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皐月のこと。隔世(上巻)

お久しぶりです。いろいろ、実生活で忙しくここにたどり着けませんでした。遅ればせながら今年もよろしくお願いします!

童は額の汗をぬぐった。

長い長い石段を登りきると、噂どおりに黒々と古い宮があった。

闇参り・・・叶え事を一心不乱に思い続け、山を登れば願いを聞き届ける宮にたどり着ける。

それが言い伝えであった。

下界したからは少しも見えなかったが、宮の頑丈な門には折から吹く風に微塵も揺らがぬ異形の灯火がともっている。

「・・・っ」

宮の前の上と下を分かつ二本の柱をくぐろうとすると、突然体が強張った。

頭を無理やり押さえつけられるような威圧感についに膝を折る。

「そこなわらべ

声を辿って視線を上げるといつの間にか、胸に宝珠たまを下げた少女が傍らに立ち、強いまなざしで千尋を見下ろしていた。

優雅な童装束ではあるが、ぞっとするような冷たい目をしている。

「ここは明山主めいざんぬしが宮じゃ。行きはよいよい帰りは怖い・・・知らぬかえ」

少女が指で二つの柱の先を指し示す。

初めこの威圧感は少女から発せられるものとばかり思っていた。

けれど、いまは分かる。

明明あかあかとした異形の光に照らされた白い玉砂利のその先。

閉ざされた扉のその向こうから。静かに漂ってくるその気配。

額づいたその額がいよいよ地に触れようとする。

「あれより先は人の住処ではない、どうだ。怖いか、恐ろしいか。声もでまい」

嗤うような声に、思わず歯軋り。

・・・怖いものか。

・・・恐ろしいことなど、あるものか。

苦悶の表情を浮かべた養父母の顔が脳裏を焼く。

怖いことなど、あるものか。

ありなど、しない。

心の奥底から、頭を擡げる朱よりも黒よりもくっきりと鮮やかな感情。

胸の奥底で暗い色を放って燃える冷たく消えることのない炎。

ジリと砂利が音を立てたのは、両の手に力を入れたから。

決して・・・許せるものか。

この魂に変えても。

圧に抗いじわじわと頭を上げる。

頑強に逆らった顎から冷や汗がしたたり落ちた。

少女が含み笑ったその時。

砂利を踏む音がした。

「闇参りとは、珍しい」

たおやかな芳香が鼻腔をかすめ、しっとりとつややかな風が耳朶を掠める。

「あぶく、意地悪はおやめなさいな」

涼やかな声に思わず顔を上げて、体が軽くなったことに気がつく。

鮮やかな唐衣が目を射た。

この世のものとも思えぬ端正な面立ちが穏やかに向けられている。

「明山主」

傍らの少女がつぶやいて、跪ずく。

「許しなさい。この娘はまだ生まれて間もない。だから獣の性が残っていて、少し意地悪なの・・・さて」

その人が美しい声で、名を呼んだ。

ここに来てより一度も名乗ったことがないのに、呼ばれて思わず目を見張る。

「貴方の望みは・・・そうね・・・その刀を振るうにふさわしい打つ手を知らせよと、そういうことね」

はっとして、思わず続きをまつ。

「貴方と鍛冶宗由の打った刀は確かに稀有だけれど、人ならざる者を討つには、到底及ばない。刀を抜い御覧なさいな。それが、本当にただの鈍らか、それとも何かが足らぬだけなのか、それとも討手が粗忽者であるためなのか。お見せなさいな」

いま一度、畏怖をこめて平伏し、持参した刀をそっと抜き放つ。

白刃が燃える灯火の明かりを捕らえて、赤い光を放った。

山の主はその光を細めた目で受け止めると、顔をそらして明山の深い森を見遣った。

・・・そうねと小さなつぶやき。

やがて唇に滴るような微笑が浮かぶ。

子供のように邪気がなく、またとても残酷な微笑み。

女神と呼ばれる存在の、内に秘めたる聖と魔性のそれぞれに確かなありようを顕にする。

「近頃、わたくしの山でわたくしの許しもなくわたくしに従う八百の物の怪を駆って、遊ぼうとするこうるさい獣がいるの」

「獣?」

「尾は九つ、姿は狐。毛並みはすばらしい白金・・・あれが欲しい。手元におきたいわ」

「・・・それは・・・九尾」

「それを狩ってきて頂戴。我が元に下らせて」

「・・・下らせるとは・・・そのようなこと、人たるわが身にて」

「方法は、おのずと知れる・・・それができずして、紅葉を打つことなどできるものか。打つ手は端からお前より他にはない。分かったなら、おさがり。行って、獣を狩っておいで」

