんですよ」
いつの間にか隣に立っていたのは、先ほどの女性だった。
私の姿を真似るかのように、遥か遠い書棚の天辺を目を細めて見ている。
一体彼女は誰なのか、彼女の目的は何なのか、私は彼女に何をしたのか、ここは、どこなのか。
色んな思考が頭の中をぐるぐると暴れ回り、そして口からは言いたい言葉は零れない。
「私の、考えた通りって?」
「これは全部、出版された順なんですよ。ほら、あれを見てください」
私の言葉に笑顔で応えた彼女は、そっと左手をのばしてずっと遠くにある書棚を指さした。
「あそこが、日本の小説家の棚の始まりです。ここには選ばれた小説しか並んでいないというのに、こんなに沢山の棚が必要なんですよ」
それだけ多くの作品が、毎年、毎月、毎日、出版されているということだろう。
彼女は私の目を見て小さく頷いた。
「それに、それだけ自由が認められているということでもあります」
自由、か。
たしかにこれだけの本が並ぶのは、自由を制限されていないからとも言えるだろう。
あまりに作家から自由を奪えば、ここまでの作品は生まれないからだ。
しかしそれでも、こんなに膨大な数の本を、一体どうやって並べているのだろうか。
新しい本が下にあるということは、上にある本すべてを退かしてから並べ直さなければならないはずだが。
「勝手に並ぶんですよ」
私の心を読んだように、女性が言った。
疑問の答えにはなっていないように思うが、ここは私の夢だ、本当に勝手に本が並ぶのだろう。
得心のいった私は幾度か頷いて、今更ながらに女性から逃げるようにして書棚から離れる。
女性は一体何者なのだろうか──私の夢だというのに、そんなくだらないことが気になって仕方がなかった。
棚の間の通路から出て後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいない。
瞬間移動でもしたのかと有り得ない想像に笑いが零れたが、夢なのだから有り得ないこともないと思った。
瞬間移動。
なるほど私の考えそうな移動方法だ、そう考えれば彼女の神出鬼没な動きにも説明がつくように思える。
今度会ったら聞いてみようか、なんて思うが、それは何故かはばかられるように感じて、想像するだけに留めることにした。
次はどこの棚に行こうかと周りを見渡しても、特に面白そうなものは見つからない。
私は絵本の居場所を探そうとしているのだから、別に面白いものなどなくても構わないはずだったが、それも気分だ。
これは折角の夢なのだから、探し物ばかりではなくて少しは楽しみたい。
キョロキョロと見回していると、端の方に小さな棚が並んでいるのが目についた。
ビジネス書やら、渋い時代小説やら、アダルティで到底図書館という公共施設に置くべきでないものまでが置いてある。
ふと棚に書いてある分類を見ると、『零細企業』と書いてあった。
小さくて個性豊かで、仕事の出来そうなやつから出来そうもないやつまで、多くが並んでいた。
確かに私の職場にもこういう人たちがいるな、と笑う。
棚で異色を放つファッション誌の背に指を滑らせ、これは後輩の山崎だなとか、アダルティな本を取り出して上司の河野だな、と批評した。
随分と勝手で適当な決めつけだが、私の夢なのだから当たらずとも遠からずというところだろう。
「見ていて楽しいですか」
「……ええ、とても」
「これも、貴方の考えた通りなんですよ」
背後から声が掛けられる。
もう何度目かのやりとりであったから、そちらを見ることもせずに答えたところ、先ほどと同じ言葉が返ってきた。
「そのファッション誌は山崎さんですし、そちらの成年誌は河野さんです」
どうやら、本当にそれぞれの本が人間を表しているようだ。
ならば私はどの本なのだろうか、突如腹の奥が温度を失って、無理矢理に意識を司書から手元の本へと引き戻した。
うさぎの表紙が目に入るとすぐに自らの行動を悔いた。
「……なら、これが私か」
分かってしまった答えを口にすると、司書の頬が気味悪いほど歪む。
もともと比較的顔立ちが整っていたように思っていたが、今はむしろ、何か得体の知れないものを見ているようだった。
残酷に嗤う化け物は私のほうへ一歩だけ踏み込む。
私よりも幾分小さいはずの体躯はいつの間にか大きくなり、彼女の視線が体を這いずるたびに肌が焼ける冷たさを感じた。
こちらを見下ろす化け物は私をひどく責め立てる。
「いつまでも餓鬼で、無神経で、愚鈍な男です。自分探しの旅だとかくだらないことを吐いて出ていって、結局は自らの居場所を奪っただけだった」
彼女の口調は次第に強くなっていった。
「他人を嘲笑うしか出来ない愚図。空気を読んだ振りをして逃げる臆病者。愛すら貫けないひ弱な男だ」
誰に対してのものなのかすら定かではない、様々な言い訳が頭の中を駆け回っては消えていく。
チクリとした頭痛がした。
「さようなら、私の大切だった人」
最期に見えたのは、視界を覆う赤い何か、そして人間よりも遥かに大きな白い歯であった。
視界が暗闇で閉ざされると同時、全身を激痛が襲い、意識は途切れた。
寝覚めは最悪であった。
汗で濡れたシャツが冷たく肌に張り付いて、身を起こしても背筋が冷えきったままである。
場所はいつも私が寝ている寝室であった。
ふと横を見ると、ベッドの横にやけに中身の詰まったバッグが置いてある。
そこで私は、昨日の自分が自分探しと称して旅に出ようとしていたことを思い出した。
どうやら悪夢を見たらしく、すっかりと自分探しなどというくだらないことに時間を費やすのが嫌になる。
自分探しの旅はまた今度にしよう。
そう言った時の妻の三日月のような唇が、印象的な朝であった。