明山主は背中を向けた。

つややかな黒髪がきぬの上でゆれた。

灯火が消え、あたりに闇が落ちる。

深い深い明山の闇。

九尾の狐・・・神を相手にするようなものではないか。

けれど、決めたのだ。

この命を賭しても必ず成し得ようと。

童は刀の柄を握り締めた。


私は・・・決して、退かぬ。

そして、決して死なぬ。

この志、遂げるまでは。


1)


雨が降っている。

きれいな水が降っている。

ととさまったら、そんなずぶぬれになって。

五つになったばかりの豊虫とよむしが、あまり意味もわからないまま、ただ父親を見上げてはしゃいでいる。

さあ、これで助かったぞ!豊作じゃ。

そう言って笑っているのは、むらの長さま。

落ちてくる雨粒が顔をたたいてうるさいのもそのままに、それでも瞼をひくつかせながら、口をあけぱなし。天のその恵みの生まれ来る先に目を凝らしているのは、仲のよかった幼馴染。

その唇が言葉をつぶやいた。

なんて言ってる?


コノアメハアノコダ


鼻をつままれても分からないような暗がりで我に返った。

最後のその瞬間にだらしなく開かないように、さらし紐で縛って整えた足がこわばって、しびれている。

目を開いて飛び込んできたのは、鮮やかなきれの色。

ここにいることにならなければ、少女が触れることもないまま一生を終わるはずの高価な着物。

ここにいることにならなければ、野良仕事で疲れたとと様の肩を揉み、豊虫を寝かしつけて、そうして・・・


輿に乗せられてここまで来たときには、酒とおなかいっぱいの食べ物で、ほかほかしていたのに、今はこの体がひどく薄っぺらになってしまったよう。

しんと静まりかえった闇の中。

昼なのか、夜なのか。もはや分からない。

気が変になりそう。

息がしづらい。

息が足らない。

手で口元を覆う。

本当は、胸をかきむしりたい。


あたしは・・・


霞逝く意識の中で、必死に手を合わせた。

とと様の笑顔、豊虫の穏やかな寝顔。

小高い丘から見下ろした青田の広がり。


いつもあたしたちをお守りくださる神様、仏様。


どうか、どうか。


この身と命で、村を購ってください。


ひもじいのも、痛いのも、苦しいのもいやなんです。

人が死ぬのは、いや。人が争うのも、いや。

おなかをすかせた弟は、今日もうちで泣いている。

食べる物どころか、水さえもないというのに、役人が税を出せとやってくる。

怒鳴り声と鞭の音が戸口に迫ってくる。

やっと役人が帰って、日が落ちて、夜が来る。

夜が来るのが怖い。

静かになったときに、いろいろ考えなくてはいけないのが怖い。

おなかをすかせて、目を閉じても眠ることさえできない。

明日がやってくるのが怖い。

朝になるのが怖い。

ずっとこんな朝が永遠に続くのだと、気づくのが怖い。

あたしたちはどこにもいけないのに。

逃げることもできないのに。

神様。

遠いところにいらして、あたしたちが乾いた土くれにまみれてもがいているのをみていらっしゃって、少しでも哀れんでくださるのなら。

助けてください。

一粒の雨、一粒の米のために祈っているんじゃありません。

明日も、一月も、一年も、十年も、百年も・・・いいえ、千年でも・・・ここで守りたい。

どうか、あたしを村を守る者に生まれかえらせてください。

それが、自分で望んだあたしの望みなのです。


2)



黒い物体の表面に緑の苔がまだらについている。

鼻腔を掠めるどこか物悲しい薫り。

極め付けが、カラスの鳴き声。

目の前に広がるのは、一面の・・・いや、見間違いに違いない。

落ち着け、私。

右手を見れば、開けた視界いっぱいに美しい景色が見える。

空は青。

山は緑。

少し下がったところに、こじんまりとした可愛らしいバス停が見える。

そして・・・眼前の・・・墓場。

助手席のナビが大きくため息。

「たまちゃん。だめじゃないか」

「はあ?」

「だめだよ。引き寄せたり、引き寄せられたりなんかして」

「なに言ってんだ。だいたい、たける兄!あんたの言うとおりに来たらこうなったんだよ!」

「実は・・・こういうの苦手なんだ」

今更の告白・・・いや、爆弾発言。

もう分かってたけど。なんだか、道幅狭くなってきたころには半ば気づきかけてたんだけど。

・・・とっくに手おくれだって。

「苦手なら、あんたが運転して、私がナビすればよかったんじゃないか!」

「仕方ないだろう?それに、石上くんは僕の友達だよ。この旅行だって、彼が僕にどうぞって言ったから、実現したんだよ」

「いや、私も佐代ちゃんからお誘いもらったから」

今ゴールデンウィークの真っ只中。

それぞれ、同じ学年の石上兄と妹からゴールデンウィークでもって閉館するという彼らの実家・・・石上旅館に招かれたのだ。

「・・・こんなことなら、こうを連れてくるんだった」

「愚弟はな、最近付き合い悪いんだよ。本当だったら週末のたびに家に帰るはずなのに。何かと言い訳して寮に住み着いてる」

武の弟の皓は今年から、県内の白露高校に進学している。

家族とは週末ごとに戻る約束だったのに、所属している地域研究会の活動が忙しいとか、図書委員の蔵書整理がどうとか、いろいろ言い訳して戻ってこない。

「いい友達でもできたんじゃない?兄ちゃん離れするときだったんだよ」

「・・・そうだな。それに・・・」

顔を背けたたける兄が、横顔でポツリとつぶやくように言った。

「あそこは城山だしな」

従兄弟の少しとがった顎の形に、斜めになった太陽の光が当たってるのに気がついた。

我に返る。

早くしないとたどり着く前に日が暮れるじゃないか。

こんな薄気味わるいところで。

携帯は圏外だし。

日本にこんな未開の地がまだ残っていたとは。

サイドミラーでその狭さを確認。

とりあえずバックだ。

Uターンは無理。

ガードレールなしのがけ沿いの道を、車一台やっとの道を、バックで・・・戻る。

ええ、そうとも・・・若葉マークをつけて。

「どう考えても、あんたが運転すればよかったんだ」

へらへらと罪のない笑顔で従兄弟が言う。

「無理無理。おいしい大人のジュース飲んじゃたんだし」

「だ・・・から、あの時飲むなといったんだ。だからナビのねじもどっかで落っことしてくるんだ」

「ナビはね、山間部、住宅地、天候の具合では交信が途絶えて、誤差が生じることがあるんだ」

「へえ、あんたGPSついてんの?・・・ここのどこが、住宅地だ。天候は晴れだろう。山といってもここは丘のてっぺんで、さえぎる物は何もない」

「見えないシールドが、さ」

「へえ、あんた何かと交信してんだ。衛星か?神様か?宇宙人か?・・・ああ・・・そうか、異次元だな。お前の故郷は第三惑星か?早くバルタン星人にでも迎えに来てもらえ」

「たまちゃん、僕がいなくなったら、寂しいでしょ。それに第一、僕、この車唯一のナビだよ。高性能機器だよ。僕いなくなると困るよぅ」

・・・一体、誰のせいでこうなったんだ。

「キャトルミューティレーションだ・・・おまえ、世界平和・・・恒久的宇宙平和のために、キャトルミューティレーションされてしまえ」

と、後部座席から衝撃。

「っ?」

言い争いをやめて後部座席を振り返ると、そこでは二人の化生がつかみ合っている。

「誰だ?勝手に他人のおやつに手をつけようとしてんのは!」

可愛らしい華やかな着物を纏った春日が、眉をいっぱいに引き上げて叫んでいる。

「こりゃあ、親切さ。・・・駄目だよ!春日はるひおやつは300円までって決めただろ!」

白々しい大童子の微笑み。

「おやつは300円分だわね!」

「じゃあ・・・なんですか?これは。なんですか?春日ちゃん」

・・・お・・・お前ら・・・。

「こっちは、夜食。こっちは別腹だわね」

「先生ぇ、そんな子は連れて行けません。ここでおやつを残しておりなさぁい」

大童子が春日を押しやろうとすると、春日が負けじとその手にしがみつく。

「いーやあだ、前歯でくらいついて、離れないわね」

カプリと鮮やかに大口を開けて大童子に食らいつけば、とうの大童子が悲鳴を上げる。

「いたたたたたっ。お前、どんな躾されたの?母ちゃんの顔みてみたいわ・・・食うな食うな、お前共食い系妖怪だったのかよ」

・・・いや・・・多くは望むまい。

「私の母は荒れ狂う日本海、父は実り豊かな北山山系だわね!だれが、共食い系だ・・・お前のようなだめ野郎が、私と同種と思うなよ」

「じゃあ、海にでも山にでも帰りなさいっ!とーちゃんとかーちゃんが心配してんぞ!」

・・・楽しい旅?・・・だし。

「あっ!UFO・・・!」

右指を虚空に向けた春日の動きに、つられて大童子が視線をさまよわせる。注意をそらした春日の左手が容赦なく菓子袋を奪い去る。

「この、卑怯者っ。嘘つきは泥棒の始まりってんだっ、しらねぇのか?」

小童こわっぱ。こんな子供だましによく引っかかっておいでだね」

・・・収集がつかないよ。

「おーまーえら、この状況わかってんのかっ。携帯も通じない、頼みのナビもいかれている。そして深い山奥に置き去りなんだよっ。村人一号も二号も三号も見えないんだよっ!」

すっと息を吸って続ける。化生二人の肩越しに小さなバス停の青いベンチがちらりと見えた。

「静かにし・・・っ」

二人の化生と、武兄が、急に言葉を止めた私の顔を見た。

だって・・・。

私は見たものが幻ではないかと思って何度も何度も瞬きをした。

指をそろそろと持ち上げて、先ほどまで確かに無人だったバス停を指した。

三人同時に頭を動かして振り返る。

その青いベンチには、今4、5歳ほどの子供が呆然とした様子で腰掛けている。

「子供が・・・急に・・・椅子から」

そう・・・ぽわんと。

「椅子から?」

こちらを振り返った武兄がすっと目を眇めて、聞き返した。

私はごくりとのどを鳴らす。

のどが・・・カラカラだ。

「椅子から沸いて出た」



3)


たどり着いた石上旅館は先祖代々三百年、直し直し受け継いできたという噂のとおりの貫禄。

平屋の木造建築は黒光りする瓦が緻密に積まれていて、古めかしいことこの上ない。

しかし、まず先決は例の子供だ。

おかしな登場の仕方をしたのはさておき、どうやら妖怪、化生の類ではないし、生身の人間の子供だ。

まず電話を借りて警察に迷子の届出をした方がいい。

家族が心配しているかもしれない。

これが、武兄と私の見解。

後部座席の春日と大童子に挟まれて、子供は自失したように遠くの一点を見つめたままだ。

着衣は汚れていないし、見たところとくに目立った外傷もない。

「おい・・・餓鬼。どこから来たんだ」

大童子がペシペシと頭をたたく。

この化生は、ぶっきらぼうを装いながら、この新しい客人が珍しくてちょっかいを出したくてたまらないらしいのだ。

「こら、汚い手で触るな」

私の声に大童子が不満そうに手を引っ込めると子供の目が不安げに動いた。

手を伸ばして大童子の暗い衣のすそをつかむ。

指が白くなるほど。

「おっ。見ろ、たまき。子供は正直じゃねえか。誰が一番心きよらかか、ちゃあんと分かってるんだ。子供は神様の物だとよく言ったもんだね」

大喜びしている大童子の横で、春日が不機嫌そうに沈黙している。

いかん、これはまたけんかの種だ。

「くだらないこと言ってないで、その子をおろしてやって」

素直に大童子が従うと、先ほどまで死んだように穏やかだった旅館の中から人々が転がるように飛び出してきた。

「祐ちゃん!」

母親と思しき人が子供の身体をしっかり抱く。

「どうして、いなくなったりしたんっ?」

ゆすぶられても子供はどこか上の空で、くたりくたりと頭が重そうにゆれた。

「どうもご親切に」

安堵の表情の年配の男が近づいてきて、私たちに頭を下げた。

「あの、僕、今日たずねることになってた日下です。さっき迷って上の方の墓地に言ってしまって、そこのバス停でこのお子さんを見つけたんです。どうも家の人がいないみたいだし、様子がおかしかったので、旅館で電話を借りて警察に連絡しようとつれてきたんです。ここの家の子だったんですね」

武兄が手短に説明していると、庭の方からタイミングよく石上隆弘・佐代兄妹が姿を現した。

「わあ、よかった」

「祐ちゃん、日下一族が見つけてくれたの?」

一族・・・固有名詞にそういうのをつけると変な武装集団みたいじゃないか。

幾分落ち着いた様子の母親がこちらに初めて目を向けた。

「あの・・・申し遅れまして・・・息子の祐太をつれてきて頂いて、本当にありがとうございます。佐代と隆弘の姉の幸代です」

「父の隆夫です」

年配の男が言ったので、にこやかに武兄が会釈した。

「改めまして、僕が日下武、こっちが環です」

武兄が私の後頭部に手を掛け、無理やりお辞儀させる。

そんなことしなくても、礼儀ぐらいは心得ている。

反論の言葉を世間体という大きな壁を前に飲み下し、引きつる頬を押さえにこやかに微笑む。

「こんにちわ。お世話になります」

「で・・・」

全員の視線が幸代に釣られて大童子達の方に向く。

・・・え?

「こちらのお二方は?」

ぎょっとして武兄と顔を見合わせる。

今日はこいつら『見える』バージョンなのか、そんなこと打ち合わせしていなかったぞ。

武兄が眉をひそめて、小さく首を振る。

無理だ、どうごまかせと言うんだ。

私は片眉を上げる。

さて、どうする。

われわれの関係性を・・・。

武兄と無言の問答を繰り広げていると、ついぞ聴いたことのないさわやかな声が鼓膜に飛び込んできた。

「あ、どうも。実は僕、石上旅館に一度きたことがあって、今年閉館するって聞いて、懐かしさのあまり無理についてきてしまったんです。僕、日下一族の友達で尾上大三郎といいます。こっちは妹の・・・」

えっと、だれだろうこのさわやかこの上ない男は。

陽菜はるなです。よろしくお願いします」

可愛らしい声。

あれ、春日、出雲弁はどこに行った?

そう思ったとき。

「ひいおじいちゃんが・・・連れ戻してくれた」

はっきりと幼い声が言った。

「祐たん、どうしたの?・・・おじいちゃんって。おじいちゃんは祐たんが赤ちゃんときに亡くなったよ。覚えてるわけないじゃない」

佐代が屈んで問うと、祐太がようやく焦点を結んだ視線を皆に向けた。

「ひいおじいちゃんがこっち側に連れ戻してくれたの」

その場にいる者がみな、子供の語る異様な話に耳をすませている。

「おじいちゃんはどこに?」

私の問いに祐太は首を横に振った。

「女の子に連れて行かれちゃった。あとはわかんない・・・でも」

「でも?」

「ひいおじいちゃんは、逃げろって」

子供は澄んだ瞳で皆をしっかりと見た。

子供は確かに神の側のものだ。

私は静かに身体の毛が逆立っていくような感覚を覚える。

なんだろう。怖い。

とても怖い。

この話は、よくない。

「早く、ここから、少しでも早く逃げろ」

子供は後に何度も思い出すことになるその言葉で、はっきりと警告した。


「ヤマメが降りてくる」



3)


初めての春を覚えている。

あたしは、村を眺められる場所から、水の張られた田んぼを見ていた。

田んぼは空の色を移し、きらきらと輝いていたっけ。

本当は、昔そうしていたようにあぜの間を歩き回り温かくゆるんだやわらかい水に触れたかったけれど、この変わってしまった体では到底里におりることはできない心持だった。

そっと笹の小道を下り、開けた場所から様子を伺うと、以前より遠くを見渡せる目を得た私には、村の者達が田植えの準備をしているのが手に取るように分かった。

豊虫も着物をからげておお張り切りだ。

ふと豊虫が顔を上げてあたりをきょろきょろと見回した。

・・・あねちゃま

その幼い声に胸をつかれる。

そうだよ。あねちゃまはここにいるよ。

ここでずっと豊虫のことを見守っているよ。豊虫の子や孫が飢えないように、楽しく暮らせるように。

豊虫の傍らに、見覚えのある女が立ってその頭をなでている。

あ、あれはお隣の後家さん。

女手のいなくなったうちの後妻に来たのだとすぐに知れる。

ああ、もう下界したにはあたしの居場所などないのだ。

そう、この姿かたちはもはやあたしだということすら分かりはしないだろう。

でも、いいのだ。

あたしはこうして雨を降らせ、夏にいつくしんでは育み、秋には実らせ、冬には癒すのだ。

そうして村を守るのだ。

下界のみんながあたしに手を合わせている。


みやさん、どうか今年の実りがよくなりますように。


分かってるよ。

分かってる。

でも、もうだれもあたしの本当の名前を呼んではくれない。

ぽっかり開いた穴から染み出してくるようなこの寂しさをあたしはいつか、忘れよう。

そうしてみんなが飢えることのない、病に怯えることのない村を一日、一日、ずっと先まで積みあげていくのだ。



温泉饅頭を両の手で二つに割ると中身は栗餡だった。

うん、最高。

けれど、今日に限って私の連れはみんな大人しい。

そもそも、大童子と春日が借りてきた猫のように大人しくお茶をすすっていることが異常事態だ。

二人とも実体化バージョンで居座るつもりらしく、先ほど部屋にやってきた仲居さんもきちんと人数分のお茶と菓子を出してくれた。

けれど、いずれも何事か考えごとにふけっていて静かなことこの上ない。

特に春日は、どこか遠くの気配を辿るように時折、障子の向こうをじっと凝視している。

突然、武兄がぽつりと漏らした。

「嫌なところだな」

「ちげぇねえ」

ふふんと大童子が鼻で笑ったとき、廊下にパタパタと軽い足音が響いた。

続いて『待ちなさい、祐たん』という佐代の声。

とんと襖が開け放たれ、祐太が飛び込んできてまっすぐ大童子に歩み寄るとその背中に隠れた。

「おぅい、どうした餓鬼」

さしもの大童子も、驚いたとばかりに首をねじって幼子を見た。

祐太は既に大童子の着物のすそをつかんで、離すもんかといわんばかり。

「わあ、祐たんだめじゃない」

そう言って、呆れ顔の佐代が襖の隙間から顔をのぞかせた。

「ごめんね。疲れているのに」

「いいよ。でもどうしたの?」

私の問いに少し困り顔の佐代。

祐太はいよいよ持って大童子の背中に隠れる。

ひどく怯えているような気がするのは、気のせいか?

「さっきから、祐たんたら女の子がいるって聴かないんだ。気味悪いったら。あ、勘違いしないで、うち別に幽霊旅館じゃないから」

「そうだろうね」

武兄が頷いた。

「ところで、ここ辺りで人が住んでるのってこの旅館だけだね」

「え、ああそうです」

突然の質問に面食らった様子で佐代が頷いた。

武兄。

何を意図した質問だろう、私は飄々とした武兄の顔を観察する。

「初めはこの辺りには村があったらしいんですけど、交通の便も悪いし、病院は遠いしバスも本数ないでしょ。だから年寄りが住むには不便で。若い人はみんな出て行くし、今ではうちだけになっちゃったんです。ちっちゃい時は10件ぐらいあったんですが。仲居さんも実は隣の町から無理言ってきてもらってて」

「ふうん。じゃあ実質、住んでるは家族だけなんだね」

「はい」

佐代が頷いたときだった。

すぐそこの廊下で幸代さんの悲鳴が上がった。

何事かと駆けつけると、幸代さんが板張りの廊下でペタリと座り込んでいる。

反対側の廊下から仲居さんたちと石上父がかけてくるのが見える。

どうしよう、どうしようとつぶやいている。

「おねえちゃん。どうしたの?」

佐代が強く言ってゆすぶると、幸代さんはゆっくりと首を左右に振りながら、自ら口にしていることが信じられないというように眉根にしわを寄せて言った。

「隆弘が目の前で、煙みたいに消えちゃった」

居合わせた全員が、それをにわかに信じがたく、言葉がでない。たしかな動揺がお互いの間を埋めている。

「消えるって・・・」

壁と柱で仕切られた狭い廊下。

しかもここは離れで、客室はここだけ。

消えようがない。

私はバス停からの祐太出現の様を思い出していた。

あんなふうにぽわんときえてしまったのか。

後ろで大童子が武兄にいった。

「お前、城山でやってたこと、まだできるか」

「・・・見くびってんの?」

プライドの高い従兄弟は不適に笑っているのだろう。

大童子が『まさか』と喉で嗤う。

「だったら、境目さかいめを作っとけ、気休めにはなるだろう」

そして私たちにしか聞こえない声で付け足した。


『気をつけろ。狩りが始まっているぞ』



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